エレベーターの夢 :約2500文字 :ホラー
『三階です』
また……か。そうだ、まただ……。
とあるワンルームマンションの一室。朝、目を覚ました男はゆっくりと上体を起こした。こめかみに指を当てて軽く揉みながら目を閉じる。頭の奥にこびりついた夢の残滓がじわりと浮かび上がってきた。
今の夢……。あれはやっぱりこのマンションだよな?
男はここ最近、毎晩同じような夢を見ていた。自分がエレベーターに乗っている夢。ただし視点はいつもより少し高く、両手には黒い革の手袋がはめられていた。
一回目はマンションの自動ドアをくぐり、エレベーターに足を踏み入れるところで終わった。二回目は二階に到着し、ドアが開く場面まで。そして三回目は――。
「三階に着いた……か。ふっ」
男は小さく笑い、ベッドから足を下ろした。立ち上がってカーテンを開けると、白けた朝の光が部屋を一気に満たした。
男はひとつ息を吐き、洗面所へ向かった。蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗いながら男は心の中で自分に言い聞かせる。
偶然だ。確かに少し珍しいが、気にするほどのことでもない。毎日ここのエレベーターを使っているんだ。その記憶が夢に滲み出ただけ。不思議なことでもない。
男はそう結論づけ、タオルで顔を拭き、淡々と身支度を始めた。
しかしその夜。ベッドに横たわり暗い天井を見上げた瞬間、ふいに男の脳裏にあの夢が蘇った。
一階ずつ上がっているとすれば、今夜か……。
男の部屋は四階にある。朝のうちは意識の外へと押しやっていたが、暗闇と静寂に包まれると否応なく浮かび上がってきた。
「いやいや、だったらなんだって話だ……」
自嘲気味に笑い、男はまぶたを閉じた。やがて意識は手を引かれるようにして底へと沈んでいった。
『四階です』
――やはり来た。
再び、あの夢だ。
アナウンスの直後、静かにエレベーターのドアが開いた。ここまでは、これまでと同じ流れだった。
しかし――。
――降りたぞ。
視点が前へ動いた。廊下へと足を踏み出し、右へ行った。
――やはり、このマンションだ。ということは、おれの部屋は……。
見慣れた廊下を進んでいく。ドアが一つ、また一つと視界の端を流れていった。
一つ。また一つ……。そして、ある部屋の前でぴたりと足が止まった。
その瞬間、男は息を呑んだ。
――おれの部屋だ……!
間違いない。表札の位置、部屋番号、ドアの端にある小さな傷。すべてが現実と一致していた。
黒い革の手が、ゆっくりと持ち上がり、インターホンへと伸びていく。指先がボタンに触れ――鳴った。
その瞬間、男は目を覚ました。
がばっと上体を起こし、掛け布団の縁を両手で強く握りしめた。
大きく息を吐き、荒くなった呼吸を整えながら視線を廊下の先――玄関ドアに向けた。
今、鳴った……よな?
確信はなかった。夢の中の音だったのか、それとも現実で鳴ったのか。耳の奥には確かにチャイムの余韻が生々しくこびりついているが、判別できない。廊下の向こう、ドアは沈黙している。
男はしばらくそのまま動けずにいたが、やがて大きく息を吐いて枕に頭を戻した。
「夢……夢だ……な」
きっとこれは何かの暗示だ。そう、ストレスだろう。今の職場へ通うこと。その疲れが夢という形で表に出てきているだけだ。
男はどこか縋るようにそう結論づけた。だが、意識はどうしても玄関へ引き寄せられていく。あのドアの向こうに誰かが立っている。見透かすように、じっとこちらを見つめている。そんな嫌な想像が頭から離れなかった。
結局その夜は一睡もできず、鈍い頭痛とともに朝を迎えた。
「まったく、どうかしてるぞ……」
男は掠れた声でぼやきながらベッドから降りると、寝不足の倦怠感を引きずりながら身支度を始めた。
出社すると夢のことなど忘れて仕事に没頭した。あるいは、忙しさを盾にして、意識の奥へ押し込めていたのかもしれない。
だが、夜は必ず訪れる。
自宅。照明を落とし、暗い中で男はどこか強張った面持ちでベッドに横たわった。すると途端に、あの夢の感触が生々しく蘇ってきた。
いや、たかが夢だ。何が起きるわけでもない……。
心の中で何度も繰り返し、無意識に祈りを込めながら男は眠りについた。そして――。
『五階です――』
翌朝。目を覚ました男は思わず小さく笑みをこぼした。
夢はいつもどおりに続きから――自分の部屋の前、インターホンを押し終えた直後から始まった。黒い革の手がゆっくりと下ろされた。そして体の向きが変わり、歩き出した。
廊下を進み、エレベーターへ戻った。ドアが閉まり、再び上へ。
そこで夢は終わった。つまり、何も起きなかったのだ。
「なんだ……ははは」
胸の奥に溜まっていたものが一気に抜け落ちたような感覚がした。男は肩の力を抜き、頬を緩ませて身支度を始めた。
『六階です――』
『七階です』
それから二日後の夜。夢は相変わらず続いていた。黒革の手袋の者は最上階である七階でエレベーターを降りた。静まり返った通路を進んでいく。
――屋上へ向かっているのか……?
男は首を傾げた。むろん、意識の中でだが。
屋上へ続く階段を上がり、重厚感のあるドアに手をかけ、押し開けた。
夜風が吹き込み、視界が開けた。眼下には街の灯りが広がっている。男はこんな景色だったのか、と少しだけ感心した。
だが、その感慨はすぐに霧散した。
黒革の手袋の者はそのまま前へと進み、手すりに手をかけた。
視点がわずかに揺れた。柵を乗り越えたのだ。
――死ぬ気……なのか……?
男は戸惑った。まず人として相手の身を案じ、次に恐怖が湧き上がった。
――こいつが死んだらおれはどうなる……?
歩くたびに靴底から伝わってきた振動。インターホンを押したときの、あの硬い感触。それらすべて、現実とまったく変わらないほど鮮明だった。目覚めたあと、思わず自分の指を見つめてしまうほどに。
風が全身を撫でた。次の瞬間、視点が大きく揺らいだ。
下へ、さらに下へと。空気を切り裂く感覚とともに、目の前に急速に――。
「……うおっ」
男は跳ね起きた。凄まじい音と衝撃に、夢の中から追い出されたのだ。
内側から胸を割らんばかりに心臓が激しく打ちつける。男はゆっくりと息を吐き、荒い呼吸を整えながら窓のほうへ体ごと向いた。外灯の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の輪郭を淡く浮かび上がらせている。
今、確かに夢の中で飛び降りた。だが――地面にはまだ……あ。
からからと。
窓がゆっくりと開いていった。




