10.月が無き今、哀れな怪物たちは
しばらく歩いた所で、唐突にシャトラールが唇に右手の人指し指を添え、そうだ、と今思いついたと言う表情をこちらに向けた。
「今回、パーティに参加するのは貴女を含めて6人。後、4人の紹介がまだ出来ていないのですが、それは夕食の時にでもご紹介しましょうね」
「6人…随分と少ないパーティメンバーなのですね?」
思った通りの事を口に出して聞くと、彼はふ、と口元に笑みを含ませてどこか不敵に笑った。
「……それが、丁度いいのですよ」
「…?」
「……お気になさらず。僕自身が大人数を嫌ったまでの事。見知らぬ貴女まで招いたのは…まあ、僕のめずらしい気まぐれ、と思ってください」
「…はぁ」
「…疑問もイロイロ残して歯切れの悪い事をしますけれども、僕は色々と秘密持ちなんです」
トン。
今まで彼の唇に添えられていた人差し指がいつの間にか自分の唇に乗せられていた。
真正面に来たそのベイビーブルーの瞳がしかとこちらを捉える。まるで宝石の様なその瞳に一瞬で視界を奪われる。やがてその瞳の持ち主は真面目な表情から一転した天使の微笑みでこちらを見つめて笑った。
「……今は、許して下さいますね?」
「………はい」
その笑みに魅了されて息が詰まり、返事に一呼吸の間が生まれてしまった。なんだろうこの人は。とても不思議だ。
「さ、ルナ。そこの扉の向こうが、貴女がしばらく過ごすお部屋になります。流石にレディの部屋に入るのは躊躇われますので、僕はここで一旦お別れ致しましょう。夕飯になりましたらまた御呼びしますので、それまではどうぞごゆっくりお部屋でお休みください」
レトロな木製のドアの前まで案内してくれた彼は、扉の向こうへ消えるまでその笑みを崩す事なくこちらを見送っていた。
扉を閉じた後に一つため息をつき、ルナはゆっくりと部屋の中に視線を向ける。部屋は近代的な建物の外観とは裏腹にアールヌーヴォ―家具を基調として置かれていて、どこか一昔前にタイムスリップしたかのような部屋だった。ふわりとした感触のベッドに腰を降ろし、そのまま後ろに倒れ込む。なんだかここ数日でいっぺんに色々な事が起きすぎて目が回る。
今の所見た感じだとマーフォーク一族で今の所会えたのは二人。一族の長でもあるシャトラールと、その弟のロイ。まるで天使の様な二人に、あとどんな人間が加わるというのだろう。そして一族の秘密とは…
「……やめよう」
ボスン、と少しもたげていた頭をそのまま降ろし、つられて力無く腕を降ろす。色々と考える事がありそうだが、今は色々ありすぎて脳が思考する事を拒否しかけている。
いつの間にかルナの意識はまどろみの中に落ちて、ゆっくりと沈んでいった。
*
「…魔女キルケーはオデッセイウスに警告した。『セイレーンの島を避ける事は出来ない。だが、その歌を聞く者は全て滅びる。船乗りたちの耳を蜜蝋で塞ぐように。あなたは聴いても良いが、マストに身体を縛り付けていなさい』…オデッセイア。元々鳥の姿であった彼女達が19世紀には下半身魚の姿で描かれ始めたのは海神信仰も起因しているのではないかと言われるが定かではない。様は、彼女たちは異質であれば良かったんだろう。異質な存在こそが人を恐れさせ、そして信仰に歩み寄らせる。人魚は異質であればよかった」
パラリ、と分厚い本の一ページを繰り、銀髪の若き隻眼の若者は薄暗い部屋のソファーに身を沈めて静かにそう口を開いた。コチコチコチ…室内には八角柱の振り子時計の音が響いている。彼のそんな知識の披露の様な呟きに、ややあってぴくりと頭を持ち上げて訝しげに眉を寄せる影があった。オリーブの瞳がゆるりと気だるそうに持ち上がると、手元に持っていたタブレットから指を離して口を開く。
「……急になんだ。駄犬」
「駄犬はお前だろう、狼。オデッセイアのセイレーンの歌の項だよ。人魚が人魚たる地位を確立したとも言える話じゃないか。駄犬はこんな事も分からないかい」
ふん、と荒々しく鼻息を漏らし、片目の若者―二つである魂の片割れを取り戻した青年、フォリ・ア・トロアは乱暴にそう呟いた。セイルはやぼったそうに再度彼を見ると、タブレットを片手に持ちながら静かに口を開いた。
「…何を、知っている?」
「うん?」
それに対しまるで知らぬ存ぜぬ、といったにこやかな顔で微笑むトロアの表情を、セイルはため息をついて見つめた。
「…ルナは人魚の所にいるのか」
「……」
「沈黙は肯定を意味する、と見るが、しかし『人魚』か…厄介だな」
両手を頭の前から差し込んで髪を梳き、中ほどで止める。そのまま頭を抱えて、深く今度はため息をついた。そんなセイルを、トロアは変わらない笑みで見つめ、そして声を発した。
「……君の主は、なんとなく気がついてはいるみたいだけれどもね」
「…ならいい」
そしてそのまま掌で顔を覆った。その感情の波は平坦で、妙なブレもない。トロアは横目で彼を見、そして心中でひっそりと呟く。
(…さすがは狼の右腕、といった所か…)
多少の事では動じず、主をひたすら信頼する。それには自分に似たものを覚えずにはいられないし、むしろ尊敬の意すら覚えそうになる。
「…人魚が悲恋の生き物だなんてのは迷信だ。あれは己の楽の才を持って人々を死に導く。…一体あの男、ルナに何をさせようというんだ」
「……さあ」
トロアが首をすくめると、セイルはガバッと身を起こしてトロアを見た。その瞳には怒りが籠っている。
「…お前にも分からないというのか。駄犬がっ!」
「…うるせぇな。駄犬なのはそっちだろぉが! 少しは落ち付けや! 」
いつの間にかドゥに変わっていたその身体は、怒りを込めてセイルの胸倉を掴みあげる。その身体にはもはや力など残っていない。それに構わずにドゥが怒鳴り散らす。
「俺らだって愛しい女の身を案じてるんだ! 月の女神が影を隠せば、俺ら怪物は動揺せざるを得ない。お前だけがキャンキャン言ったって現実は変わんねえよボケ!」
そのままギリィ、と胸倉を掴みあげて上に持ち上げるドゥの瞳が途端に変わり、トロアが姿を現してその手を離す。重力に従って地面に落ちたセイルの身体はぐったりとうなだれ、しばらくしてか細い声が聞こえた。
「……すまない」
「いいさ。君のルナに対する心が分かるからこそ、僕達もそれを無下には出来ない。僕らはいつも届かない月を求めて必死にもがく、哀れな怪物達だから」
投げかけた問いに答える声は、その場には無かった。
セイルはこういう奴です。腹の中は真っ黒なんだけど読ませない感じで。オデッセイアの人魚は魚の尾のハーバート・ジェイムズ・ドレイパー 「ユリシーズとセイレーン」の絵が有名でしょうか。同名ではウォーターハウスが人魚を鳥の姿で描いています。