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第2話 隣の部屋の人

アパートの廊下で隣人とすれ違うとき、なんと言いますか。


「おはようございます」でしょう。


たぶん、それ以外のことを言う人はあまりいません。


魂があってもなくても、「おはようございます」は「おはようございます」です。

 朝七時。ゴミの日だった。


 サンハイツ南浦和には、ゴミ捨て場のルールが三つある。可燃ゴミは火曜と金曜。ビン・カンは水曜。粗大ゴミは事前申請制。このルールだけは、魂があろうがなかろうが守らなければならない。社会とはそういうものだ。


 カップラーメンの容器を袋に詰めて、廊下に出た。


 隣の部屋のドアが同時に開いた。


 女性が立っていた。ゴミ袋を持って。


 髪をひとつに結んで、紺色のカーディガンを着ている。少し眠そうな目をしていた。見覚えはある。廊下ですれ違ったことが何度かある。名前は知らない。たぶん会社員だと思う。朝の八時頃に出て、夜の七時頃に帰ってくる。壁が薄いので、なんとなく生活音で分かる。


「おはようございます」


 彼女が言った。


「おはようございます」


 俺が答えた。


 それだけだった。


 並んで階段を降り、ゴミ捨て場にゴミを置き、並んで階段を上り、それぞれの部屋に入った。


 合計四秒の会話。


 部屋に戻って、コーヒーを入れた。いつものインスタント。いつものマグカップ。いつものベランダ。


 飲みながら、さっきの声を思い出した。


 温かかった。


 ——温かかった?


 声に温度があるのか。物理的にはない。音波に温度はない。たぶん。高校の物理で習った気がする。たぶん。


 でも、温かかったのだ。


 魂がない人間が「温かい」と感じるのは、おかしなことなのだろうか。昨日までなら考えもしなかった。今日は少しだけ、考えた。


 少しだけ考えて、やめた。コーヒーが冷めるから。


 九時。ハローワークに行った。


 求人を三件ほど探して、一件応募した。事務職。一般事務。資格不問。交通費支給。


 十一時。面接が入った。急だった。「午後でもいいですか」と聞かれたので「いいです」と答えた。他に予定がない人間は返事が早い。


 十四時。面接。


 小さなオフィスビルの三階。観葉植物が枯れかけていた。面接官は五十代くらいの男性で、ネクタイが少し曲がっていた。


「橘田さん。では、まず——趣味について教えていただけますか」


 趣味。


 就職活動を何十回と繰り返してきたが、この質問にはいまだに慣れない。趣味とは何か。定期的に行い、自分の時間を費やし、楽しみを得る活動。それが趣味だ。


「コーヒーを飲むことです」


「……コーヒー」


「はい」


「淹れるのがお好きなんですか。豆にこだわりが?」


「いえ、インスタントです」


「……インスタント」


「はい。ネスカフェの、赤いキャップのやつです」


 面接官が少し黙った。


「……他には」


「他には特にないです」


 面接官がペンを置いた。置き方が静かだった。静かなペンの置き方は、だいたい不採用の前兆だ。三十二回の経験で学んだ。


「本日はありがとうございました。結果は一週間以内にご連絡いたします」


 一週間以内。不採用の通知は、いつもこの言い方だ。採用のときは「すぐにでも」と言うらしい。らしい、というのは、俺がそう言われたことがないからだ。


 オフィスビルを出て、自販機でコーヒーを買った。百三十円。ボタンを押す。缶が落ちてくる。プルタブを引く。


 うまくはない。でも温かい。


 それで十分だ。たぶん。


 夕方、アパートに戻った。


 玄関のドアを開けたら、部屋の中に誰かがいた。


 ——いや、「誰か」ではない。


 人の形をしていたが、人間ではなかった。


 中学生くらいの少女の姿をしていた。セーラー服を着ている。髪は短い。表情は無愛想を通り越して、不機嫌だった。ただ、足が床から五センチほど浮いていた。


 少女は俺の部屋の真ん中で、腕を組んで浮いていた。


「…………」


「…………」


 俺はドアを閉めた。靴を脱いだ。部屋に上がった。


「……どちら様ですか」


「ヨリ。下級管理天使。あなたの監視・報告を担当します」


 早口だった。事務的だった。完全に仕事で来ている声だった。


「監視」


「はい」


「何の」


「あなたの存在を、です。上からの命令です」


「上というのは」


「昨日来たでしょう。あれです」


「ああ、神」


「はい」


 ヨリと名乗った少女は、腕を組んだまま俺を見下ろしていた。浮いているので、物理的に見下ろしていた。


「橘田さん、でしたか」


「はい」


「一つ言わせてもらっていいですか」


「どうぞ」


「魂ないのに動いてるの、不気味なんで早く止まってほしいんですけど」


「…………」


「死ねとは言ってません。停止してほしいだけです」


「それは実質的に同じでは」


「天使的には違います」


 俺はとりあえず、台所に向かった。


「コーヒー飲みますか」


「飲みません」


「そうですか」


 お湯を沸かした。インスタントコーヒーをマグカップに入れた。ヨリは部屋の真ん中で浮いたまま、じっとこっちを見ていた。


「何をしてるんですか」


「コーヒーを入れてます」


「それは見れば分かります。なぜです」


「飲みたいからです」


「魂がないのに?」


「魂がなくても喉は渇きます」


「……渇かないはずですが」


「渇くんです」


 ヨリが眉をひそめた。天使の眉間にしわが寄ると、教室で先生に怒られている中学生みたいに見えた。


 コーヒーをすすった。温かかった。


「抵抗しないんですか」


「何にですか」


「監視に。普通、嫌がるでしょう」


「する理由がないです」


「……理由がない」


「見られて困ることもないですし」


 ヨリが黙った。何かを考えているようだった。あるいは、何を考えていいか分からないようだった。


「……勝手にさせてもらいます」


「どうぞ」


 ヨリは浮いたまま、部屋の隅に移動した。壁に背中をつけて、腕を組んで、俺を見ている。浮いたまま壁にもたれる姿勢は、物理法則的にどう成立しているのか分からなかった。


 俺はコーヒーを飲み終えて、就活サイトを開いた。


 ヨリが隅から見ている。


 求人を三件ブックマークした。


 ヨリが隅から見ている。


 カップラーメンにお湯を入れた。


 ヨリが隅から見ている。


「……ずっと見てるんですか」


「監視ですから」


「暇じゃないですか」


「暇です」


「……正直ですね」


「天使ですから」


 カップラーメンを食べた。シーフード味。まあまあだった。ヨリは何も食べなかった。天使は食事をしないらしい。


 歯を磨いた。布団を敷いた。電気を消した。


 暗闇の中、部屋の隅にヨリの気配があった。見えないが、いるのは分かった。


「おやすみなさい」


「…………」


 返事はなかった。


 目を閉じた。


 今日あったことを、頭の中で整理した。ゴミ出し。隣の人。おはようございます。温かい声。ハローワーク。面接。趣味。インスタントコーヒー。不採用。自販機。ヨリ。監視。コーヒー。カップラーメン。


 魂がなくても、一日はちゃんと一日分の長さがある。


 そのことが少し不思議で、少しありがたかった。


 翌朝。


 俺はいつも通り六時に起きた。コーヒーを入れた。ベランダに出た。


 ヨリはまだ部屋の隅にいた。一晩中いたのかもしれない。天使に睡眠が必要かどうかは知らない。聞こうかと思ったが、やめた。


 七時。ゴミの日ではないが、廊下に出た。


 理由はない。たぶん。


 隣の部屋のドアが開く気配はなかった。


 当たり前だ。ゴミの日でもないのに廊下に出る理由は、普通の人間にはない。魂のない人間にも、たぶんない。


 部屋に戻った。


 ヨリが見ていた。


「何をしてたんですか」


「……散歩です」


「廊下を三歩歩いて戻ってきただけですが」


「短い散歩です」


「…………」


 ヨリは何も言わなかった。ただ、少しだけ首をかしげた。


 その日の夜、ヨリは初めての報告書を書いた。


 正確には、書いているところを見たわけではない。部屋の隅で、小さな光が数秒だけ瞬いた。何かを送信しているようだった。


「……何を書いたんですか」


「報告書です。内容は機密です」


「そうですか」


 機密、と言われたので聞かなかった。


 ただ、ヨリが少しだけ困った顔をしていたのは見えた。書くことがなくて困っている顔だった。面接のときに「他に何かありますか」と聞かれて黙ってしまう、あの顔に似ていた。


 報告書の内容を、俺は知らない。


 でもたぶん、大したことは書かれていないと思う。


 だって今日の俺は、コーヒーを飲んで、面接に落ちて、カップラーメンを食べて、寝ただけだ。


 報告することがあるとすれば、一つだけ。


 隣の部屋の人の「おはようございます」が温かかったこと。


 ——でも、それを報告書に書く天使は、たぶんいない。

ヨリの初報告書全文は以下の通りです。


「対象・橘田一。観測初日。

 対象は極めて正常。

 異常なのは、正常であること。

 以上」


上司のコメント:「もう少し詳しく書け」

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