第3話 魂がない人間の一日
カップラーメンの三分間は、人生で一番長い時間だと思っています。
異論は認めます。でも、あの三分間に勝てる長さを、俺はまだ知りません。
魂があれば、もう少し短く感じるんですかね。
六時に目が覚めた。
天井に染みが三つある。右上のやつは犬に見える。真ん中のやつは地図。左下のやつは何にも見えない。毎朝確認しているわけではないが、毎朝見ている。染みの方も、毎朝見られているとは思っていないだろう。
台所でやかんに水を入れて、火をつけた。
お湯が沸くまでの二分半、窓の外を見た。向かいのアパートの洗濯物が風に揺れていた。カラスが電線に止まっていた。空は曇り。南浦和の朝は、晴れていても曇っていても同じ顔をしている。
インスタントコーヒーをマグカップに入れて、ベランダに出た。
温かかった。苦かった。うまかった。
三日連続で同じ感想だった。語彙が足りないのか、コーヒーが毎朝同じ味なのか。たぶん両方だ。
ヨリは部屋の隅にいた。昨夜からずっと同じ場所にいる。腕を組んで、壁にもたれて、浮いている。天使の寝姿がこれなのか、そもそも寝ていないのかは分からない。
「おはようございます」
「…………」
返事はなかった。昨日もなかった。
天使はおはようを言わない生き物なのかもしれない。あるいは、魂のない存在に朝の挨拶をする意味がないと判断しているのかもしれない。どちらでもいい。俺は言いたいから言っている。挨拶に魂がいるなら、ハローワークの受付は成立しない。
七時。歯を磨いた。顔を洗った。着替えた。ユニクロのTシャツとジーンズ。今日は面接がないので私服でいい。私服と言っても選択肢は三枚のTシャツしかない。黒、グレー、白。今日はグレーにした。特に理由はない。
「毎日同じような服を着るんですね」
ヨリが初めて、向こうから話しかけてきた。
「三枚あれば足ります」
「足りるかどうかではなく」
「じゃあ何ですか」
「……いえ。何でもないです」
何か言いかけてやめた顔だった。天使にも、飲み込む言葉があるらしい。
八時。ノートパソコンを開いた。五年前に買った中古で、起動に三分かかる。三分は長い。コーヒー半杯分の時間だ。人生で最も無防備な三分間かもしれない。画面が真っ暗なまま、かすかにファンが回る音だけが聞こえる。この三分間だけは、魂があろうがなかろうが平等に退屈だ。
就活サイトを開いた。昨日ブックマークした三件を確認した。一件はすでに締め切られていた。こういうとき、「もう一日早ければ」と思うのが普通だろう。思わなかった。締め切られたものは仕方がない。残りの二件のうち一件に応募した。もう一件は勤務地が遠い。片道一時間半で交通費なし。往復三時間を無給で過ごす人生には、さすがに魂が必要だと思った。
「それが就職活動ですか」
「はい」
「……地味ですね」
「地味です」
「もっとこう、精力的に動くものだと思ってました」
「精力的に動いた時期もありました。三十二回くらい」
「結果は」
「全部落ちました」
「…………」
「地味にやっても精力的にやっても結果が同じなら、体力を使わない方がいいです。体力はコーヒーに使いたい」
「……コーヒーに体力を使うんですか」
「マグカップを持ち上げる筋力は必要です」
ヨリが呆れた顔をした。天使の呆れ顔は、担任に叱られている中学生の逆版みたいだった。叱る側なのに、叱りきれない顔。
十一時。腹が減った。
財布を持って外に出た。ヨリがついてきた。俺の二歩後ろを、地面から五センチ浮いたまま移動している。影がないから、他人には見えないらしい。見えていたら通報されている。
コンビニで百円のパンを買った。チョコチップの入ったやつ。税込百八円。レジの店員が「袋はいりますか」と聞いた。「いらないです」と答えた。袋の要不要に魂は関係ない。環境問題は魂の有無を問わない。
アパートの前のベンチで食べた。ベンチと言っても、大家さんが木の板に足をつけただけのものだ。座ると少しきしむ。畳と同じだ。古いものは、人が乗ると声を出す。
「それが昼食ですか」
「はい」
「パン一つ」
「百円のパンです」
「栄養が足りないのでは」
「魂がない人間に栄養の基準があるんですかね」
「……それは」
「冗談です。夜はカップラーメンを食べるので」
「それを足しても足りてません」
「天使に栄養の知識が?」
「常識です」
不機嫌な声だった。怒っているのではなく、呆れの純度が上がった声だった。
十四時。面接の電話が来た。明日の十時。営業事務。正社員。
「面接が入りました」
「何社目ですか」
「三十三社目です」
ヨリが少し間を置いた。
「……頑張りますね」
「頑張ってるわけじゃないです。他にすることがないだけです」
「何もしないんですか。就活以外に」
「何かする必要がありますか」
「必要があるかないかではなく」
「じゃあ何ですか」
「…………」
また、飲み込んだ。今日二回目だ。
天使に飲み込めない言葉があるなら、それはどこに行くのだろう。魂のある存在が飲み込んだ言葉は、腹の底にでも沈むのだろうか。
十六時。散歩に出た。
目的地はない。ただ歩いた。アパートから駅の方へ向かい、駅前を素通りし、商店街を抜けて、住宅街に入った。知らない角を曲がった。知らない道を歩いた。
たまにこうして知らない道を歩くと、少しだけ気分が変わる。気分が変わるということは、気分があるということだ。魂がないのに。不思議だった。——不思議だったが、「不思議だな」と思うことにも、三日で慣れた。
小さな公園を見つけた。
ベンチが二つ、砂場が一つ、ブランコが二つ、滑り台が一つ。誰もいなかった。夕方の公園は、使われていない舞台みたいだった。照明だけがついていて、役者がいない。
ベンチに座った。空を見た。曇りのままだった。
ヨリが——珍しく、地面に足をつけて——隣に座った。
足をつけたのを見たのは初めてだった。
「疲れたんですか」
「天使は疲れません」
「じゃあなぜ座ったんですか」
「……なんとなく」
隣のベンチの脇に花壇があった。パンジーが咲いていた。黄色と紫。季節通りの、普通の花だった。
風が吹いた。花が揺れた。
しばらく、何も話さなかった。
「橘田さん」
「はい」
「あなたは——魂がない存在として、何もできないはずなんです」
「はい」
「歩くことも、食べることも、眠ることも。感情を持つことも、退屈することも、散歩に出ることも。全部、魂がなければ不可能です。私たちの知識では」
「そうらしいですね」
「なのにあなたは全部やっている」
「やっているというか——気がついたらやってた、という感じです」
ヨリの声が、少しだけ小さくなった。
「あなたが苦しんでいるなら、分かるんです。魂なしで無理に動いている肉体なら、どこかに歪みが出る。痛みが出る。それが見えれば、報告書に書けます」
「でも」
「でも、あなたは普通に生きている。普通にコーヒーを飲んで、普通にパンを食べて、普通に公園のベンチに座っている」
ヨリが俺の方を見た。
「普通に生きていることが——私には、一番の異常に見えます」
俺はベンチの背もたれに体を預けた。
「……異常ですかね」
「異常です」
「そうですか」
「悔しくないんですか。異常だと言われて」
「悔しいというか……そういうものだと思ってます」
「そういうもの」
「俺の人生は、だいたい『そういうもの』です。就活に落ちるのも、友達が少ないのも、部屋が四畳半なのも。全部、朝起きたらそうなってる」
「魂がないことも?」
「魂がないことも」
ヨリが黙った。
風が止んだ。パンジーが静かになった。
夕暮れが近かった。空の灰色が、端の方からうっすらとオレンジに変わり始めていた。
「……帰りますか」
「はい」
立ち上がった。ヨリも立ち上がった。また浮いた。足が地面についていたのは、あの数分だけだった。
公園を出て、来た道を戻った。
——背後で、何かが光った。
俺は気づかなかった。
花壇のパンジーが、一瞬だけ光を放った。黄色い花びらが金色に、紫の花びらが青白く。夕暮れの空気を切り裂くような、でも音のない光。
一秒もなかった。瞬きの間に消えた。
ヨリだけが振り返った。
目を細めた。
光は、もう消えていた。パンジーは普通のパンジーに戻っていた。
——残響。
異世界の概念になった勇者。橘田一の魂。その残響が、橘田の近くで漏れている。
ヨリはその言葉を、頭の中で転がした。
報告すべきだろうか。
報告すべきだ。
でも——花が一瞬光っただけだ。橘田は気づいてすらいない。普通に歩いている。普通に帰っている。
ヨリは、報告書にこう書くことにした。
——「本日も異常なし」
嘘ではない。橘田一にとっては、異常なしだった。
アパートに戻った。
外階段を上がったところで、人とぶつかりそうになった。
「あ」
「あ」
隣の部屋の人だった。仕事帰りらしい。紺色のカーディガンにトートバッグ。朝ゴミ出しで会ったときと同じ髪型で、少しだけ疲れた顔をしていた。
「おはようございます」
——言ってから気づいた。もう夕方だ。
「……こんばんは、ですね、もう」
彼女が少し笑った。
「そうですね。こんばんは」
それだけだった。彼女は隣の部屋に入り、俺も自分の部屋に入った。
ドアを閉めてから、ふと思った。名前を知らない。二度会って、二度挨拶をして、名前を知らない。
靴を脱ぎながら、ドアの横にある郵便受けが目に入った。サンハイツ南浦和の郵便受けは、ドアの横に直接ついている型だ。隣の部屋の郵便受けに、小さなテプラで名前が貼ってあるのが見えた。
深町。
知ろうとしたわけではない。見えただけだ。視界に入っただけだ。
でも、名前というのは不思議なもので、一度見ると忘れない。忘れる方が難しい。魂がなくても、記憶は残る。
カップラーメンを作った。しょうゆ味。お湯を入れて三分。三分は、散歩の帰り道くらいの長さだ。さっき歩いた道を思い出しているうちに、三分が過ぎた。
食べた。特別うまくはない。でも腹は膨れた。
もう一度就活サイトを開いた。明日の面接の場所を確認した。駅から徒歩七分。持ち物は履歴書と筆記用具。スーツ着用。
面接で聞かれそうなことを考えた。
——五年後の自分。
面接でよく聞かれる質問だ。三十二回の面接で、七回は聞かれた。打率二割二分。野球なら控え選手だが、面接においてはレギュラー級の質問だ。
五年後の自分。三十六歳の橘田一。
働いているだろうか。どこかの会社で、何かの仕事をしているだろうか。
部屋は変わっているだろうか。四畳半のままかもしれない。天井の染みがまだ三つあるかもしれない。
魂は——あるだろうか。
ないだろう。たぶん。ずっとない。ずっとないまま、コーヒーを飲んでいるだろう。
それは良いことなのか、悪いことなのか。
分からなかった。ただ——温かいコーヒーがあるなら、それでいいような気はした。
「五年後の自分について、どう思いますか」
ヨリが聞いた。考えが顔に出ていたらしい。
「分かりません」
「分からない」
「五年後の自分が想像できないです。でもたぶん、魂があっても想像できないと思います」
「なぜ」
「五年前の俺も、今の自分を想像できなかったはずなので。まさか魂がないとは思ってなかったでしょうし」
ヨリが少しだけ、口の端を動かした。笑ったのかもしれない。天使の笑い方は分かりにくい。
二十二時。歯を磨いた。布団を敷いた。電気を消した。
暗い天井。染みは見えない。でも、ある。見えなくてもある。
「おやすみなさい」
「…………おやすみなさい」
返事が、返ってきた。
小さな声だった。聞こえるか聞こえないかの、ぎりぎりの声だった。
でも、昨日は返ってこなかった。今日は返ってきた。
それだけのことだ。
それだけのことが、少し温かかった。
明日は面接だ。五年後の自分を聞かれたら、何と答えよう。
——「分かりません」と答えるだろう。
不採用になるだろう。
でも帰り道にコーヒーを買うだろう。
温かいだろう。
それで十分だ。たぶん。
ヨリの報告書(二日目)。
「対象・橘田一。観測二日目。
本日も異常なし。コーヒーを飲んでいた。
以上」
上司のコメント:「だから、もう少し詳しく書け」




