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ベテルギウスの空 ー天体物理事変、あるいはひとつの恋のかたちー  作者: 渡海真記


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第2話 「地下へ帰る男Ⅱ」

 環の執務室と呼ばれている場所は、旧駅長室を改造したものだ。ガラス窓の代わりに断熱板がはめられ、壁には共同体全体の配管図と電力配分表、地上回収ルートの地図が貼られている。机の上には紙の帳簿と、節電のため画面輝度を落とした端末板が並んでいた。


 環は扉が閉まるのを待って、端末板を机へ置いた。


「成果は聞いた」


「冷却材一つ、バッテリー二つ」


「薬品は」


「すまない」


「そう」


 責める調子ではない。ただ確認し、次へ進む声だった。


 環は端末板の表示を切り替える。浄水ユニット、換気、医療、照明、培養槽。それぞれの消費量が色で分けられていた。いくつも赤が灯っている。


「浄水ポンプの予備制御基板が、三日以内に必要になる。医療区画は見ての通り。今夜しのげても、来週までは持たない」


「知ってる」


「知っていて足りない物資で戻ったのは、何かあったから?」


 冬真は一瞬黙った。


 環の目は逃がさない。共同体の人間を数百人単位で抱えている女の目だ。言葉を飾っても意味がない。


「向こうで人に見られた」


 その瞬間だけ、環の表情が硬くなった。


「警備?」


「違う。研究者か学生か、そのあたりだ」


「追跡された?」


「こっちまでは来てない」


「顔は」


「見られた」


 環は指先で机を二度叩いた。


「まずいわね」


「わかってる」


「どんな相手」


「通報しなかった」


「優しい?」


「そういう感じじゃない」


 冬真はあの時の屋上を思い返した。寒い風。観測機材。夜空を背に立つ女。


「……見てた。俺じゃなくて、現象そのものを」


 環は冬真の言葉を黙って受けた。すぐには何も言わず、やがて静かに息を吐く。


「好奇心が強い相手は、面倒ね」


「俺もそう思う」


「でも、向こうでそれなりの場所に出入りしてるなら、逆に使える可能性もある」


 冬真は眉をひそめた。


「接触を続ける気か」


「向こうに行くのをやめる気?」


 問い返され、冬真は口を閉ざした。


 やめられるなら、とっくにやめている。今日持ち帰った冷却材ひとつで何人が明日を迎えられるか、医療区画の空気を吸えば嫌でもわかる。


 環はその沈黙を見て、少しだけ声を和らげた。


「責めてるわけじゃない。むしろ持ち帰ったことは評価してる。けど、境界が安定してる保証はもうない。榊さんにも顔を出して」


 扉を軽く叩く音がして、返事を待たずにその本人が顔を出した。


「わしなら、もうおる」


 榊恒一は細い身体を少し曲げて部屋へ入ってきた。六十を過ぎた老技師は、古い作業服のポケットへ何本もの工具を差したままだ。白髪交じりの頭は寝癖のように跳ね、目だけが妙に若い。


「斎賀、相鍵を見せろ」


 挨拶もなく手を出され、冬真は内ポケットから円盤を取り出した。


 榊はそれを受け取り、卓上灯の下で裏表をひっくり返した。金属とも陶器ともつかない鈍い材質の表面には、細かなひびのような線が広がっている。


「……負荷が増えとる」


「一度だけ強く開いた」


「一度でこうはならん。前から無理をさせとる」


「必要だった」


「必要で壊れるなら、壊れたあとを考えろ」


 榊はぴしゃりと言い、相鍵を机へ置いた。


「境界は痩せとる。近頃は向こうの磁気の揺れも拾いやすい。今みたいな荒い開け方を続ければ、通路そのものが裂けるかもしれん」


 透ならきっと「脅かすな」と言うだろう。だが榊は脅しているのではなく、単に機械の寿命を告げているだけだ。その声音は、かえって容赦がなかった。


「次、渡れるか」


 冬真が聞くと、榊は鼻を鳴らした。


「渡れんとは言わん。じゃが、前より深く持っていかれる。お前の身体も、鍵も、通路もな」


「それでも行くしかない」


「知っとる」


 榊はそこでようやく冬真の顔をまっすぐ見た。


「じゃが、覚えとけ。通れることと、通って無事に戻れることは別じゃ」


 部屋が静かになる。


 送風機の低い振動だけが、薄い壁越しに伝わってきた。


 環が端末板を閉じる。


「次は二日後。明日は地下水路の補修班に回って、身体を休めなさい。休養も任務よ」


「了解」


「それと、見られた相手のこと。思い出せることは全部、あとで記録して」


 冬真は頷いた。


 部屋を出ると、通路の灯りがさっきより少し落とされていた。節電時間に入ったのだろう。橙色の光がさらに薄くなり、人の影が長く伸びる。


 冬真は壁にもたれ、ほんの数秒だけ目を閉じた。


 疲れていた。


 身体の奥が重く、眠気というより熱に近いだるさがまとわりつく。向こう側の空気は、いつも身体の輪郭を少し削っていく。だが、瞼の裏に浮かぶのは共同体の灯りではなく、屋上で会った女の横顔だった。


 観測機材の明かりに照らされた頬。

 夜空を見慣れている人間の目。

 見たことのない揺らぎを前にしてなお、逃げるより見極めようとした顔。


 あの女は、また来るかもしれない。


 いや、来る。そういう種類の人間だ。


 冬真は薄く息を吐き、医療区画の脇を通り過ぎた。結菜はもう寝かされたらしく、先ほどの場所にはいない。代わりに布の隙間から、小さな蓄電ランプの灯りが漏れている。


 共同体の夜は早い。


 地上の夜と違って、ここには星も月もない。あるのは機械の唸りと、誰かが寝返りを打つ布の音だけだ。それでも人は朝を待つ。明日も灯りがつき、水が流れ、咳の数が少しでも減ることを願って待つ。


 冬真は自分の区画へ戻る前に、ふと足を止めた。


 駅の端、崩れた換気塔へ繋がる補修用の階段がある。その途中の小さな非常口から、地上の気配がわずかに入り込む場所だ。危険だから長居は禁じられているが、誰も来ない時間なら少しだけ上へ出られる。


 冬真は階段を上り、重いハッチを押し開けた。


 冷えた風が頬を打つ。


 地上は、骨のような街だった。


 遠くまで続くビル群は、窓を黒く失い、途中から崩れた塔が何本も夜へ突き出している。道路は草と瓦礫に埋まり、かつて高架だったものは途中で折れて闇に沈んでいた。風に乗って舞う細かな塵が、街全体を薄く覆っている。


 その上に広がる空は、今夜も痛いほど鮮やかだった。


 オリオンの肩にあったはずの赤い星は、もう点ではない。巨大な残光の滲みが、裂けた傷口みたいに夜へ広がっている。肉眼では見えないはずの青や紫の気配まで、こちら側の空では濃く感じられた。


 美しい、と結菜に言ったのは本当だ。


 だが、それは人を慰めるような美しさではない。火傷の痕を、宝石のきらめきと見間違えるような種類の美しさだ。


 冬真はしばらく黙って空を見ていた。


 向こうの世界でも、同じ空が見えているのだろうか。


 同じ場所の、少し違う夜。電車が走り、店の灯りが消えず、人が空の下で安心して立っていられる世界。


 観測機材の横に立っていた女は、きっと今もあの空を調べている。


 何かを見つけるまで、やめない目だった。


 冬真は小さく舌打ちしてハッチを閉めた。


 考えても仕方のないことに頭を使う余裕はない。必要なのは次の回収だ。浄水ポンプの基板、追加の冷却材、できれば薬品。贅沢を言えばフィルタと高効率セルも欲しい。


 それだけだ。


 それだけのはずだった。

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