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ベテルギウスの空 ー天体物理事変、あるいはひとつの恋のかたちー  作者: 渡海真記


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第4話 「同じ場所の、違う東京Ⅰ」

 その夜、朝倉澪里は屋上の照明をひとつ落としていた。


 全部を消すと警備に怪しまれる。逆にいつも通り明るすぎても、影が薄くなって相手の動きが読みづらい。屋上出入口脇の非常灯だけを生かし、観測機材の周りは最低限の灯りに絞る。それが、彼女なりに考えたちょうどいい暗さだった。


 風は冷たい。


 観測棟の屋上から見上げる空には、今夜もベテルギウスの残した光が淡く滲んでいた。肉眼ではほとんど見間違いのような濃淡なのに、一度あの向こう側の空を見てしまうと、澪里にはそれがもう単なる天体現象の残光には思えなかった。


 タブレットの画面には昨夜までのログが開かれている。時刻同期の乱れ。電磁ノイズ。屋上と階段室で一致した異常値。引き出しから持ち出した黒い粉の分析結果は、まだ確定と言えるほどではないが、少なくともこの建物のコンクリート粉塵や金属錆だけでは説明しづらかった。高熱で焼かれた合金片の微粒子に近い反応が出ている。


 あれは、たぶん本当に向こうから付着してきたものだ。


 そう思うほど、逆に現実感が薄れていく。


 澪里は深く息をつき、足元のケースを開いた。中には予備バッテリーと、冷却材パックと、医療用の小さな保冷箱が入っている。保冷箱の中身は、研究室で温度管理用に使っている簡易冷却剤ではない。学内の保健センターから、こっそり持ち出したものでもない。そこまでの真似はしていない。ただ、学内搬送用の低温保持パックと、理学部の実験室で使う冷却素材を組み合わせて、いくらか長持ちするよう工夫しただけだ。


 自分が何をしているのか、澪里にもよくわからなかった。


 侵入者を待ち伏せしている。通報するためではなく、交渉するために。


 馬鹿げている、と理性は何度も言った。だが、それ以上に強かったのは、あの夜の階段室で見たものを一人で抱えていることの不安と、放っておけばすべてが霧散してしまう気がする焦りだった。


 彼がまた来る保証はない。


 だが、来る気がしていた。


 ――必要だからだ。


 あの男の言葉は、あまりにも切実すぎて、嘘として整理しにくかった。


 澪里は腕時計を見る。前回とほぼ同じ時刻を過ぎている。


 警備の巡回は十五分前に終わった。次が来るまで二十分ほど。もし本当に来るなら、その間だ。


 階段室の扉の向こうで、小さな金属音がした。


 澪里は息を殺した。


 今度はすぐには声をかけない。出入口脇の壁に身を寄せ、足音を聞く。前回と同じように慎重な、しかし素早い動き。相手は迷っていない。屋上の配置を覚えている。


 扉が開き、男が入ってくる。


 フード付きのくすんだ上着。擦れた外套の袖。背中の古いバックパック。暗がりでもわかるほど、頬がこけて見えた。前回よりも警戒している。視線が屋上全体を短く走り、機材、影、出入口、手すり、すべてを確認してから一歩踏み出す。


 澪里はあえて、その瞬間まで待った。


「こんばんは」


 男の足が止まった。


 振り向く動きは速かった。今度は最初から逃走経路を確保するように半身になり、右手が無意識に上着の内側へ入る。武器、と澪里は一瞬身構えたが、彼の指が探ったのは前回と同じ円盤状の装置らしかった。


「……待ってたのか」


 掠れた低い声だった。


「来ると思ってました」


「警備は」


「呼んでません」


 男は答えない。信じていないのか、信じたくないのか、そのどちらともつかない沈黙だった。夜風が吹き抜け、フードの端が揺れる。


 澪里は両手を見える位置に置いたまま、ゆっくりケースを足元から引き寄せた。


「今日はそれを取りに来たんでしょう」


 ケースの蓋を開ける。


 予備バッテリー。冷却材。保冷箱。


 男の目が、わずかに細くなった。獲物を見つけたというより、危険物を見定めるような視線だった。


「罠じゃないです」


「そう言うと思った」


「通報してないのは本当です」


「証明できるか」


「できません。でも、あなたもここに来た」


 男は口を閉ざした。


 それが答えのようなものだった。彼もまた、完全に安全だとは思っていない。それでも来た。必要だからだ。


 澪里はケースを閉じずに、その前へ立った。


「これ、渡せます」


 男の眉がわずかに動く。


「代わりに、話をしてください」


 すぐには返事がない。


 相手の目は疲れているのに、妙に澄んでいた。嘘を見抜くとか、理屈を量るとか、そういう種類の目ではない。危険と生存の境目を毎日見ている目だ、と澪里は思った。


「通報しない代わりに、情報を寄越せってことか」


「そう聞こえたなら訂正します。脅してるつもりはありません」


「じゃあ何だ」


「知りたいんです」


 言いながら、澪里は自分の声が思ったよりまっすぐだったことに少し驚いた。

「この前、階段室で何が起きたのか。あなたがどこから来たのか。あれが見間違いじゃないなら、私はちゃんと知りたい」


 男は空を見上げなかった。代わりに、出入口の暗い影を一度見たあと、もう一度澪里へ視線を戻す。


「知ってどうする」


「まだ決めてません」


「危険だとわかってるか」


「わかってるつもりです」


「つもり、か」


 わずかな皮肉が混じった。だが冷たく突き放す声ではなかった。むしろ、自分に言い聞かせるような響きに近い。


 澪里は一歩だけ前へ出た。


「あなたは、ここで研究機材を盗むような人です。でも、必要な分しか持っていかない。売るためじゃない。前回、冷却材を取ったのも、たぶん何かの薬を冷やすためでしょう」


 男の表情が微かに変わる。


「違いますか」


「……よく見てるな」


「見てましたから」


 澪里はケースの中から保冷箱を取り出して見せた。


「これなら前回のより温度が保てます。長く持つかはわからないけど、少なくとも屋外を運ぶには少しマシです」


 男はすぐには受け取らなかった。


 その沈黙のあいだに、階下のどこかでドアが閉まる音がした。二人ともそちらへ目をやる。まだ距離はある。警備ではない。ただの建物の音だ。


 男はようやく言った。


「どうしてそこまでする」


「あなたが必要だって言ったから」


 それだけではない。本当は、あの向こう側の空を見てしまったからだ。あれを見たあとで何もしないほうが、澪里にはむしろ不自然だった。


 だが全部を言葉にする前に、男が短く息を吐いた。


「……名前は」


「朝倉澪里です」


「本名か」


「そっちが聞いたんでしょう」


 少しだけ呆れたように言うと、男はほんの僅か、困ったように黙った。前回と同じだ。追い詰められているくせに、他人への当たりが不器用なくらい慎重だ。


「あなたは?」


「答える必要があるか」


「あります。せめて呼び方くらい必要です」


 男はしばらく口を開かなかった。

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