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7. 人魚の住みかへ潜入

「いらっしゃいませ、お嬢様」


ゆっくりと開いた電子ドアの向こうで出迎えてくれたのは、一昔前の推理小説にでも出てきそうな老執事だった。白い髪、黒い燕のような執事服を整然と着こなしている。その年齢に現れてくるであろう背の曲がりはあまりなく、まるで少し首を竦めた様に歩くその背中を見ながら、ルナはその背の後をついて行く事になった。


―何故こんな事になっているのかは数時間前にさかのぼる。


「君にはある一族へ侵入して貰うよ」


画像や文章が並ぶ部屋の中、それらを背後に従えてアルヴィンはニコニコしながらこちらを振り返り、あっさりとそう口にした。ルナは一瞬だけぽかん、と呆けた後、え、と声を上げたのだった。


「…一族、ですか」


ややあって、ようやく言葉に出来たのがその一言だった。アルヴィンはそれにそう、一族、と答え、再び従えていた画像達の方へクルリとチェアを回転させて向き合った。

タタン、彼がキーボードを再び叩くと、パッ、と文章が書かれた画像が浮かび上がる。


「…マーフォーク…」

「そ」


彼は満足そうに再び頷くと、その指をボードに走らせて次々に関係画像を浮かび上がらせた。目の前に輝く電子の粒子は、その文字や写真を鮮明に映し出している。


「マーフォーク一族…時代が変わる前から、それこそ世紀をまたいで彼らは存在するとされている。一族の詳細は一切不明、生没年すら、だ。俺らの現れる所に彼らはしゃしゃり出て、神命を邪魔する…ち、思い出して腹が立ってきたよ。兎も角何もかもが不明だ、腹ただしい事に」


ギリィ…とアルヴィンは憎たらしい、と言う顔で己の歯を食いしばっていた。これは憎たらしいではないか。むしろ…

(本当に殺してやりたいと言った顔だ)

彼の顔をそっと眺めながら、ルナはそんな事を思った。腰掛けたチェアがキィ、と小さな音を立てる。彼の気を荒立たせない言葉をじっくりと考え込んでから、閉ざしていた唇を開いた。


「…私がする事は…とどのつまりは、その一族への侵入と調査と言う事でいいのですか」


今まで口を閉ざしていた自分が発言したのに驚いたのか、アルヴィンは一瞬きょとん、とした顔をした後、言葉を理解したと言った風にぱあ、と表情を明るくして笑った。


「そうだよ。君はある没落一族の令嬢としてそのマーフォーク一族主催のパーティに潜入してもらう…勿論、こちらの情報は出していない。そこに抜かりはない。そして君にはその一族の情報を仕入れ、そしてこちらの組織の幹部の死因が分かればそれも仕入れておいで。ああ、死因なんか次の次で良い、様は」

「彼らが関わったと言う証拠が手に入ればいい」


彼の言葉を引き継ぐようにルナはそのまま彼の言いたい事を差し込んだ。それに満足したのか、アルヴィンが嬉しそうに微笑んで膝の上でその白い手を組む。


「そ。流石に分かっているね、ルーナ。そうだよ、様は彼らに仕掛けるだけの『理由』が欲しい。ね」


微笑みながら彼の手がそっと忍びこんでくる。ひんやりとしていて体温を感じさせないその皮膚は、冷たさをぞわ、と身体に這いあがらせてくる。閉じていた唇を、震えを堪えて開く。


「その理由で戦争を仕掛けるだけの『理由』。彼らを叩きのめせるだけの理由」

「いやだなあ、ルーナ。そんな横行なモノじゃあない」


幼さを残すその美貌が、ゆっくりと微笑みを作って、視線を向けて。


「『殺し合い』をする為だけの理由だよ」


まるで今日の天気は晴れで良かったとでも言うように朗らかに、純粋な眼差しを向けて彼は笑った。その美貌に相応しい微笑みは、知らない者が見ればなんと美しく見えるだろう。

その微笑みの奥深くに隠した闇は純粋なあまりに人を惑わす。


「でも、気をつけて。マーフォーク一族はこの自分ですら情報を掴ませない謎の一族。何が起こるか分からないからね」

「……分かっている事はないのですか」

「うん? そうだな…そうだね…ああでも唯一分かっている事があったかな」


『マーフォーク一族は、その名の通り人魚の一族と言われる。もう一方で彼らは、不死の一族とも呼ばれているんだ』




―そして今の状態に至る。

老執事は依然として口を閉ざし前を歩いているので何を考えているのか分からない。彼も人魚の一族の一人なのだろうか。永久に生きる事の出来るという噂は本当なのだろうか? そうならば彼が年を取る必要もない気がするが…


「お嬢様はこの一族の事をご存知でしたか」


ぼんやりと考え事をしていたルナに、突如老人のそんな問いが降りかかった。顔を上げて前を見ると、執事服の彼がいつのまにか立ち止まり、品定めする様な眼差しで片方の側だけ顔を向け、こちらを見つめていた。冷静になれ―こちらの惑いを悟られてはならない―落ちつかせる様に心の中で唱えてから、ルナはそっと唇を開いた。


「…長い、歴史のある一族だと。お名前の通りに、人魚に関わりのあるとは察しましたが…」


それを聞いた途端、執事の彼はふ、と口元にわずかな笑みを浮かべた。


「…そう。歴史はありますね。……お嬢様は人魚のイメージをどうお持ちです?」

「人魚のイメージ? ぱっと言われて…アンデルセンのおとぎ話が浮かびます。後は…セイレーン」


視線を上に向けながら考えてそう答えると、執事は先程からたたえた笑みを絶やさぬままそう…と呟いた。


「人魚というのはその伝説を辿れば古代バビロニアにて崇拝されたオアンネス、という男神―海神から来ているとされています。オアンネスはその後ペリシテ人に受け継がれて半人半魚の神ダガンにもなった。シリアでは月の女神アタルガティスが半人半魚の神として崇拝されました。男に冷たくされて湖に身を投げた娘が、魚の尾を獲得し女神になったーこの女神は川や海の豊穣をあらわし、海の女神の泡から生まれるヴィーナス女神の系統の原形になったのではないかとも言われます。

また、お嬢様が言われたセイレーンは紀元前6世紀にはギリシアの壺に顔は人間、身体は鳥の姿で描かれている。セイレーンは元々鳥の姿だったそうです。それが時を経て鳥から上半身裸体の姿へと変貌を遂げた。それはセイレーンが海の神であった名残を残しているからとも言われますが、その大元になったのはやはり『オデュッセイア』でしょうな」

「…トロイア戦争から帰途につくオデュッセイアの航海をえがいた叙事詩…でしたか」


その辺の知識はまるでないので、おそるおそる口にしてみると、果たしてそれがあっていたのであろう、執事はその顔に更なる微笑みを浮かべて頷いたのだった。


「セイレーンの島に近づいた時、オデュッセイアが魔女キルケー忠告を受ける。〝船乗りたちには蜜蝋で耳を塞がせ、貴方はマストに縛り付けられていろ〟と。そしてその時が来る。セイレーンたちはその美声をもってオデュッセイアを惑わす。しかし船乗りは耳に蜜蝋を詰め、オデュッセイアはマストに縛り付けられていたために彼女らの惑わしを受ける事はなかった。その結果にセイレーンたちは憤り、海に身を投げ、その身体は魚になった…」

「あの…おっしゃりたい事の意が私にはまだ分からないのですけれど…」

「お嬢様」


カツ、と靴音を響かせて、執事がくるりとこちらを振り向く。その顔は先程の笑みを失い、至極真面目なそれを貫いている。


「この老いぼれがおっしゃりたいのは忠告にございます。人魚は決して可愛らしいものではない。人魚はいわば死の使いなのです。その美声で船乗りたちを惑わせ、船を落としたセイレーン。気に入った男を引き込むローレライ。滑らかな姿態に酔いしれた人間は皆―死の世界へと誘われました。その呪いなのでしょうか、このマーフォーク一族は…至って女性が少ない。お気をつけあそばせ。美しいお嬢様…」

「こらこら、そんな事を言って、淑女を困らせるものではないよ爺。貴方はそんな人ではないはずだ」


二人の間を遮る様に、良く通るテノールがその場に響き渡った。驚いて二人ともその方向を見やれば、黒のスーツに身を包んだ長身の人間がそこに立って緩やかな微笑みを浮かべている。その姿を捉えた執事はその背をビシリと折り曲げてすぐさま礼の姿勢を取った。


「これはシャトラール様。お呼び頂ければ参じましたのに」

「結構。貴方に煩わせる程でもないよ。それに」


プラチナブロンドの髪の間からベイビーブルーの瞳がちらりと覗いて、そして細くなった。薄い唇が残月の様につりあげられて白皙の美貌を彩った。


「こちらの麗しいシンシアを自らがお迎えに上がられた事が出来たから幸運でしたよ」


そう言って再びそのベイビーブルーの瞳を向けてくる。室内の灯りを取りこんだ淡い青が一層輝いて見えた。しばし固まった後、ルナは先程の彼の言葉を反芻して首を傾げた。


「…私はルナと言います」


そう言うと目の前の彼はああ、と合点がいったようだった。


「キーツ『エンディミオン』に出てくる女神の名前です。牧民が彷徨いながら求めた月の女神の名に相応しい程麗しい淑女で思わずその名が出てしまいました」

「貴方は…」


問いかけると、青年は失礼しました、としなやかに腰を折ってお辞儀する。


「シャトラール・マーフォーク。この一族の当主を務めさせていただいています。麗しいお嬢様、ルナールナとおよびしてよろしいですか。ようこそこのマーフォーク一族へ」


目の前で折り曲げられた長身を目の当たりにして、ルナは慌てて広がるスカートを摘みあげて膝を少し折った。


「ルナです。今回はお招きありがとうございます」

「いいえ、ルナ。お礼を言うのはむしろこちらの方。貴女をお招き出来た事、光栄に思います」


その笑みは天使の様に慈愛に満ちて優しく、見る人の心を虜にしていく眼差しだ。ゆっくりと手を差し伸べて無言で促してくるので、ルナは一瞬ためらった後、黙ってその手に己の指先を乗せた。


「結構。参りましょうか」


淡いブロンドの髪の間から彼のベイビーブルーの瞳が一層輝いて魅了した。





初登場、シャトラールです。これからよろしくお願いします。 マーフォークはそのまま人魚の英名で。

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