第8話 「観測者と漂流者Ⅱ」
研究棟の旧暗室は、今では使われていない。
デジタル化で不要になった写真現像設備が隅へ寄せられ、黒い遮光カーテンは半分外されたままだ。学生は近寄らず、教職員も存在を忘れている。澪里は一度、機材の乾燥に使えないかと覗いたことがあって、換気が生きていることと、監視カメラが廊下側にしかないことを知っていた。
その部屋で、冬真は入口に一番近い椅子へ腰を下ろした。逃げ道を背にできる位置だ。何かあればすぐ立てるように、身体の向きまで計算している。
澪里はドア脇の小机へタブレットと小型計測器を広げた。
「何だそれ」
「簡易の磁場センサと生体ログ。だいたいの数値しか取れませんけど」
「俺に使う気か」
「嫌ならやめます」
「嫌だ」
「そうですか」
澪里があっさり引き下がると、冬真は少し拍子抜けしたようだった。
「……諦めるのは早いな」
「嫌がる相手に無理やりやっても意味がないので」
「研究者ってそういうものか」
「人によります」
澪里は小さな保温ボトルを取り出した。
「お茶、飲みますか」
「何だその顔は」
「いや、あなたが断りそうだなと」
「毒が入ってなければ飲む」
「失礼ですね」
紙コップへ注いだ温かい麦茶を差し出すと、冬真は数秒だけ見つめてから受け取った。唇をつけ、飲んだ瞬間、目がわずかに見開く。
「熱い」
「温かいんです」
「……こんな時間でも、こういうのがすぐ飲めるのか」
その呟きに、澪里は返事を失いかけた。
研究棟の給湯室でお湯を沸かし、ボトルへ入れてきただけの麦茶だ。こちらでは珍しくも何ともない。だが冬真の顔に浮かんだのは驚きだった。贅沢を見たような驚きではなく、それが当然にあることへの、もっと深い戸惑いだった。
「そうですね。珍しくはないです」
澪里が答えると、冬真は紙コップを見つめたまま、少しだけ苦い顔をした。
「向こうじゃ、温かいものを温かいまま飲めるだけで、だいぶ違う」
澪里は自分のコップへ視線を落とした。中身は同じ色をしているのに、意味が全く違う。
「……冬真のところ、人数はどのくらいなんですか」
前回より少し踏み込んだ問いだったが、今夜の彼はすぐには拒まなかった。
「二百ちょっと」
「そんなに」
「増えたり減ったりする」
「増えるんですか」
「別の地下区画が潰れたとき、流れてくる」
「減るのは」
問うてから、澪里は少しだけ言葉を悔いた。
冬真は紙コップの縁へ視線を落としたまま、短く答える。
「いろいろだ」
病気、事故、設備停止、外での作業、他区画への移動。言葉にしなくても、そのいろいろの重さは伝わった。
澪里は話題を変えるように、小型センサの画面を確かめた。時刻は二時一分。予測した山の中心まで、あと十数分。
「前回より顔色はマシですね」
「慣れたわけじゃない」
「でも倒れそうではない」
「お前、俺を毎回倒れる前提で見てるだろ」
「倒れそうな顔をしてるので」
「ひどいな」
吐き捨てるような口調なのに、少しだけ柔らかい。澪里はその変化に気づきながら、タブレットのログへ目を落とした。
「戻る前に、心拍だけ測らせてくれませんか」
「何に使う」
「往来の負荷を数値で見たい。前後で変化が取れれば、戻りやすい時間帯の予測精度が上がるかもしれない」
「かもしれない、ばかりだな」
「研究ってそういうものです」
「向こうじゃ、そういうかもしれないに命を預けるときは嫌な顔をされる」
「でも、預けてる」
冬真はコップを置き、しばらく澪里を見た。
「……お前は、自分が危ないことしてる自覚が薄い」
「あります」
「薄い」
「ありますって」
「じゃあ聞くが、俺が今ここでお前を縛って物だけ持って行く可能性は考えたか」
「少しは」
「少しか」
「でも、その可能性は低いと思いました」
「どうして」
澪里は少しだけ考えた。
「必要なものしか持っていかないから。前回も今回も、欲を出してない。あと、必要なら最初からそうしてる」
冬真は目を細める。
「甘いな」
「かもしれません」
「そこは認めるのか」
「分析結果なので」
澪里が平然と言うと、冬真はとうとう小さく息をこぼした。笑いと呼ぶには短いが、確かにさっきまでとは違う音だった。
そのとき、廊下の向こうで自動販売機の作動音が鳴った。
深夜巡回の清掃員か、研究室に泊まり込んでいる誰かが飲み物を買ったのだろう。冷却機の低い唸り、缶が落ちる小さな音、紙幣を数える電子音。日常に埋もれていた機械の音が、暗室の沈黙にやけに鮮明に響く。
冬真の視線が扉のほうへ流れた。
「飲み物の機械です」
「わかる」
「ならいいですけど」
「いや、わかるが……」
冬真は言葉を切る。やがて低く続けた。
「夜中に、ああいう音が普通にするんだな」
澪里は返す言葉を一瞬見失った。
夜中に自販機が動く音。そんなものに心を動かされる人がいるのだと、今まで想像したことがなかった。だが考えてみれば当然だった。地下に閉じた共同体で、夜の気配は送風機と咳と足音くらいなのだろう。自動販売機の無機質な作動音ですら、止まっていない社会の証明になる。
澪里は立ち上がった。
「少しだけ、外に出ますか」
冬真が顔を上げる。
「何だ急に」
「戻るまでまだ少しあります。ここにいるだけより、あなたの反応が見たい」
「人を実験みたいに言うな」
「半分は本気です。半分は……」
澪里は言葉を選んだ。
「見てほしいから」
冬真は黙った。
拒否されるかと思ったが、結局彼は立ち上がった。完全に気を許したわけではない。けれど、自分でも止めきれない好奇心がどこかにあるのだろうと、澪里は感じた。
廊下は静まり返っていた。研究棟の照明は半分以上落とされ、床のワックスに非常灯が鈍く反射している。人の気配はほとんどない。
澪里は監視カメラの角度を確認しながら、冬真を非常階段へ案内した。そこを降りて裏口から出れば、警備室の死角を抜けてキャンパスの外周へ出られる。
外は思ったより冷えていた。
吐く息が白く、道路脇の植え込みは風に細く震えている。大学裏の通りは人通りこそ少ないが、街灯が等間隔に道を照らし、向こうの交差点では信号が律儀に色を変え続けていた。遠くでタクシーが流れ、コンビニの看板が青白く浮いている。
冬真は立ち止まった。
その横顔を見て、澪里は胸の奥が少し痛くなった。
彼は何か珍しい観光地を見ているわけではない。ただの大学裏の夜道を見ているだけだ。なのに、その視線には、あまりに多くのものが含まれていた。確認、警戒、懐かしさに似た痛み、そして手を伸ばしても届かないものを見るときの乾いた諦め。
「街灯、苦手ですか」
「いや……」
冬真は道の先まで並ぶ白い光を見ていた。
「こんなふうに、途切れず点いてるのを見るのが久しぶりなだけだ」
澪里は何も言えなかった。
コンビニの前まで来ると、自動ドアが開いた。温かい空気と、ホットスナックの匂いが流れ出る。冬真の足が、そこでほんのわずかに止まった。
「入るの初めてですか」
「似た店は昔あった」
「昔」
「子どものころに」
澪里は先に店内へ入った。冬真も続くが、入った瞬間から視線が忙しなく動く。棚、照明、雑誌、レジ脇のホットスナック、冷蔵ケース、乾電池コーナー、氷のボックス。何気ない並びが一つひとつ、彼には単なる背景ではないらしかった。
澪里はかごを一つ取り、冬真へ差し出した。
「必要そうなの、選んでください。大量は無理ですけど、私が払える範囲なら」
「そこまでは」
「ここまで来て遠慮されるの、面倒です」
「言い方」
「事実です」
冬真はかごを受け取ったものの、すぐには棚へ手を伸ばさなかった。冷蔵ケースの前では足を止め、整然と並んだ飲料を見ている。スポーツドリンク、牛乳、ゼリー飲料、プリン。どれもこちらではありふれた商品だ。
やがて彼が手に取ったのは、経口補水飲料とゼリー飲料、それに簡易栄養バーだった。
「それでいいんですか」
「軽い。すぐ使える」
選び方が、あまりにも情緒がない。
自分の好みではなく、使う場面から逆算しているのだと澪里はすぐにわかった。彼が次に手を伸ばしたのは絆創膏と小さなウェットタオル、それから電池売り場にあった単三のまとめパックだった。
「もっと食べ物でもいいのに」
「かさばる」
「あなたが食べる分は」
「後でいい」
その言い方がひどく自然で、澪里は眉を寄せた。
「後で、っていつですか」
「向こうで」
「向こうでちゃんと食べてるんですか」
「食べてる」
「嘘っぽい」
「……食べてる」
言い直した声に力がなく、澪里はため息をこらえた。
結局、彼女は自分の判断で温かいおにぎりと肉まん、それに小さな缶入りスープをかごへ入れた。冬真がそれを見て何か言いかける。
「反論は会計のあとで」
「勝手だな」
「さっきも言いました」
レジで精算を済ませるあいだ、冬真は店の端に立ったまま、雑誌棚の上に設置された小さな防犯モニタを見ていた。自分の姿がそこに映っているだろうことに気づくと、ほんの僅かに肩が強張る。澪里はそれを見て、彼がどれだけ見られることに慣れていないかを知った。




