14.紅茶に混ぜた秘め事を眺める王子様
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部屋の前まで辿りつき、いざ部屋に入ろうとした時、右側に立ったシャトラールがその左腕で黙って行く手を制した。驚いて彼を見上げれば、シャトラールは強い眼差しでこちらを見下ろしてきて静かに言った。
「せめて…お部屋まで送らせていただけませんか。…もうお部屋にデザートも届いている。私に準備をさせて下さい」
「…大丈夫ですよ」
やんわりと断ったつもりだったが、とても悲しそうな顔をされてしまった。困った表情を浮かべていると、シャトラールは黙って胸ポケットからシルバーのカードを取り出して入口にスライドさせて戸を開き、ルナを部屋の中へと無言で誘った。その淡い蒼が凛としてこちらを見つめる。
「僕に全てをまかせて」
いつの間にか一人称が変わっている彼のまろやかな声が耳朶を揺らし、耳の神経を侵して脳へと浸透する。彼の声は柔らかく、まろやかでいて時に甘い。それが堪らなく耳に残る。優しい、凛々しい、哀しい、どこか愛おしい。それら全てを持ち合せている。
「……」
―ここは黙って従おう。
ルナは彼の瞳を見つめ、そして部屋の中へと足を踏み入れた。左側にはアールヌヴォ―調の木製ベッド、そしてベッドサイドには同じ作りのサイドテーブル。その脇はデザートーといっても簡素な寝る前の飲み物の様だったーがトレイに載せられて置いてあった。最初にシャトラールは黙ってルナの左腕を掴むと痛みの無い程度に部屋の中のベッドサイドのチェアに座らせると、膝をついて彼女を下から見上げた。
「お疲れになったでしょう…シャワーはもう?」
「え…ええ」
「では、お休みになりましょう。時にベッドの向かいにあるクロゼットは覗かれましたか」
「? …いいえ」
「そうですか」
それを聞いてシャトラールは何故か嬉しそうにニッコリと微笑むと、立ち上がって件のクロゼットの扉を開けた。貴女に着て欲しくて。そう言ってから迷いなく一つのハンガーを持ち上げて衣装ごと取り出すと、くるりとルナの方に向き直ってそれを見せた。
「ね、ネグリジェ…ですか…」
ワンピースタイプの淡い蒼のジュリエットネグリジェ。袖はふんわりとしたラグランフレンチ。胸元はギャザーで寄せられ、淡い蒼の小さなリボンが控えめに付いている。素材は柔らかなコットン素材だった。
「素敵でしょう?」
まあ僕も派手なのが嫌いというのもあるんですが、と嬉しそうに語るシャトラールを前に、ルナは成す術もない。いや、可愛い。確かに可愛いんだけど。
「ここまでしてもらう理由がありません…」
申し訳なさそうに言うと、シャトラールはおや、と目を丸くした後、そのままゆっくりとまた柔らかく破顔した。
「僕がしたくてしてるんです。…着てみて」
「え、ええ」
「良かった」
そう言ってそのままルナの胸にそのネグリジェを押しつけると、彼はまたルナの前に膝をついて微笑んだ。
「着てみて」
弱い。この天使の様な純粋な微笑みに本当に弱い。そのまま黙ってバスルームに向かって扉を閉め、着替え終わってからまたそれを開けておずおずと彼の前に姿を現すと、彼は正に飲み物の準備をしている最中だった。ポットからお茶を注ぎ、ミルクを入れてからこちらを見つめた彼の視線が痛い。しかしその沈黙は一瞬だった。
「よくお似合いだ。さあこちらにいらして」
照れながら彼の前まで来ると、彼はベッドにルナを座らせてから膝をついてその手でスリッパを脱がしてから、再度テーブルの飲み物を持ち上げてルナに手渡した。どうやらミルクティーのようだった。温度はぬるめ、ミルクは少し多めで、寝る前には丁度良い。礼を言ってからそのまま口をつけ、液体を喉まで滑りこませて嚥下する。
「美味しいです…」
「良かったです。それを飲んだらもう今日ディナーでの事はどうぞお忘れになって、ゆっくりとお休みになってください」
自分は全然気にしていなかったのに、夕飯の事をそれとなく口に出されてルナはえ、と声をあげた。そんなに気に止めていてくれたのか。
「僕からグローカスにはしつこく言っておきます。すみません」
「そんな…」
気にしていない、と言いたかった所で途端に視界がブレ始め、猛烈に眠気が襲ってきた。目を擦ってみても目の前のティーカップが霞む。眠い。ああ、と遠くでシャトラールの声が聞こえた。
「お疲れになったのですね。もうお休みなさい」
手に持ったティーカップをそっと取り外された所で、ルナの記憶はふつりと眠りの中に消えた。
眠ったルナを見下ろすと、シャトラールは彼女の身体をそっとベッドに横たえて直し、その上から丁寧にブランケットをかけた。そして彼女のゆらりと流れる黒髪を二・三度撫でると、トレイを抱えて静かに彼女の部屋を後にした。
その見目で以て意中の人を海に引きずり込む、それが水の精霊です。