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ベテルギウスの空 ー天体物理事変、あるいはひとつの恋のかたちー  作者: 渡海真記


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第1話 「地下へ帰る男Ⅰ」

 膜を抜けた瞬間、斎賀冬真(さいが とうま)は壁に手をついた。


 胃の底がひっくり返るような吐き気が遅れてせり上がる。耳の奥で高い音が鳴り、視界の端が白く揺れた。喉の奥に鉄の味がした。何度経験しても慣れない。むしろ回数を重ねるほど、身体の芯へじわじわと傷が残っていくようだった。


 荒い息を押し殺し、冬真は階段の踊り場に膝をつく。


 非常灯は死んで久しい。壁に貼られた避難案内の文字も煤で読めず、手すりは途中からねじ曲がっている。こちら側の理学部棟は、もう建物としての形を辛うじて保っているだけだった。


 さっきまでいた向こう側の階段室とは、同じ場所のはずなのに何もかもが違う。


 同じはずの壁は黒く焼け、同じはずの空気は乾いて、古い火災跡のような匂いが抜けきらない。遠くで風がどこかの割れ目を吹き抜けるたび、建物全体が低く軋んだ。


 冬真は唇を拭った。指先に薄く血がつく。


「……ちっ」


 小さく舌打ちし、背負ったバックパックを確かめる。予備バッテリー二つ、冷却材一つ。薬品棚までは行けなかった。あの女に見つかったせいだ。


 いや、と冬真は胸の内で訂正する。


 見つかったせいで失敗したわけではない。見つかったのに、あの程度で済んだのだ。通報もされず、警棒を振り上げられもせず、警備員に囲まれもしなかった。あの場にいたのが、ただ驚いて悲鳴を上げるだけの人間ではなかったからこそ、持ち帰れた物資もある。


 だが、顔を見られたのは余計だった。


 あの女のまっすぐな目を思い出す。観測機材の横に立って、夜空を背負ったままこちらを見ていた。怯えるより先に、確かめるような目だった。


 ああいう相手は面倒だ。


 ただの善意より、好奇心のほうが厄介なことがある。


 冬真は肩で息を整え、踊り場の配電盤へ手を伸ばした。相鍵の円盤を回収し、内ポケットへしまう。表面はまだわずかに熱を持っている。こんな負荷のかけ方を続ければ、榊に何を言われるかわかったものではない。


 階下から、光が二度明滅した。


 迎えだ。


 冬真は立ち上がり、崩れかけた階段を降りた。


 地下二階から先は、大学施設というよりトンネルだった。研究棟の地下設備と古い共同溝、その先に延びる避難用連絡通路が、崩落を避けながら継ぎ足し継ぎ足し使われている。壁には新しい配管と古いケーブルが蜘蛛の巣のように這い、床には滑り止めの金網と、剥き出しのコンクリートがまだらに続いていた。


 角を曲がるたび、手製の灯りが現れる。LEDの白ではなく、再生セルの電力を絞った橙色の光だ。暗闇を完全には追い払えないかわりに、目には優しい。


 通路の先に、人影が立っていた。


「遅かったな」


 低い声がした。壁にもたれていた男が、手製ライフルを肩に担ぎ直す。


 七瀬透(ななせ とおる)だった。二十八歳。共同体警備の主任を務める男は、痩せた身体のどこにも無駄がない。薄い防護外套の上からでも、鍛えられた骨格が見て取れた。


「通路、安定してなかったのか」


「少しな」


 冬真が答えると、透はその顔を覗き込み、眉をひそめた。


「また鼻血か。お前、本当にそのうち倒れるぞ」


「倒れる前に帰ってきた」


「偉そうに言うな」


 透はそう言って、だが安堵は隠しきれない様子で冬真の背から荷を受け取った。バッグの重みを確かめ、舌打ちする。


「……これだけか」


「これだけだ」


「今夜の分にしかならないな」


「わかってる」


 透は返事をしなかった。バッグの口を少し開き、中身を見てから閉じる。責めるような沈黙ではない。足りない現実へ向ける沈黙だった。


 通路の奥から、機械の低いうなりが絶え間なく聞こえている。送風機、水処理装置、蓄電室のコンバータ。そのどれが止まっても、人が死ぬ。


(たまき)が待ってる。先に医療区画へ持っていくぞ」


結菜(ゆうな)は」


「起きてる。熱が下がらない連中が何人かいて、看護班が慌ただしい」


 冬真は歩き出した透の背を追った。


 地下の空気は一定の温度に保たれているはずなのに、冬真の手先は妙に冷たかった。位相酔いのあとにはよくあることだ。身体の内側だけが、まだ向こう側の夜に取り残されているような感覚が残る。


 共同体の入口は、旧地下鉄の駅構内を塞いだ厚い防火扉の向こうにある。


 かつては広告が並んでいたはずの壁一面に、今は水の使用量、電力残量、医療備蓄、換気フィルタの交換時期が手書きで書き込まれている。色褪せた案内板の下には、回収班の今日の出入り時刻と帰還者名が並んでいた。


 その一覧の最後に、冬真の名がある。


 そこへ新しい印がつけられるのを横目で見ながら、冬真は防火扉をくぐった。


 空気が変わる。


 機械油と湿った土と、人の暮らしの匂いだ。


 旧駅のホームには仕切り壁が立てられ、布で囲った居住区画が幾列も並んでいる。線路だった場所には水タンクと蓄電ユニットが並び、空いているスペースでは浅い栽培槽の上に藻類灯が青白く灯っていた。別の一角ではキノコ栽培棚から白い傘がびっしりと顔を出している。


 子どもの泣き声、誰かを呼ぶ声、鍋をかき混ぜる音、遠くで咳き込む声。


 生きている音が、狭い空間に層になっていた。


 冬真が医療区画へ向かうと、布の仕切りの奥から若い看護師が顔を出した。


「斎賀さん!」


 声を上げたのは美沙だった。まだ二十にもなっていないが、この共同体ではひとりで二十人近くの病人を見ている。袖をまくった腕は細いのに、動きに迷いがない。


「冷却材、ありますか」


 冬真が透からバッグを受け取り、黙って中身を差し出すと、美沙の顔が一瞬だけほどけた。


「助かる……」


 その言葉に、冬真は少しだけ肩の力を抜いた。


 美沙はすぐに冷却材を持って区画の奥へ走る。布の隙間から、簡易冷蔵庫へ繋がれた細いケーブルが見えた。小さな庫内には、抗生剤やインスリン、解熱用の薬液が収められている。電圧が不安定になってから温度維持がぎりぎりだったのだ。


 奥の寝台で、咳き込んでいた老人がこちらへ顔を向けた。肌は土気色で、呼吸のたび胸が苦しげに上下する。枕元には使い古しの吸入器。電池残量を示す小さな表示は、赤に近かった。


 美沙がバッテリーも欲しそうに一瞬こちらを見る。


 冬真は無言で頷き、バッグから一本取り出した。


「一つ、先に回してくれ」


「でも、浄水ポンプが」


「透」


 冬真が名前を呼ぶと、透は嫌そうに顔をしかめた。


「わかってる。俺だって優先順位くらい見える」


 そう言って、もう一本のバッテリーを脇に抱える。


 美沙は唇を噛み、それでも深く頭を下げた。


「ありがとう」


 礼を受けるたび、冬真は少しだけ居心地が悪くなる。


 これで助かる命がある。それは事実だ。だが同時に、これでは足りないことも誰よりわかっている。共同体全体から見れば、今日持ち帰ったものは延命にすぎない。明日の不足を、明後日に先送りしただけだ。


 布の仕切りの向こうから、小さな足音が駆けてきた。


「冬真!」


 振り返るより先に、軽い衝撃が腰へぶつかった。


「おかえり」


 しがみついてきたのは佐伯結菜(さえき ゆうな)だった。十四歳の少女は、冬真の外套に顔を埋めたあと、すぐに眉を寄せる。


「また外のにおいする」


「して悪いか」


「悪くはないけど。鉄みたいな、雨みたいな、へんなにおい」


 結菜はそう言って顔を上げた。大きな目の下に、うっすら隈がある。寝不足なのだろう。共同体で育った子どもは、送風機の唸りや誰かの咳には慣れても、周囲の不安には敏い。


「今日は遅かった」


「少し手間取った」


「怪我した?」


「してない」


 即答すると、結菜はじっと冬真の顔を見た。


「うそ。血ついてる」


 冬真は鼻の下を手の甲で拭った。乾いた血が少しだけ剥がれる。透が鼻で笑った。


「ほらな。子どもにまでばれてる」


「子どもじゃないよ」


 結菜はむっとして言い返すと、ふいに声を潜めた。


「ねえ、ほんとの空、今日も見えた?」


 冬真の手が止まった。


 本来、共同体の大人たちは、子どもが不用意に外へ憧れないよう、空の話をあまりしない。だが隠せば隠すほど、子どもは空想する。


「見えた」


 冬真は短く答えた。


「きれい?」


 その問いに、嘘をつくことができなかった。


「……きれいだ」


 結菜は少し笑った。眩しいものを想像するときの顔だった。


 だがその笑みに長く付き合う前に、通路の向こうから呼ぶ声がした。


「冬真」


 低く、よく通る女の声だ。


 篠宮環(しのみや たまき)は医療区画の入口に立っていた。三十五歳。肩で切りそろえた髪は作業の邪魔にならないよう後ろで束ねられている。古い防寒ジャケットの袖をまくり、手元の端末板を小脇に挟んだ姿には隙がない。


「来て」


 言葉は簡潔だった。


 冬真は結菜の頭を軽く撫でてから、環のもとへ向かった。

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