翠の王国
ファンタジックホラーです。苦手な方はご注意ください。あまり怖くないです、たぶん……
君を永遠に愛しているよ
だから、君は何も知らなくていい
現実も……
事実も……
そして、真実も……
だって、君は僕のもの
萌黄色の木々の間から、明るい日差しが降り注ぐ。春、再生の季節
時折、爽やかな風が吹き抜けて、水晶の羽をもつ小さな羽虫が、蜜を求めて飛び回る。
「オーク、泉の水を汲んで来たよ」
静けさを一瞬にしてかき消す、弾むような、歌うような声。オークは、まどろんでいた瞳を開いて、ほほ笑んだ。
「ありがとう、ミト」
ミトが汲んで来た水を、オークは美味しそうに飲みほした。
「オークも一緒に泉まで行けばいいのに、泉の周りに菫の花が咲いていたよ?とってもきれいだった」
ミトは、起きあがったオークの膝の上に乗って、そのマホガニー色の濃い茶の髪を梳きあげると、深い翠色の瞳を覗きこんで軽く口づけた。
長い絹糸のような黒髪に黒曜石の瞳、オークはミトを愛おしげに見つめる。
「それは、こんな色じゃなかったかい?」
オークは、軽々とミトを抱えたまま立ち上がると、手品のように菫色のショート丈のドレスを取り出して見せた。
「わぁ、すごく素敵なドレス。うん、こんな色だった。ううん、この色だった……どうしたの?これ……」
ミトは、不思議そうにオークを見上げる。オークはとても背が高い。
「君が好きな色だろうと思って、昨日のうちに注文しておいたんだ。今着ている白いドレスも良く似合っているけど、もう春だからね、少し色つきのものを着たくなる頃だろうと思っていたんだ」
ミトは、オークと森の家に住んでいる。いつからかは分からない。気づいたら、ここにいた。森の家は、すべて木でできていて、中に入ると木の良い匂いがする。ミトは、軽やかな生地の菫色ドレスに着替えて、それまで着ていた白いモコモコのドレスをクローゼットにしまった。
クローゼットの中には、様々な色のドレスが何百着も吊るされている。全部オークがくれたものだ。世の中にある色は、すべてあると言えるくらい、たくさんの色がそろっているのだけれど、一色だけ、黒いドレスだけはなかった。でも、ミトは全然気にならない。黒いドレスなんて着たいとは思わない、お葬式みたいだし……
「ねぇ、オーク、泉の傍で、またティスに会ったんだよ」
一緒に食事を摂りながら、森であったことを報告する。
ティスに初めて会ったのは、春まだ浅い頃だった。オークよりも随分小柄な人で、空色の瞳をしていた。
「おまえ……何?」
ティスは、空色の瞳を見開いてミトに声をかけてきた。
「何って何?」
ミトは眉間にしわを寄せる。
ティスは泉の傍で暮らしているらしく、その日から、水を汲みに行くと必ず顔を合わせるようになった。ティスもオークと同じで、あまり動き回ったり、しゃべったりしない。静かに座っていたり、眠っていたりするのが好きなのだ。でも、ミトが水を汲みに行くと、大抵、何かしら話しかけてくる。そして、決まって最後にこう聞くのだ。
「で?おまえは、本当の家への帰り道を思い出せたか?」
と……
「で?だからどうしたの?」
オークは、不機嫌そうな声で先を促す。
「私の本当の家ってどこなのかなって、訊かれるたびに考えるんだけど……」
ミトは、首を傾げる。
「思い出しそうなの?」
用心深く問いかけるオークに、ミトは首を横に振る。
「思い出したいの?」
その問いにも、ミトは首を横に振った。
――どうしても思い出したい訳じゃない。思い出すのは……少し怖い。
「だったら、気にしなくてもいいじゃないか」
オークは皿の上の肉の塊に、フォークをぐさりと刺して口に運んだ。一方、ミトはあまり食べ物を口にしない。泉の水を飲んで、果物か木の実を少しだけ口にする。オークとしょっちゅう一緒にいると、運動をあまりしない。だから食事もあまり必要がないのだろうとミトは思っている。
夜になると、オークは、時々楽器を奏でてくれる。楽器は一つだけなのに、その音色は、日によってまちまちだった。ヴァイオリンのようだったり、リュートのようだったり、ドラムのようだったりする。ドラムの音がする時は、その音が森の中に響き渡って、森全体をざわつかせる。
「もうすぐ嵐が来るよ。さあ、中に入って……」
オークは、ミトを森の家の中に入れると、がっちりと閂をかける。
ビュウ ビュウゥ ビュウゥゥゥ
外はひどい嵐だ。でも、オークがいれば、嵐だって怖くない。ミトは窓をつたって流れ落ちる大きな粒の雨を眺めた。背後にオークの気配がする。
「ミト、今日もあまり食事を摂っていなかったね。また、あれを飲む?」
ミトは、オークの翠色の瞳を見上げてドキドキしてしまう。
――欲しい……でも……
「でも……」
ミトは、なかなか欲しいと口にできない。
――だって……
「気にすることはないよ。僕は全然平気だから」
オークは小さなナイフを取り出して、すばやく自分の腕に傷をつけた。オークの血が滴り落ちる。
「さあ」
一旦それを見せられてしまうと、ミトは自分を押えることができない。差し出された腕を、ほとんど慌てて、口に含む。甘くて瑞々しいオークの血。ミトは夢中でオークの血を啜る。オークの血は麻薬だ。飲めば飲むほど気持ちが良くなる。何も考えたくなくなる。何も考えられなくなる。だから……もっともっと欲しくなる。
「おい、ミト、本当の家を思い出せたのか?」
泉に行くと、その日もやっぱりティスは、そう訊いてきた。
「……思い出さなくていいよ。ティスとはもう口きかない」
ミトは、ティスの目を見ないようにして、手早く泉の水を汲む。
「オークがそう言ったのか?」
「……」
「おまえは、この世界にいるべきじゃない。おまえ自身気づいているんだろう?」
「……でも……」
ここは自分がいるべき世界じゃない。実は、うすうす気づいてる。だけど誰もミトには教えてくれないのだ。ここがどこなのか、自分が本当は何者なのか、自分の本当の世界はどこなのか……。でも、もうそんなことは、どうでも良くなってきていた。オークとずっとここに居られれば、それで良い。
「おまえ、オークの血を飲んでいるだろう?」
ティスの言葉に、急いで立ち去ろうとしているミトは、絡め取られたように立ち止まる。
「おまえは、オークに利用されているだけだ。オークから離れて、おまえはおまえの世界に帰れ」
振り向くと、ティスは痛々しいものを見るような目で、ミトを見つめていた。ミトは泣きそうになって、駆けだした。
もう少しで森の家という所で、ミトは転んでしまった。汲んで来た泉の水が辺り一面に広がって、地面に吸い込まれていく。
――もう一度汲んで来なくちゃ……
しかし、立ちあがろうとしたミトの視界に入ってきた影に、ミトは、竦んでしまって動けなくなる。ミトが零した水の染みの上に、蝶がやってきたのだ。どうしてなのか分からないのだけれど、ミトは蝶を見ると竦み上がってしまう。
――エメラルド色の斑紋の蝶……
何かを思い出しそうになって、ミトは頭を抱えこんだ。
――嫌だ、何かを思い出しそうだ!
ヒュン、鞭が空気を切り裂く音がして、地面から水を吸い上げていた蝶たちが、一斉に舞い上がる。
「ミト、大丈夫か?」
オークがミトを抱えあげた。
「……泉の水を零しちゃったの。また汲みに行かなくちゃ」
オークの胸に顔を埋めながら、ミトは震える声で呟く。
「後でいいよ。とにかく家に戻ろう」
森の家の中は、居心地がいい。外が暑くても寒くても、常に一定の温度に保たれている。キッチンにある蛇口は二つ、一つからは水が出て、もう一つからは甘くて濃厚なジュースが出る。食料を貯める戸棚が一つ、この中には様々な壺が置いてあって、森で採れる木の実や、果物から作ったジャムなどが入っている。オークは、時々、動物性たんぱく質……つまり肉を食べているようだけど、それは、ここには保存されていない。オークのことだから、どこかに注文しているのかもしれない。オークが、森の家から離れたところなんて見たことがないからだ。
「何か飲むかい?水?ジュース?」
「……水」
ミトは、焦点の定まらない顔でぼんやりと答える。
――私は何かを忘れている。何か大事なことを……
いつもは、泉の水を朝早く汲みに行くのだけれど、結局、その日は夕方になって汲みに行った。泉の水を一日一回飲まないと、オークは動けなくなるのだ。それでなくても、じっとしているのが好きなのに、更に動かなくなると、ミトは、もう全く、世界中で一人ぼっちになってしまった気がしてしまう。
ミトは警戒しながら、泉に近寄る。もう今日はティスと話したくなかった。でも泉の周りにティスの居る気配はなく、ただ、泉の奥にティスの瞳の色とそっくりの小さな花が、群生していた。
満月の夜、オークは決まってミトを抱く。
普段は穏やかで、物静かな様子の彼だけど、この日だけは豹変したかのように荒っぽい。強く抱きしめられて息さえできなくなる。オークの指がミトの体を這いまわり、唇が素肌に痕跡を刻みつけて行く。舌を強く吸われて、体を乱暴に貫かれる。苦痛なのか快楽なのか、自分でも分からない。骨までバラバラになりそうで、ミトは悲鳴を上げる。
オークに抱かれるのは、少し怖い。
自分の中の何かが損なわれていくようで、とても、とても……不安になる。
オークに抱かれるのは、嬉しい。
自分がオークの一部になっていくようで、とても……安心だ。
矛盾する……矛盾する……
「君を永遠に愛しているよ……」
ミトを抱いた後、オークは決まってこう言う。ごつごつした細い指でミトの髪を梳きながら、優しい声で、何度も何度も……
「……私もオークを愛してる」
でも、永遠にとは言わない。永遠なんてないことをミトは知っている。でも、オークに嘘つきとは言わない。オークがそう言うなら、そうなんだろうとも思う。明らかに矛盾しているのだけれど、そうとしか思えなかった。矛盾することなんて、世の中には石ころみたいに転がっている。ミトはそう思う。
夏の気配が漂い始めたころ、久しぶりに泉の傍でティスに会った。ここ数日で、すっかり元気を失くしたようで、時々しか姿を現さなかったのだ。暑さが苦手なのだと言う。
「そろそろ、本当の家を思い出したか?」
ティスは、本当に具合が悪そうだった。
「ティス、人の心配よりも、自分の心配をした方が良いよ。泉の水を飲んでる?オークはここの泉の水を飲むと元気になるよ?」
ミトは心配そうにティスを見つめた。以前は光を反射してキラキラ輝いていた金髪が、すっかり色褪せて、萎れているように見える。
「確かにここの水は良い水だ。だけど、もう俺には効かない」
ティスは、気だるそうに泉の縁に腰を下ろして、ミトを見上げた。
「どうした?水を汲めよ」
ティスは,不安げに見下ろしているミトを見つめて苦笑する。
「ティス、病気なの?」
水瓶をそっと脇に置きながら、ミトはティスの瞳を覗きこむ。
「いや、病気じゃない。運命だ」
「運命……」
「俺たちは、それぞれの循環の輪に組み込まれている。俺も、おまえも、そしてオークも……それが運命だ」
少し焦点の定まらない空色の瞳が、ミトを見つめる。
「……」
「おまえは、何も覚えていないのか?父や母や兄弟はいなかったのか?」
「父?母?」
――なんだっけ……聞いたことがあるような言葉だ……
「そんなことさえ忘れてしまっているのか……もうおまえは、元の世界には戻れないのかもしれないな。意味がないのかもしれない……」
ティスは小さくため息をついた。
「おまえは、自らの循環の輪から外れてしまったんだ。外れてしまったものは仕方がない。だからせめて、家へ帰れると良いと思っていたのだが……それは、おまえが帰りたいと願わねば、叶わない」
ティスは、そう言うと、放心したように空を見上げたまま黙り込んだ。
「……」
ミトも黙り込んだまま、その場を離れることができない。
「……俺の血を飲むか?帰りたいと願うなら、そうするがいい」
ティスが目を閉じたままぽつりと呟く。
「え?」
ミトは瞠目した。
「俺の血を飲めば、おまえは自分が何者なのかを思い出せるかもしれない。今なら、まだおまえに飲ませられるくらいの力はあるぞ」
空色の瞳が、ミトの瞳を覗きこむ。
「……」
オークから、オーク以外の人の血を飲んではいけないと言われていた。そんなことをしたら、オークと一緒に居られなくなると言うのだ。
――オークと居られなくなるなんて嫌だ。怖い……
ミトは、少し後ずさると、首を横に振った。
「そうか……なら仕方がないな」
ティスは微苦笑すると、疲れた様子で目を閉じて、それきり何もしゃべらなくなった。
ミトが、泉の水を汲んで立ち去ろうとした時、後ろからティスの声がした。
「ミト、もし、家に帰りたくなったなら、地下へ行け。そこに……がある」
ティスは、苦痛を耐えているように顔を歪めてそう言うと、次の瞬間、まるで空気に溶けてしまったかのように霧散した。
――地下に何があるんだろう……
ミトは、あれからずっと考えている。森の家には、確かに、地下に続くドアがあった。ここだけは、決して中を覗いてはいけないとオークに言われている。
新月の夜、オークは、いつもよりも更に動きたがらなくなる。疲れやすくなるのだそうだ。オークが眠り込んだのを確認して、ミトは地下へと続くドアをそっと開けた。
真っ暗闇の中、細くて狭い階段が、地底奥深くまで続いていた。手元の灯りを頼りに、ゆっくりと階段を下りて行く。初めは一本道のようだった階段は、途中から分岐して、さながら迷宮のように地底に拡がっている。何処までも続く階段に、そろそろ心細くなってきたミトが、やっぱり、今日はやめようとクルリと方向転換をしたところで、足を滑らせてしまった。
「きゃ――」
闇の中を真っ逆さまに落ちて行く。やがて、ミトの体は、広間の床に着地した。床は弾力のある素材でできているのか、ミトを受け止めて、まるでトランポリンのように弾んだ。
「いたぁ」
手元の灯りはどこかに吹っ飛び、暗闇の中に閉じ込められる。ふと、おしりの下に何か丸くて硬いものを敷いていることに気づいて、手探りで確認する。それは小玉スイカくらいの大きさの球だった。天辺に指に絡みつく絹糸のようなものが付いていて、掴み取ると、ズルリと剥がれた。ミトは息を飲む。球面には、ところどころに穴が開いている。穴が開いている面は一面のみ、二つの穴の下に一つの穴……穴?ミトは、凍りつく。
――思い出した!私は、裏山で蝶を追いかけていたんだ。そして、窪地に、落ちた……そして、気づいたら日が暮れていた。遠くで父さんや母さんが自分を呼ぶ声がしたけど、体中が痛くて返事ができなかった。窪地の底から見上げた狭い亀裂のような空に、月が昇り、沈み、日が昇り、沈み……それが何度も繰り返された。怖くて、心細くて、泣きじゃくっていたけど、いつしか涙は出なくなった。後は、ただ、ただ、辛くて、早くこれが終わることを願っていた。
そして、満月が登った夜……オークがミトを見つけてくれた。
――私は……死んだの?じゃあ、これは?何?これは……私の……頭の骨?なの?
「……」
言葉もないまま凍りつく。
「見てはいけないと、あれほど言っておいたのに……君は、また見てしまったんだね」
後ろでオークの声がした。怒っているような、悲しんでいるような、でも静かな声。
「オークっ」
ゆっくり近づいてきたオークは、ミトに口づける。苦いドロドロとした液体が口に拡がる。嫌がるミトを抱きしめたまま、オークは、舌を使って液体をミトの喉の奥に流し込む。目の前が霞んで、オークがミトの視界からフェードアウトしていった。
君は、何も知らなくていいんだよ
君が何度気づいても、僕がその度に忘れさせてあげる
君の亡骸なんて、どこにもなくなるよ
全部僕が吸収してしまうから
残るのは、君を愛した記憶だけ
それが現実、それが事実、それが真実……
僕は、君を何千年も愛し続けるよ
誓うよ
嘘じゃないよ
だって、僕は木なんだから……
ピィィ――ン、オークに抱きしめられたミトの胸の骨が、幽かな音をたててひび割れる。砕けた骨の欠片を口に含んで、オークは妖艶にほほ笑んだ。
骨の一欠片まで、君は僕のもの……