モーテルの地下
午後9時過ぎ、男は車を走らせていた。あちこちガタが来ている旧式で、三日後に手入れしようと思っていたが、その日を迎えることなくアクセルを踏んでいた。同棲している彼女とひどく喧嘩し、趣漂う愛の巣に二人いることがどうしても我慢ならず、アテもなく飛び出したのだ。
時々車内が上下に少し揺れた。サスペンションも悪いのだろう、男はハンドルを握りながらそう思い、頭の中のチェックリストにそれを書き加えていた。
酷い雨降りの夜であった。フロントガラスに前からやってくる大粒が飛び散り、それをワイパーが拭ってはまた元の有様に戻った。こんな中で愛車にムチ打ちたくはなかった。
明日になったら帰って謝ろう、その時にはアイツも落ち着いていることだろう、そう考えつつも、どこか今晩の宿がないかと辺りに視線を向けていた。
十数分ほど走らせ、周囲が見知らぬ景色に様変わりしたところで、右手前方にモーテルを見つけた。
傍から見て分かるほどに寂れていたが、それでも背に腹はかえられなかった。男はそのモーテルの方向に舵を切った。
車を停め、改めてモーテルを見回してみた。男以外に人も車も見当たらず、そのがらんどうが象徴しているように、壁面がいたく汚れたモーテルにも人気は全くなかった。哀れみを覚えるような、そのような様子でも、受付のありそうな入口から光が漏れ出ていた。こんなのでもやっていけてるのか、そう思いながら、入口に目をやっていた。
結局ここに一泊する腹積もりを決めた。見回すために開けていた窓を戻すためにクランクを回し、車外に出て鍵をかけ、その光差す方へ誘われるようにして向かった。
外の具合に反して、中は随分と小綺麗であった。くたびれたシャツを着た三十代前半くらいの男性店員とある程度対照的でもあった。
「この辺りは夜になると少し騒がしくなるので、ご了承ください」
受付のやり取りと軽い談話の中でそのような言葉が出てきた。このような辺鄙さ故に、男はそれを冗談だと受け取り、愛想笑いで応対して部屋の鍵を受け取った。
鍵には103と割り振られていた。店員から言われた通りに受付を出て左手の通路を進み、目的地のドアを解錠した。鉄製のそれに付いた錆が気になりはしたが、結局拘泥することなしに扉を引き部屋に立ち入った。
受付と同様に、中々結構な秩序らしさであった。きっちり整った白いベッドの右隣、茶色い木目の机に白い間接照明のランプが鎮座し、男はそこに部屋の鍵と財布を置いた。これ以上の荷物は持ってきていなかった。
男はシーツに身体、ベッドスローに靴を預けるようにして寝転び、考えることは彼女の事ばかりであった。何も断らずに出てきてしまったのを、今になって大変に反省していた。何度もくだらないことで諍いを起こしはしたものの、こうやって家を出るようにまで至ったのは初めてであった。両者共に虫の居所が悪かったのかもしれない。反省の文言をどうしたらよいかと頭をひねりながらも、いずれ睡魔が瞼にやって来て、いつしかそのまま床に就いた。
0時を回った頃、睡眠はガサゴソといった物音によって妨げられた。男は目を開け、辺りを見回してその原因を探した。隣の部屋でも上階でもなく、床のカーペットに耳を当て、それが地下からであるのを発見した。
こんな時間になんなのだろうと考えを巡らせた。鼠か何かかと初めは思ったが、それにしては、安眠を解くほどに殊更に騒々しかった。
埒が明かず、寝ぼけ眼を擦りながら男は受付に向かった。受付が言うに、この時期は夜になると小動物が活発であり、1階と階下の隙間に彼らが入り込んでは走り荒らすのだという。受付の後ろにある階段から降りて様子を確認するので、今日はこのまま気にせず休んでほしい、と。
気にしているから受付にまで赴いたのだが、こう言われてはそれ以上何も返すことはできなくなった。仕方なく来た道を引き返し部屋に戻った。
反省の文句の考案はまだ途中であったが、やはり眠気には敵わなかった。明日考えよう、それか彼女に面と向かえば何か思いつくだろう、そう思考をやり過ごしながら改めてベッドに身体を預けた。
午前2時前、またしても地下のあの物音で目を覚ました。耳を凝らすと、今度は少し異なる様相を呈していた。ガサゴソとしたものの中に、何かの叫び散らすような声が微かに混じっていた。気のせいだろうとまた耳を澄ませても、そうとしか聞こえなかった。
男は再度の不快と一抹の不安を抱きながら受付へ向かった。扉は開いていたが電気は付いておらず、スイッチを押しても点灯することはなかった。背筋に走る不思議さと共に、男は暗闇の中で非常用の懐中電灯を探し当て、四方にその光を向けた。当然ながら店員はいなかった。
男は自らの不快を晴らさんとばかりに、首をあちこちに回して辺りを確認しているうちに、そういえばと、店員が言っていた言葉を思い出した。
受付の後ろに階段がある。その記憶を頼りに受付をくぐり階段を探した。男の中にあったのは、眠りを二度も邪魔されたことへの復讐めいた思いであった。その思いが、勝手に立ち入ることへの後ろめたさをすっかり漂白していた。
階段を見つけた。黒く汚れた無機質な石造りで、一介のモーテルにはあまりにも似つかわしくないように感じられて仕方がなかった。
その奇妙な趣に触発されてか、男の心持ちはまさに探偵そのものであった。調査の末に事件の真相――物音の原因というくだらないものではあったが――を見つけ出そうと、自らを軽く奮起させ階段へ両足を降ろした。
階段を下りるにつれて、先程まで耳にしていた物音が一段と明瞭になっていった。ガサゴソ、ガサゴソ、と何かが物を漁るような音が、染みにまみれた壁の向こうから聞こえてきた。時折それに混じって人の声らしきものも聞こえたが、本当に人のものか、何を言っているのかなどは判然としなかった。
階段は思いのほか長かった。十段、二十段と数えながら降りていたものの、三十を越えた辺りで馬鹿らしくなって打ち止めにした。懐中電灯を足元に向ければ、濡れたような光沢を帯びた石段が延々と下方へ続いている。これだけの地下設備があるようには、外から見た限り到底思えなかった。
不審を募らせながらもなお降り続け、ようやく平坦な床に両足を着けた。そこには細長い通路が続いていた。天井は低く、男が手を伸ばせば容易に触れられそうであった。左右には等間隔で鉄製の扉が並び、その一つ一つに小さな番号札が打ち付けられている。壁面には裸電球が設けられていたが、そのどれにも明かりは灯っていなかった。
男は懐中電灯を前方へ向けた。光は通路の先まで届かなかった。
「地下にも部屋があるのか」
独り言が自然と口から現れた。その瞬間、右手の扉の向こうから物音が止んだ。
男も足を止めた。しばらく待ったが、何も起こらなかった。気を取り直して前に進もうとしたところで、
「おい」
低い男の声がした。男は驚いて懐中電灯をその扉に向けた。
「誰かいるんですか?」
返事はすぐにはなかった。男は扉に近づいた。赤錆混じりの鉄扉の上部には、拳一つ分ほどの小窓があった。覗き込むと、その奥に人影が見えた。
「上から来たのか」
今度ははっきりと聞こえた。
「上って、モーテルから?」
「ああ」
声の主は男のようだった。聞く限りではしゃがれていて、暗くて顔までは分からなかった。こちらへ近づこうとしたのか、床を擦る音がした。
「ここは何ですか? ここで何をしてるんです?」
そう尋ねると、向こうは暫く黙った。
「何号室だ」
「え?」
「上の部屋のことだ」
「103ですが」
奥の男が息を呑む音がした。
「戻れ」
「何ですか?」
「今すぐ戻れ。階段を上がって、荷物なんかどうでもいい。車に乗ってここを出ろ」
突然の物言いに男は困惑した。
「いや、でも、あなたは――」
「早くしろ」
その声音には、苛立ちというよりむしろ怯えが混じっていた。
男は小窓越しにもう一度室内を見た。光を差し入れてみると、その独房じみた空間は上階の客室より遥かに狭く陰湿であった。ベッドも机もなく、床に毛羽立った薄い毛布が一枚敷かれているだけであり、その上に男一人が座っていた。
随分と痩せ細っていた。伸び放題の髪に顔の半分ほどが隠れ、着ている服も惨めなほどに擦り切れている。とても今夜泊まりに来た客には見えなかった。
「閉じ込められてるんですか?」
「声を出すな」
先ほどより更に小さな声で男は言った。
「え?」
「小さく喋れ」
男は訳も分からず、それに従った。
すると、通路のずっと奥の方から、
「誰かいるんですか?」
と声が響いた。男は振り返った。全く自分の声色であった。
思わず懐中電灯をその方へ向けたが、誰もいない。
「今の……」
「だから戻れって言ってる」
扉の中の男が恐怖を滲ませながら言った。
再び通路の奥から、
「誰かいるんですか?」
はっきりと聞こえた。今度は先ほどよりも近かった。発音も抑揚も、確かに自分のものであった。
男の肌に粟が立った。
「何なんですか、あれ」
「覚えるんだ」
「え?」
「声をだよ」
男はそれ以上答えなかった。
またガサゴソと物音が聞こえた。今度は壁の中ではない。天井の上だった。何かが、頭上をゆっくりと、確かな気配を伴って這っている。
男は懐中電灯を天井へ向けた。剥き出しの配管と黒ずんだ石だけが視界に入った。光を左右に動かしても、そこには何もいなかった。しかし音だけが頭上を通り過ぎ、階段の方へ向かっていった。
男は無意識のうちに一歩後ずさった。
「ここには、あなた以外にも?」
問いかけると、左手の扉が叩かれた。次いで二つ先の扉も叩かれた。更にその先からも。
男が懐中電灯を向けるたびに、次々と鉄扉の小窓から手が現れた。
「助けて」
女の声であった。
「ここを開けてくれ」
別の男の声。
「お願い」
「警察を」
「出してくれ」
男は呆然として辺りを見回した。人がいる、それも一人や二人ではなかった。通路に並ぶ扉のほとんど全てから、人の声がしていた。
「どうしてこんな……」
その言葉を口にしたところで、最初の男が強く扉を叩いた。
「喋るな!」
束の間の静寂が訪れた。地下の者たちが一斉に口を閉ざしたらしかった。何人、あるいは何十人もの人間がいるとは到底思えないほど、辺りは静まり返った。
やがて、
「助けて」
通路の奥で女が言った。先程と同じ声だった。
「ここを開けてくれ」
今度は男の。
「お願い」
「警察を」
「出してくれ」
さっき聞こえた声が、同じ順序で繰り返された。しかし全て同じ場所から発されていた。
男は懐中電灯を握る手に力を込めた。光の先に何かが横切った。
瞬きするほどの一瞬だった。白っぽいものが、通路の右側から左側へ駆け抜けていった。人間ほどの大きさはあった。鼠などの類いには到底思えなかった。
「今のは……」
「見るな」
扉の男が言った。
「何なんですか」
「知らない」
「知らないって……」
「俺だって知らないんだよ」
扉越しの声は震えていた。
「ここに連れてこられてから、あいつはずっといる。それだけだ」
「連れてこられた?」
「俺も泊まったんだ、上に」
男は言葉を失った。
「夜中に音がして、受付に言った。何度言っても直らないから、自分で降りた」
全く同じ状況と行動であった。
「店員は?」
「知ってる」
短く答えた。
「あいつらは全部知ってる」
その直後、
「お客様」
通路をその声が満たした。受付の店員のものであった。男は反射的に階段の方へ懐中電灯を向けた。誰一人としていなかった。
「お客様」
今度は通路の奥だった。男はゆっくりと光をそちらへ戻した。
「今日はこのまま気にせず休んでください」
受付で聞いた言葉が、一言一句違わず暗闇から返された。
扉の中の男が小さく、確かに呻いた。
「来るぞ」
やがて、何かが動いた。先ほどより近い。男は懐中電灯を上下左右に振った。
「どこだ」
思わず声が出た。
「どこだ」
暗闇が返した。
男は口を塞いだ。
「どこだ」
別の場所から。
「どこだ」
更に後ろから。
既にそれは、男自身が口にしたものと寸分違わない声であった。
「走れ!」
扉の中の男が叫んだ。
男は階段へ向かって駆け出した。背後で何かが床へ落ちた。湿った肉を叩きつけるような、鈍く重い音であった。
振り返ってはいけない、そう思った。しかし人は、見るなという禁を破ってしまうものらしい。
肩越しに懐中電灯を向けた。それは四つん這いになっていた。最初はそう見えた。ただ、人間より遥かに背が長く、手足には決してあるべきでない場所に幾つもの関節があった。白くぬめった皮膚が骨ばった身体を覆い、その顔には、男が一目で認識できるような目も鼻もなかった。
口だけがそこにあった。不釣り合いなほど横に長い口が、糸引く唾液と共に開いた。
「走れ!」
先ほどの男と同じ声だった。
男は悲鳴を上げた。怪物の口も開いた。男と全く同じ悲鳴が返ってきた。
一心不乱に男は階段へ駆け戻った。
そこから先のことを、男はよく覚えていない。階段を駆け上がったような記憶はあった。その途中で何度か転んだようにも思う。自分の声が前からも後ろからも聞こえていた。店員の声もした。地下にいた者たちの叫び声もした。誰かが腕を掴んだ気もしたし、何かが背中に触れた気もした。受付を通ったのかどうかすら曖昧だった。
ただ一つ覚えているのは、
「もうお帰りですか?」
という、ひどく落ち着いた店員の声であった。
気がついた時には、部屋に財布を置いたまま車を飛ばしていた。
雨は相変わらずその勢いを保ち続けていた。ワイパーが忙しなく往復し、その度に前方の景色が見えては、すぐに雨粒に覆われた。
男は何度もバックミラーを確認した。後部座席には誰もいない。助手席にも。自分一人であった。
服は所々汚れ、右手の甲から血が出ていた。どうしてこうなったのかは全く思い出せなかった。モーテルを出てからどれくらい走ったのかも、記憶の片隅にもなかった。
家に帰ろう。彼女に謝ろう。何を言うかなど、もうどうでもよかった。ただ彼女の顔が見たかった。心の平静を取り戻したかった。その一心であった。
ハンドルを握る手があまりにも震えていることに気づき、男は大きく息を吐いた。
大丈夫だ、もう離れた。あそこには戻らない。
前方に見覚えのある標識が現れた。家までそう遠くない。そのことにようやく胸を撫で下ろした、その時であった。
車内が僅かに上下へ揺れた。男は顔を強張らせた。サスペンションだ、そう思った。古い車なのだから。三日後には手入れするつもりだった。
もう一度、車体が小さく揺れた。
そして足元より更に下、走る車の底から、
あの音が、




