第6話 「同じ場所の、違う東京Ⅲ」
それはただの情報確認ではない問いだと、彼にも伝わったのだろう。少しのあいだ沈黙があり、やがて彼は低く言った。
「地上は、長く居られない場所が多い。設備が生きてる建物も少ない。人は地下にいる」
「地下って」
「駅。共同溝。避難施設。残った設備を継ぎ足して、何とか使ってる」
澪里の指先が冷える。
共同体。昨夜の保冷箱を必要としていた理由が、ようやく輪郭を持つ。病人。停まれば命に関わる機械。足りないバッテリー。あれは切羽詰まった個人の逃避ではなく、生き残った人々の生活だったのだ。
「あなた一人のためじゃないんですね」
冬真はすぐには答えなかった。
「一人のためでもあるし、一人じゃないためでもある」
澪里はその言葉を飲み込み、目を伏せた。
屋上の隅で、観測用カメラの冷却ファンが静かに回っている。こちら側の世界では、それは単に精度を上げるための装置にすぎない。向こう側では、同じ冷たさが誰かの命を保つ。
「危険なのに、何度も来てるんですね」
「来ないと困る」
「位相酔い、みたいなものですか」
澪里が慎重に言うと、冬真が怪訝そうにこちらを見る。
「勝手に名前をつけるな」
「でも症状がある。めまい、吐き気、鼻血、光への過敏。前回も今回も出てる」
「観察が細かいな」
「研究者なので」
「そういう問題か」
冬真は呆れたように言いながらも否定しなかった。それが答えだった。
「何度も渡ると悪化する?」
「する」
「こちらに長くいるのも危ない?」
「……長くいすぎると、帰るときがきつい」
「逆も?」
その問いに、冬真は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……そちらの人間がこっちへ来ても、たぶん同じだ」
――たぶん。
その曖昧さが、経験者の言葉だと澪里は思った。検証済みの理論ではなく、身体で知っている痛みだ。
風が強くなり、ケースの蓋がかたんと鳴った。
冬真が反射的に顔を上げる。警戒が、また全身へ戻る。長く話しすぎたと彼自身が判断したのだろう。
「もう十分だ」
「まだ聞きたいことがあります」
「次があるならな」
言いかけて、冬真は自分の口にした言葉を少し悔やんだように目を伏せた。
次があると、自分で認めたのと同じだった。
「あるんですか」
「……必要があれば」
「こっちはあると思ってます」
澪里がそう言うと、冬真は本気で困ったような顔をした。前回といい今回といい、この男は追い詰められたときより、まっすぐ返されるほうが弱いのかもしれない。
澪里はそこで、ずっと喉元に引っかかっていた問いを口にした。
「ねえ、冬真」
「何だ」
「ベテルギウスの爆発、向こうでもあったんですか」
その瞬間だけ、冬真の表情から色が抜けた。
澪里は息をのむ。
「……あった」
声は低く、乾いていた。
「じゃあ、どうして……」
「同じじゃなかった」
冬真はそれだけ言い切った。続きを遮るように保冷箱とバッテリーを手早くバッグへしまう。これ以上は踏み込ませないという意思が、その動きそのものに出ていた。
だが、そこまでで十分だった。
同じ星の爆発。似ている場所。違う東京。地下で生きる人々。
ばらばらだった断片が、ひとつの仮説へつながり始める。
澪里の胸の奥で、恐怖と興奮が同時にせり上がった。もしそれが本当なら、自分はいま、観測史でも理論物理でも説明しきれない何かの入口に立っている。
冬真は立ち上がった。少しふらついたが、前よりは持ち直している。必要なものを手に入れたからか、時間切れを自覚したからか、その横顔はもう話を終えた人間のものだった。
「これ以上は危ない。お前も、俺も」
「危ないのは、誰かに見つかるから?」
「それもある」
「それ以外も?」
冬真は一拍だけ間を置いた。
「通路は、開けば開くほど安定しない」
それだけ言って、彼は出入口のほうへ歩き出す。
澪里は追おうとしたが、途中で足を止めた。前回のように感情だけで追えば、また何も持ち帰れない。今は、聞けたことを離さないほうが先だ。
「冬真」
呼び止めると、彼は振り返らないまま足を止めた。
「次に来るなら、せめて先に必要なものを言ってください」
「言える立場か」
「あなたにとっては迷惑でしょうけど、私はもう知ってしまったので」
冬真の背中が、わずかに揺れる。笑ったのか、呆れたのか、澪里には見えなかった。
「……薬品は無理だ」
「努力はします」
「するな」
「検討します」
「聞いてないな」
「聞いてます」
会話としては噛み合っていないのに、不思議とそれが自然だった。
冬真がようやく振り向く。その目はまだ警戒を解いていない。だが前回のように、ただ切り離すための視線ではなかった。そこには、少しだけ迷いがある。こちらを危険に巻き込みたくないという迷いと、それでも手放せない必要とのあいだで揺れる目だった。
澪里は、その迷いごと見つめ返した。
「私、まだあなたを信用してるわけじゃないです」
「俺もだ」
「でも、見たものをなかったことにはできません」
「……そうか」
「だから」
澪里は一度、喉を湿らせるように息を吸った。
「次は、もっとちゃんと見せてください」
冬真の眉が寄る。
「何を」
「あなたの世界を」
夜風が止まったように感じた。
遠くで、大学のどこかの扉が閉まる。機械音がかすかに響き、ベテルギウスの残光が二人のあいだの沈黙を薄く照らしていた。
冬真はすぐには答えなかった。
無茶だと思っているのは、その顔を見ればわかる。危険だとわかっている。断るべきだとも思っている。なのに即座に否定しないのは、たぶんもう、澪里を完全には外の人間として扱えなくなり始めているからだ。
「見れば、戻れなくなるかもしれない」
ようやく出た言葉は、脅しでも忠告でもなく、ほとんど独り言に近かった。
「何に?」
澪里が問うと、冬真は少しだけ視線を落とした。
「知らなかった頃には」
それだけ言って、彼は階段室の扉を開けた。
閉まる直前、澪里はもう一度呼んだ。
「冬真」
「……何だ」
「私は、見たいです」
数秒の沈黙のあと、扉の向こうから低い声が返る。
「次、無事に来られたら考える」
それが承諾ではないことはわかっていた。けれど拒絶でもなかった。
扉が閉まり、屋上にはまた風の音だけが残る。
澪里はしばらくその場に立ち尽くしていた。冷えた空気が頬を刺す。ケースの中は半分空になり、観測用カメラの赤いインジケーターが静かに点滅している。
タブレットの画面には、今しがたの時刻が刻まれていた。
指先が震えている。寒さのせいだけではない。怖かった。自分が何へ踏み込もうとしているのか、はっきりわかっているわけではない。けれど、ようやくひとつだけは確かになった。
あの夜見たものは幻ではない。
冬真も、向こう側も、実在する。
そして、自分はもう、その実在を知らなかったことにはできない。
澪里は屋上の手すりへ歩み寄り、空を見上げた。
東京の夜は変わらず静かで、遠くの道路には車の灯りが流れている。誰もが同じ空の下にいると思って眠る街の上で、ベテルギウスの残した光だけが、静かに滲んでいた。
同じ場所の、違う夜。
そのあいだにある薄い膜へ、彼女はもう片足を踏み入れていた。




