消火器メリーさん
飲み会があり、アパートに着いたときには、とても疲れていた。
オレンジ色の明りが、奥へと延びるコンクリートの廊下を照らし出している。それはとても静かで揺るぎなく、俺はまるで水槽の中から外を覗いているような心地になった。どれくらいの間か分からないが、視線を奪われていた。
鍵を差し込み、回す。ドアを開ける。足元に注意しながら、俺は部屋の中に入る。細くなる光。閉まるドア。
あ、れ。
まどろみの中を、何かがかすめる。
あの廊下、何かが違っていたような。
何か……。何だ。
もういい。
俺は暗い部屋の中を数歩歩いてベッドに突っ伏し、そのまま動かなくなった。
翌日は土曜日で、燃えるごみの日だったが、ごみ収集の時間までに起きられるはずもない。
俺は空高く昇った太陽の熱光線に起こされた。気だるさをひきずってシャワーを浴びた。コーラを飲み、ニュースを眺めながら煙草を吸って、濡れた身体を乾かす。そうしているうちに内臓も活動を始め、腹が鳴った。重い脚に鞭を打ち、冷蔵庫まで這っていくものの、目ぼしい物は何も入っていない。俺はよれたジーンズをはいて、当ても無く街へと出かける。
と、開け放ったドアの先で、昨夜かすめた違和感が再びやってきた。昼の光の下、間抜けに伸びる廊下。俺はドアを一歩出たところで足を止め、ぼうっとそれを見つめていた。
あ。
違和感の正体はすぐに見つかった。俺の部屋からふたつ隣の部屋の前に、赤い消火器が鎮座していたのだった。
あれ。あんなもん、前からあったかな……。いや、新しく置いたのか。
まあ、防災上、ケッコウなことだ。
俺はふんふんと頷いてから振り返り、ささやかな休日の昼を歩き出した。
コンビニ弁当と缶ビールを持って帰ってきたのは夕方の六時半。消火器はいぜんとして、ふたつ先の部屋の前だった。
俺の日常に突如出現した消火器。
真新しい赤のペンキで塗装されたそれは、子供のおもちゃのような可愛らしさを呈していた。有事の際は頼むよ、と心の中で呟いてみると、いっそう微笑ましい気分になった。俺はひとり、にやにやしながら部屋に入った。
次に俺が廊下に出たのは日曜の夕方だった。溜まった仕事を片付けるため、朝からずっとパソコンに張り付いていた。昼はカップ麺でしのいでいたが、ついに疲れ果て、煙草と甘いものを求めて外に出た。
鍵を掛けた後、俺はついつい、あの可愛らしい消火器を探して廊下を見た。
「は?」
俺は驚く。
消火器は位置を変え、隣の部屋の前に移動していた。
消火器に足が生えているわけではないので、もちろん誰かが動かしたのだろう。その誰かとは、二つ先の部屋に住んでいる人であろう、おそらく。
まあ、どうでもいい。
俺は踵を返し、歩き出した。
コンビニから帰って確認すると、消火器は出かけたときと同じ場所にあった。
「戻せよ」
俺は小さく毒づき、帰宅した。
驚いたのは、月曜日の朝だった。
「えー」
出社するためにドアを開けると、なんとあの消火器が俺の部屋の前に来ていた。
当初の可愛らしさはもはや微塵も感じられず、俺ははっきりとした嫌悪の眼差しを消火器に注いでいた。無論、消火器は何も云わず、微動だにせず、そこにあり続けるだけだ。
邪魔というわけではないが、嫌な感じがした。本能的に、片付けたい、と俺は思った。
俺は困惑し、廊下を見渡した。廊下は相変わらず静まりかえり、住人達はいつ活動しているのか知れない。
仕方がないので、俺はそっと手を伸ばす。しかし、すぐに止め、引込めてしまった。──どうして俺がわざわざ? 俺は何もしてないのに? この消火器を置いたやつの責任だろ──などという思いがもくもくと浮かび上がってきたためだ。
「ったく、人の家の前に置くなよ」
結局、俺はそんなふうに吐き捨てて、通勤路に向かって歩き出した。
通勤中は、仕事のことを考えるよう努めた。ところがデスクでキーボードを叩いているときになって、やはり拭いきれなかった違和感が、まるで染みが広がっていくように気になりだした。
今日は、やけに落ち着かない。
俺は煙草を手に喫煙所に向かった。オフィスの廊下を歩いていると、押しボタン付きの屋内消火栓が目に付いた。俺はそれを視界から追い出すように歩みを速め、喫煙所の煙の中に身を投じた。もどかしい手つきでライターを取り出し、火を点ける。
火。
煙草。
火事。
消火器というものは、火事に対処するために存在する。
その消火器が、一歩一歩近づいてくる。
災いが、近づいている。
「縁起でもない」
俺は大きく煙を吸い込み、自嘲気味に笑った。
「ばかばかしい」
とは云ったものの、勤務時間の経過に伴い、胸騒ぎはいよいよ高まっていった。結局、俺は定時を迎えるなり、走り出した。
近所まで近づくと、なんだか焦げ臭い臭いまで感じられた。俺はひたすらに走り、ここ最近では一番息を切らして走った。
俺の住むアパートが見えた。炎は無い。しかし油断はできない。俺はコンクリートを蹴り、部屋の前の廊下に差し掛かった。
異常はなかった。
消火器は、相変わらず俺の部屋の真ん前でぽつんと佇んでいた。俺は、汗が頬を伝って落ちるのを感じ取った。
「人騒がせな」
などと口に出してみた。言葉は静かな廊下に吸い込まれていった。皮肉にも、勝手に一人で慌てていただけ、ということをひしひしと実感してしまった。こいつに罪はない。むしろ、防災上は望ましい存在であるはずの消火器。
しかし、しかし、だ。
安堵はやがて憤りに変わる。
「ふざけやがって」
俺は憤然とした態度で消火器を掴むと、俺の隣の部屋の前に、勢いよく置いた。ゴトン、という鈍い音が響いた。
消火器はこれで、最初の位置から数えて三部屋分移動したことになる。さすがに元の持ち主が回収することだろう。『してやったり』、の気分で、俺は煙草をふかし、灰皿に吸い殻を押し付けて、そして飯も食わずに眠ってしまった。
翌朝は、腹が減っていたためか、悪い夢でも見たのか、ずいぶんと早い時間に目が覚めてしまった。
青白い朝の光に包まれる静謐な我が部屋。そこに煙や炎は無い。俺は自嘲気味に笑って起き上がった。
顔を洗ってから、ふと、昨日移動した消火器を確認したくなった。俺は身支度もそこそこに廊下に出た。
すると、滅多に会わない隣の住人と鉢合わせになった。俺はとっさに、おはようございます、と挨拶したが、彼は怪訝な表情を浮かべて俺を見据え、こう云った。
「あ、この消火器、おたくのですか? 勝手に部屋の前に置かれて、困るんですけど」
彼は消火器を隣の部屋の前へと運んでいるところだった。
END
こんなお話を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
くれぐれも火の始末にはご注意ください。




