第7話 「観測者と漂流者Ⅰ」
その週、朝倉澪里の生活は表面だけ以前と変わらなかった。
昼は研究室でデータ整理をし、夜は観測棟へ上がる。指導教員の久我に提出する解析結果をまとめ、学部生の質問に答え、食堂の時間を逃した日は研究室の流し台で適当なカップ麺をすすった。
だが、そのどれにも薄い膜がかかったような違和感があった。
通学路の自販機。
駅のホームの照明。
研究室の冷蔵庫へ当たり前に並ぶ試薬。
コンビニの棚に何段も積まれた電池や保冷剤。
それらは今まで澪里にとって背景だった。あるのが当然で、なければ少し不便なだけのものだった。けれど今は違う。同じものが、別の場所では誰かの命と直結していると知ってしまった。
その感覚を、澪里はまだ誰にも説明できなかった。
研究室のモニタには、境界観測のフォルダが開かれている。表向きは広角観測の環境補正データとして保存し、フォルダ名だけを自分しかわからない略称に変えた。夜ごとの時刻同期乱れ、学内送電ログ、上空の地磁気データ、宇宙天気予報の指標、ベテルギウス残光帯の観測条件。最初は気休めのような整理だったのに、三日も積み上げると、ばらばらだった点が奇妙な形で寄り始めた。
異常が出る夜には偏りがある。
完全な規則ではないが、風も雲量も関係の薄い日でも、地磁気の変動と時刻同期の乱れが小さな波のように重なる時間帯があった。午前一時台後半から二時台前半。しかもその山は、ベテルギウス残光帯の高度と学内設備の電力負荷が特定の条件に近づくと強くなる。
理屈はまだ組みきれない。
だが、少なくとも何もないタイミングに偶然開いたのではないと、澪里は確信し始めていた。
その夜も彼女は屋上にいた。
タブレットの隅には、手書きのメモが貼られている。
――一時四十分から二時十五分に乱れ集中。前後十分は誤差あり。
前回のやり取りのあと、冬真はそれ以上何も約束しなかった。必要があれば来る、としか言わなかった。だから本当に現れる保証はない。それでも澪里は、待つなら勘ではなく仮説に賭けたかった。
腕時計の秒針が一時四十八分を指したころ、屋上出入口の前に立てかけてあった細いアルミ棒が、かすかに震えた。
風ではない。金属同士が共鳴するときの、弱いふるえ方だ。
澪里は息を止める。
直後、階段室の向こうで低い唸りが走った。人の耳には聞き取りづらい、電源が無理に立ち上がる直前のような音。次いで、非常灯が一度だけ明滅する。
来た。
扉が開く前に、澪里は手元のタブレットの記録ボタンを押した。
階段室から現れた冬真は、前回より少しだけ早い足取りで入ってきた。けれど屋上へ踏み出した瞬間、彼は澪里の姿を見てわずかに立ち止まる。
「……何してる」
「仮説の検証です」
「わからない言い方をするな」
「あなたが来る時間を予測してました」
冬真の眉が寄る。
「当たったか」
「いまのところ」
澪里はタブレットを掲げて見せた。波形の記録欄に、ちょうど新しいノイズの山が立ち上がっている。
「来る前に前兆が出ます。学内の同期ずれと、出入口の金属共鳴。完全じゃないけど、目安にはなる」
冬真は無言で画面を見た。理解したのかしていないのか判別しづらい表情のまま、やがて小さく息を吐く。
「……本当に見てるんだな」
「見てるって言ったでしょう」
澪里はケースを足元へ引き寄せた。
「今日は頼まれたものに近そうなの、集めてみました。浄水器用の簡易フィルタ素材、実験用の銀系消毒材、温存時間の長い冷却材、あと電池。医療用の薬品そのものは無理でした」
冬真はケースの中身を一つずつ視線でなぞった。フィルタ素材のパックを手に取り、透かすように見る。その動きには、盗みに来た人間らしい乱暴さがない。使い道と価値を確かめる癖が身体に染みついている。
「これ、使えるかもしれない」
「かもしれない?」
「向こうの機材規格が全部同じじゃない」
「向こうの、って言うんですね」
冬真は顔を上げた。言ったあとに気づいたらしい。だが、今さら取り繕うほどの意味もないと判断したのか、そのままフィルタ素材をバッグへしまう。
「全部は持てない」
「必要なものを選んでください」
「そういう言い方、向こうでされたことない」
「向こうでって、たぶんあなたが行く場所は大抵、許可なく持ってくるしかない場所だからじゃないですか」
冬真の口元が、ほんのわずかに歪んだ。笑ったというほどではないが、前より少しだけ感情が見えた。
「……たしかに」
その一言で、屋上の空気が少しゆるむ。
澪里は続きを言った。
「それと、今日は一つだけお願いがあります」
「またか」
「またです」
「何だ」
「戻る時間、少し待てませんか」
冬真の目が鋭くなった。
「無理だ」
「まだ言い切る前に断らないでください。今夜の山、入ってくるほうは予測通りだったんですけど、戻る側は少しずれてる可能性があります。前回までのログと比べると、今夜は後ろへ寄ってる」
「何を根拠に」
「地磁気の揺れ方と、残光帯の高度。あと、学内の電力負荷が一時半に一度落ちてるので」
冬真は無言で澪里を見る。
「……だから」
澪里はタブレットのグラフを拡大した。
「今すぐ戻るより、三十分から四十分待ったほうが安定してるかもしれない。仮説です。でも、前回よりは根拠がある」
「かも、だろ」
「そうです。でも、今までよりは運じゃない」
冬真は答えない。
彼の顔色は今夜も良くなかった。渡ってきた直後ほどではないが、目の奥に疲れが沈んでいる。ここで長く足止めされることへの警戒もあるだろうし、向こうで待っている人々のこともあるのだろう。
澪里は少しだけ声を和らげた。
「ずっとじゃありません。三十分だけ。もし何も起きなかったら、その時点で戻ってもいい」
「その三十分で誰かが見回りに来たら」
「来ない場所があります」
「そんな都合のいい場所があるのか」
「大学って、案外あります」
澪里はケースを閉じ、肩をすくめた。
「夜の研究棟なんて、使われてない倉庫や空き室だらけです。監視カメラの位置も大体わかってます」
「どうしてわかる」
「夜中に観測機材を運ぶとき、邪魔だからです」
冬真は呆れたように黙った。だが、完全に否定はしない。
その沈黙の間に、屋上の冷たい風が吹き抜けた。冬真の外套が揺れ、フードの影からこめかみの汗がわずかに光る。疲労が来ているのだと、澪里にはわかった。
「座って休むだけでも違うと思います」
「休む場所じゃない」
「ここじゃなくて、下です」
冬真はしばらく考えたあと、低く言った。
「三十分だけだ」
「ありがとうございます」
「礼じゃない。お前の予測が外れたら、次は信用しない」
「外れないよう努力します」
「そういうところだぞ」
半ば呆れた声だったが、拒絶ではなかった。




