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ベテルギウスの空 ー天体物理事変、あるいはひとつの恋のかたちー  作者: 渡海真記


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第5話 「同じ場所の、違う東京Ⅱ」

「……冬真」


「名字は」


「そこまではいらない」


「じゃあ冬真さん」


「さんは要らない」


 その言い方が少しおかしくて、澪里は笑いそうになるのをこらえた。場に似合わない軽さだったが、張り詰めていた空気がほんの少しだけほどける。


「わかりました。冬真」


 名前を口にした途端、相手の目がほんのわずかに揺れた。まっすぐに自分の名を呼ばれることに慣れていないのかもしれない。


 冬真は視線を落とし、ようやくケースの前へ歩み寄った。だが手を伸ばす直前で、ふいに動きを止める。


 唇の色が悪い。呼吸が浅い。


「大丈夫ですか」


「……平気だ」


 明らかに平気ではなかった。


 冬真は眉間を押さえ、立っていようとしている。だが足元がわずかにふらついた。澪里は反射的に一歩踏み出す。今度は彼も強く拒まなかった。ただ、近づかれることそのものに慣れていないように肩が緊張する。


「座ってください」


「そんな時間は」


「倒れたらもっと時間を使います」


 冬真は何か言い返しかけて、結局黙った。


 澪里は観測用の折りたたみ椅子を引き寄せる。冬真はためらいながら腰を下ろしたが、その瞬間、息を詰めるように肩を縮めた。痛みか、吐き気か、その両方かもしれない。


「また、あれのあとですか」


 澪里が小声で言うと、冬真は顔を上げた。


「見たのか」


「見ました」


「……なら、余計に関わらないほうがいい」


「関わらないほうがいいのに、あなたはまた来た」


 冬真は答えなかった。


 澪里はタブレットを机の上へ置き、昨夜の波形を開く。時刻のピークが並んだ画面を、彼のほうへ向けた。


「この時間、屋上と階段室で同じ異常が出てます。短い電磁ノイズと、同期ズレ。あなたが消えた瞬間です」


「……それを見せて、どうしたい」


「あなたの話が作り話じゃないって、自分でも確かめたかっただけです」


「確かめて、満足したか」


「全然」


 澪里の返事に、冬真はほんの少しだけ目を細めた。呆れに近い。だが完全に突き放してはいない。


 澪里はさらに、透明のサンプル袋を取り出した。黒い粉が少量入っている。


「これも階段室で拾いました。高熱で焼かれた合金片みたいな反応が出てます。この建物の中で、自然に付着するものじゃない」


 冬真の視線が袋へ落ちる。


「持ち帰ったのか」


「放っておくほうが気持ち悪いので」


「……研究者だな」


「大学院生です」


「理学?」


「天体物理です」


 その言葉に、冬真が初めて明確に顔を上げた。


「空を見てるのか」


「見てます」


 短い会話だった。だが、そこにだけ他と違う重みが生まれる。冬真はそのことに自分で気づいたようで、すぐに視線を逸らした。


「だから、あの夜も屋上にいたんです。残光帯の観測をしてました」


「……あの空を、好きで見てるのか」


 質問というより、確かめるような口調だった。


 澪里は少し考えてから答えた。


「好き、だけで見てるわけじゃないです。きれいだとは思います。でも、きれいなだけじゃない」


 冬真の喉が小さく動く。


「向こうに見えた空は、もっとはっきりしてた」


「見たのか」


「ほんの一瞬だけ」


 あの裂け目の向こうに見えた、壊れた通路と夜。東京の上に広がっていたはずのない、傷のような色。


 澪里がそう言うと、冬真は目を閉じた。


「忘れたほうがいい」


「無理です」


「無理でも」


「冬真は忘れられてるんですか」


 問いは、思ったより静かに出た。


 冬真はゆっくり目を開けた。その目の底に、一瞬だけ疲れと怒りが混じる。だがそれは澪里へ向けたものではなく、もっと別の、どうにもならない現実へ向けられた感情に見えた。


「……忘れられるなら、来ない」


 それだけで十分だった。


 澪里は保冷箱を彼の膝の上へ置き、ケースから予備バッテリーを二つ取り出して並べる。


「これ、持っていってください」


「条件は」


「ひとつだけ」


「何だ」


「話せる範囲でいいから、話してください。全部じゃなくていい。けど、何も知らないままにするのは嫌です」


 冬真はバッテリーを見下ろしたまま、しばらく黙っていた。秒針の音もない屋上で、風だけが二人の間を過ぎる。


「……長くは話せない」


「十分です」


「信じるなよ」


「それは聞いてから決めます」


 冬真は少しだけ息を吐いた。観念したのか、あるいはこれ以上押し問答する余裕がないのか。


「ここと、よく似た場所から来てる」


「よく似た場所」


「同じと言ってもいい。でも、違う」


「階段室の向こうが?」


 頷きが返る。


「向こう側にも、この大学がある。壊れてるが、位置は同じだ」


「どういうことですか」


「俺にも全部はわからない」


 冬真は言葉を選ぶように間を置いた。


「昔は、もっと安定してたらしい。今は細い通路を、限られた条件で渡れるだけだ」


「昔って、どれくらい前」


「知らない。俺が使えるようになったのは数年前からだ」


「どうして渡れるんですか」


「鍵がある」


 彼は上着の内側へ触れた。あの円盤状の装置のことだろう。


「誰でも使えるわけじゃない?」


「たぶん違う。条件がある」


「時間とか、場所とか」


「両方だ」


 それ以上は説明を拒むように、冬真は保冷箱の留め具へ手をやった。中身を確認し、冷却材の構造を見ている。必要なものかどうか確かめる手つきだった。


「向こうは……」


 澪里は口を開き、言葉を選んだ。


「今、どうなってるんですか」


 冬真の手が止まった。

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