15.そして、海の中の老人は消える。
ベッドサイドテーブルの間接照明の中、手に持っていた本を閉じてテーブルに置いた。
グローカスはそのままゴロリとベッドに寝転び、見慣れない天井を見上げた。綺麗な白い天井は自宅ではない、異世界に自分がいる事を実感させてくれる。
―ここは海の底だ。
何度来てもそう思う。どこか懐かしい様な、哀しい様なそんな感じを受けるのはきっと自分の名前の所為だろう。自然と口に零れるのは、一遍の詩だ。
「〝あなたがその人だ!いまわたしは平和のうちにこの頭を波の枕に置こう。いま眠りがこの疲れた眉に穏やかに訪れよう。ああ、ジョーヴ神よ!わたしはふたたび青年となる、青年となる!〟
……お前が俺の救済者なら、俺は此処に居ればその救済を受ける事が出来る筈…そうだろ…シャトラール…」
そのまま寝返りを打ち、灯りを背中に向ける。窓を見れば墨染の空に宝石の様な星が輝いていた。部屋の空気がしん、としてどこか耳触りだ。そのわずらわしさにグローカスはまたベッド絡みを起こして立ち上がり、冷蔵庫へと向かった。そこにあった氷を引っ張り出し、戸棚にあるグラスとウイスキーを持ってきて対面キッチンでロックを作って一口飲み込む。
独特の香りと、飲み込んだ時に喉を焼きつく感じが気分を軽く上向きにさせてくれた。
「…畜生。胸くそわりぃ……」
今晩のディナーの事を思い出して被りを振る。シャトラールが招いたと言う外部からの客人。あのシャトラールがあそこまで怒るとは…彼女は一体何者なのだろう。
「あのエルフィナンですらあの女に心を許している…どう考えたって可笑しいだろ。何者だってんだよ、あの女」
柔らかなウェーブのかかったブラウンの髪に、真っ直ぐに向けられた黒い瞳。見目はそこそこに良い。清楚な雰囲気を醸し出しながらも、どこか腹の奥に闇を抱えた女。
「……ああそれか、シャトラールの女か…」
それならしっくりきそうなもんだが、まだ腑に落ちない。もしそうなら何故あの女もこのパーティに招いたのだろう。プライベートで招き、願うならその秘密を教えてやればいい話だ。思案に暮れるグローカスの脳裏にある考えが浮かぶ。
「……!…まさか…」
何かを思いついた様に顎に手を当てて考え込む。もしそうなら…。しばらく考えて、グローカスは面白そうに顔を上げた。
「シャトラールにとってはこれ以上ない獲物か…クッ…アイツの考えそうな事だ…」
いっそこれをネタにアイツを脅してみようか…あの女を餌にすれば、いくらシャトラールだってアレの場所を白状するんじゃないか…そう考えてグローカスがニヤリと口角を吊り上げたその時、ドアの方から客人を告げるノックの音がした。
「誰だ…?」
訝しげに眉を寄せ、グローカスはドアに近づき客人の顔をパネルで確認して笑った。そのままドアを開けると、その客人を笑って出迎える。
「……なんだ、こんな時間に。俺の所に来るなんて酔狂だな…」
そのまま客人の背中を押して中に入れてやる。まあ来いよ、と客人を背中にしながら、グローカスは笑いながら言った。
「どうしてまたお前が俺に会いに来たんだ? この間の提案を呑んでくれんのか? あ? なんだそれ?酒か…丁度いい、飲んでたとこなんだ。ありがたく飲ませて貰うぜ」
それを受け取り、今まで使っていたグラスに注ぐと、一気に飲み干した。熱く焼ける様な感覚が炎の様に駆け巡り、脳を揺らした。
「カーッ!! 良い物持ってんな―…で、俺がこの間言った事、呑んで…あ? 」
ぐらり、と突然世界が回る。なんだこれ!?酒が予想以上に回り過ぎたのか?それにしては回りが…重力に耐え切れなくなった身体がドサリ、と重い音を立てて崩れ落ちる。床の冷たさが身体に伝わってくる。身体が冷えてくる。これは…これは一体!?全てを理解してグローカスは目を見張った。
「……お…ま…まさ…か…!?」
そう叫んだ所でグローカスの意識はフツリと消えた。
彼は深い海の底で羊皮紙を片手に読み、海に沈んでくる恋人たちを宮殿に並べる役目。そして彼は、海の宮殿で眠りに落ちる。