表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ベテルギウスの空 ー天体物理事変、あるいはひとつの恋のかたちー  作者: 渡海真記


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/9

第6話 「同じ場所の、違う東京Ⅲ」

 それはただの情報確認ではない問いだと、彼にも伝わったのだろう。少しのあいだ沈黙があり、やがて彼は低く言った。


「地上は、長く居られない場所が多い。設備が生きてる建物も少ない。人は地下にいる」


「地下って」


「駅。共同溝。避難施設。残った設備を継ぎ足して、何とか使ってる」


 澪里の指先が冷える。


 共同体。昨夜の保冷箱を必要としていた理由が、ようやく輪郭を持つ。病人。停まれば命に関わる機械。足りないバッテリー。あれは切羽詰まった個人の逃避ではなく、生き残った人々の生活だったのだ。


「あなた一人のためじゃないんですね」


 冬真はすぐには答えなかった。


「一人のためでもあるし、一人じゃないためでもある」


 澪里はその言葉を飲み込み、目を伏せた。


 屋上の隅で、観測用カメラの冷却ファンが静かに回っている。こちら側の世界では、それは単に精度を上げるための装置にすぎない。向こう側では、同じ冷たさが誰かの命を保つ。


「危険なのに、何度も来てるんですね」


「来ないと困る」


「位相酔い、みたいなものですか」


 澪里が慎重に言うと、冬真が怪訝そうにこちらを見る。


「勝手に名前をつけるな」


「でも症状がある。めまい、吐き気、鼻血、光への過敏。前回も今回も出てる」


「観察が細かいな」


「研究者なので」


「そういう問題か」


 冬真は呆れたように言いながらも否定しなかった。それが答えだった。


「何度も渡ると悪化する?」


「する」


「こちらに長くいるのも危ない?」


「……長くいすぎると、帰るときがきつい」


「逆も?」


 その問いに、冬真は一瞬だけ言葉に詰まった。


「……そちらの人間がこっちへ来ても、たぶん同じだ」


 ――たぶん。


 その曖昧さが、経験者の言葉だと澪里は思った。検証済みの理論ではなく、身体で知っている痛みだ。


 風が強くなり、ケースの蓋がかたんと鳴った。


 冬真が反射的に顔を上げる。警戒が、また全身へ戻る。長く話しすぎたと彼自身が判断したのだろう。


「もう十分だ」


「まだ聞きたいことがあります」


「次があるならな」


 言いかけて、冬真は自分の口にした言葉を少し悔やんだように目を伏せた。


 次があると、自分で認めたのと同じだった。


「あるんですか」


「……必要があれば」


「こっちはあると思ってます」


 澪里がそう言うと、冬真は本気で困ったような顔をした。前回といい今回といい、この男は追い詰められたときより、まっすぐ返されるほうが弱いのかもしれない。


 澪里はそこで、ずっと喉元に引っかかっていた問いを口にした。


「ねえ、冬真」


「何だ」


「ベテルギウスの爆発、向こうでもあったんですか」


 その瞬間だけ、冬真の表情から色が抜けた。


 澪里は息をのむ。


「……あった」


 声は低く、乾いていた。


「じゃあ、どうして……」


「同じじゃなかった」


 冬真はそれだけ言い切った。続きを遮るように保冷箱とバッテリーを手早くバッグへしまう。これ以上は踏み込ませないという意思が、その動きそのものに出ていた。


 だが、そこまでで十分だった。


 同じ星の爆発。似ている場所。違う東京。地下で生きる人々。


 ばらばらだった断片が、ひとつの仮説へつながり始める。


 澪里の胸の奥で、恐怖と興奮が同時にせり上がった。もしそれが本当なら、自分はいま、観測史でも理論物理でも説明しきれない何かの入口に立っている。


 冬真は立ち上がった。少しふらついたが、前よりは持ち直している。必要なものを手に入れたからか、時間切れを自覚したからか、その横顔はもう話を終えた人間のものだった。


「これ以上は危ない。お前も、俺も」


「危ないのは、誰かに見つかるから?」


「それもある」


「それ以外も?」


 冬真は一拍だけ間を置いた。


「通路は、開けば開くほど安定しない」


 それだけ言って、彼は出入口のほうへ歩き出す。


 澪里は追おうとしたが、途中で足を止めた。前回のように感情だけで追えば、また何も持ち帰れない。今は、聞けたことを離さないほうが先だ。


「冬真」


 呼び止めると、彼は振り返らないまま足を止めた。


「次に来るなら、せめて先に必要なものを言ってください」


「言える立場か」


「あなたにとっては迷惑でしょうけど、私はもう知ってしまったので」


 冬真の背中が、わずかに揺れる。笑ったのか、呆れたのか、澪里には見えなかった。


「……薬品は無理だ」


「努力はします」


「するな」


「検討します」


「聞いてないな」


「聞いてます」


 会話としては噛み合っていないのに、不思議とそれが自然だった。


 冬真がようやく振り向く。その目はまだ警戒を解いていない。だが前回のように、ただ切り離すための視線ではなかった。そこには、少しだけ迷いがある。こちらを危険に巻き込みたくないという迷いと、それでも手放せない必要とのあいだで揺れる目だった。


 澪里は、その迷いごと見つめ返した。


「私、まだあなたを信用してるわけじゃないです」


「俺もだ」


「でも、見たものをなかったことにはできません」


「……そうか」


「だから」


 澪里は一度、喉を湿らせるように息を吸った。


「次は、もっとちゃんと見せてください」


 冬真の眉が寄る。


「何を」


「あなたの世界を」


 夜風が止まったように感じた。


 遠くで、大学のどこかの扉が閉まる。機械音がかすかに響き、ベテルギウスの残光が二人のあいだの沈黙を薄く照らしていた。


 冬真はすぐには答えなかった。


 無茶だと思っているのは、その顔を見ればわかる。危険だとわかっている。断るべきだとも思っている。なのに即座に否定しないのは、たぶんもう、澪里を完全には外の人間として扱えなくなり始めているからだ。


「見れば、戻れなくなるかもしれない」


 ようやく出た言葉は、脅しでも忠告でもなく、ほとんど独り言に近かった。


「何に?」


 澪里が問うと、冬真は少しだけ視線を落とした。


「知らなかった頃には」


 それだけ言って、彼は階段室の扉を開けた。


 閉まる直前、澪里はもう一度呼んだ。


「冬真」


「……何だ」


「私は、見たいです」


 数秒の沈黙のあと、扉の向こうから低い声が返る。


「次、無事に来られたら考える」


 それが承諾ではないことはわかっていた。けれど拒絶でもなかった。


 扉が閉まり、屋上にはまた風の音だけが残る。


 澪里はしばらくその場に立ち尽くしていた。冷えた空気が頬を刺す。ケースの中は半分空になり、観測用カメラの赤いインジケーターが静かに点滅している。


 タブレットの画面には、今しがたの時刻が刻まれていた。


 指先が震えている。寒さのせいだけではない。怖かった。自分が何へ踏み込もうとしているのか、はっきりわかっているわけではない。けれど、ようやくひとつだけは確かになった。


 あの夜見たものは幻ではない。


 冬真も、向こう側も、実在する。


 そして、自分はもう、その実在を知らなかったことにはできない。


 澪里は屋上の手すりへ歩み寄り、空を見上げた。


 東京の夜は変わらず静かで、遠くの道路には車の灯りが流れている。誰もが同じ空の下にいると思って眠る街の上で、ベテルギウスの残した光だけが、静かに滲んでいた。


 同じ場所の、違う夜。


 そのあいだにある薄い膜へ、彼女はもう片足を踏み入れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ