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ベテルギウスの空 ー天体物理事変、あるいはひとつの恋のかたちー  作者: 渡海真記


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第3話 「地下へ帰る男Ⅲ」

 翌朝、朝倉澪里は研究室の端末の前で、三度目の同じ波形を睨んでいた。


 理学部棟五階の共同研究室は、朝から人の気配で満ちている。湯気の立つ紙コップ、雑然と積まれた論文、机の下へ押し込まれた観測ケース。窓際では学部生が昨夜の撮像データを整理しており、別の机では誰かがオンライン会議の準備をしていた。


 その喧噪の中で、澪里の画面だけが妙に静かだ。


 昨夜、屋上で得られた広角撮影データ。時刻同期ログ。周辺電磁環境の簡易記録。どれにも同じ瞬間、不自然な跳ねがある。落雷でも機器故障でも説明しにくい、短い乱れ。しかも、記録は複数系統で一致していた。


 機材の不調なら、もっと雑に壊れるはずだ。


 誰かが後ろから覗き込み、「朝倉先輩、それ面白いノイズ出てますね」と言った。


 振り向くと、学部四年の男子学生がマグカップを片手に立っていた。澪里は画面を少しだけ自分のほうへ寄せる。


「まだノイズって決まったわけじゃないから」


「でも時刻ぴったりですよね。送電の切り替えとかじゃないんですか」


「学内の設備ログも確認したけど、その時間に該当なし」


「へえ」


 学生は気楽に相槌を打ったが、澪里はそれ以上話を広げさせなかった。


 昨夜のことは、まだ誰にも話していない。


 話してしまえば早いのかもしれない。夜の屋上で侵入者を見つけたこと。階段室で、ありえない現象を見たこと。壁の向こうに、壊れたもう一つの景色があったこと。


 だが、口にした瞬間、すべてが安っぽくなる気がした。自分でも説明しきれないものを、他人の顔を見ながら語る自信がない。


 澪里は昨夜採取した黒い粉の入った小さなサンプル袋に目をやった。机の引き出しの奥へ隠してある。まだ簡易分析にもかけていない。まずは自分でできる範囲を確かめたかった。


「朝倉さん」


 今度は研究室の出入口から声がした。


 指導教員の久我真理人(くが まりと)が、細いフレームの眼鏡越しにこちらを見ている。四十代半ばの彼は、いつも通り乱れのないシャツ姿で、片手に資料束を抱えていた。


「昨夜の広角撮影、取れてるかな」


「はい。処理中です」


「例の残光帯、今週はよさそうだからね。データまとまったら送って」


「わかりました」


 久我は頷き、何か言いかけてから画面の波形に視線を留めた。


「それは?」


「時刻同期ログに少し乱れが出ていて」


「機材トラブル?」


「まだ断定できません」


「面白そうなら、まとめておいて」


 軽い口調だったが、澪里はその目が一瞬だけ鋭くなったのを見逃さなかった。久我は未知の現象に対して敏い。だからこそ研究者として優れているし、だからこそ、今はまだ全部見せる気になれなかった。


 彼が別の机へ向かうのを待って、澪里は端末へ向き直る。


 昨夜の時刻、周辺の監視カメラの死角、屋上への動線、機材置き場の位置。ノートへ小さく書き出す。侵入者の身長、服装、持ち去ったもの、持ち物、体調不良の様子。相手の言葉まで、なるべく正確に。


 必要なんだ。


 生きるのに。


 その声がまだ耳に残っていた。


 研究室の外では、昼へ向かって大学のざわめきが増していく。階下の購買へ向かう足音、講義開始を告げるチャイム、窓の向こうを行き交う学生たち。何も壊れていない、いつもの世界だ。


 けれど澪里の中では、昨夜を境に何かがずれていた。


 壁の向こうにあった、壊れた階段。

 焼けた匂い。

 そして、あの空。


 あれが見間違いなら、それを証明したい。

 見間違いではないなら、なおさら確かめたい。


 澪里は新しいフォルダを作った。


 名称入力欄へ一度だけ迷い、それから短く打ち込む。


 ()()()()


 保存を押し、彼女は小さく息をついた。


 あの男はまた来る。


 必要だからだ。あの切迫は、一度きりの衝動ではない。


 ならば次は、逃がさない。


 今度は最初から、空だけではなく、その向こうを見にいくつもりで。

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