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ベテルギウスの空 ー天体物理事変、あるいはひとつの恋のかたちー  作者: 渡海真記


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第10話 「観測者と漂流者Ⅳ」

 澪里はわざと追い詰める言い方をしない。


「でも、いまはそれでいいです。全部一度にわかるとは思ってないので」


「研究者らしいな」


「現象の観測を積み上げていくのは得意です」


「人のことも、そうやって見るのか」


 澪里は少し考えた。


「たぶん、今まではそうだったと思います」


「今は?」


「今は……あなたのことを、現象だとは思ってません」


 冬真は缶を持つ手を止めた。


 その沈黙は長くはなかったが、妙に鮮明だった。街灯の白い光、風で鳴る遊具の鎖、遠くの車の走行音。その全部のあいだに、その言葉だけがまっすぐ落ちた気がした。


 冬真は視線を逸らし、低く言う。


「現象として見られるほうが楽なときもある」


「私は楽なほうを選ぶつもりはないです」


「迷惑だな」


「知ってます」


 澪里が言うと、冬真はまた短く笑った。今度ははっきりわかる程度に。


 その笑いを見た瞬間、澪里の胸の奥で何かがごく小さく動いた。まだ名前をつけるには早すぎるし、つけたくないとも思った。ただ、彼が疲れた顔ばかりでなく、そうやって少しだけ表情を緩める人間なのだと知ってしまったことが、想像以上に大きかった。


 腕時計を見ると、二時十八分になっていた。


 澪里は表情を引き締める。


「戻るなら、そろそろです。ログ上は今が中心」


 冬真も時間を確かめ、缶を飲み切ると立ち上がった。買ったものの袋をバッグへしまい、残りの軽食だけは上着のポケットへ入れる。後で共同体の誰かへ渡すのか、自分で食べるのかはわからなかった。


 帰路は言葉が少なかった。


 大学裏口へ戻るころには、二人ともさっきよりも現実へ引き戻されていた。街灯の下で交わした会話は、ここへ来ると急に危ういものへ変わる。誰か一人でも見かければ、それだけで全部が壊れかねない。


 旧暗室へ戻り、澪里は約束通り冬真の心拍だけ測らせてもらった。小さな指先クリップ型のセンサを装着すると、彼は不機嫌そうに眉を寄せたが、外しはしない。


「百を超えてる」


「普通だ」


「普通ではないです」


「お前、いちいち言うな」


「データなので」


 数値を記録して、澪里はタブレットへ時間を打ち込む。


 冬真は相鍵を取り出した。あの鈍い光沢の円盤は、暗室の中でも少しだけ異質だった。人工物なのに、量産された機械部品の冷たさとは違う。何かを削って、焼いて、無理に形へしたような痕跡がある。


「戻るところ、見てもいいですか」


「だめだ」


「どうして」


「近いと巻き込まれる」


「どのくらい」


「三メートルは離れろ」


 それは意外なほど具体的な数字だった。経験則なのだろう。


 澪里は素直に数歩下がる。冬真はその距離を確認してから、暗室奥の古い配電盤の前に立った。屋上で見たのと似た動作だ。円盤を金属面へ押し当て、息を整える。


 室内の空気が変わった。


 壁の向こうから低い唸りが満ち、古い裸電球のフィラメントがじり、と鳴る。澪里のタブレットの画面が一瞬だけ乱れ、ログ欄にノイズの山が跳ねる。配電盤の縁から青白い線が滲み、やがてその周囲の空間そのものが薄く揺らいだ。


 冬真が顔をしかめる。


 澪里はその表情を見逃さなかった。今夜ここへ来る前よりも、明らかに負荷が強い。戻る側の負担は、やはり小さくない。


「冬真」


 思わず呼ぶと、彼は振り向かずに言った。


「近づくな」


 その声が、前より少し苦しげだった。


 揺らぎの向こう、ほんの一瞬だけ、暗いコンクリート通路が見える。こちらと同じ構造のはずなのに、もっと荒れて、赤みを帯びた闇の中へ沈んでいる。


 冬真は躊躇しなかった。


 バッグを肩へかけ直し、そのまま膜の向こうへ踏み込む。空気が張り詰めた糸のように震え、配電盤の周りを青い光が走る。


 消える寸前、冬真がこちらへ半身だけ振り向いた。


「……次、来るとき」


 澪里は息を詰めた。


「測りたいもの、決めておけ」


 それだけ言って、彼の姿は向こう側へ沈んだ。


 揺らぎが閉じる。唸りが止む。暗室には、換気扇の回る音だけが戻ってきた。


 澪里はしばらく動けなかった。


 タブレットのログ欄には、今までで一番大きなノイズが記録されていた。心拍、時刻、前後の地磁気変動、戻りの所要時間。研究者としての彼女なら、まずそれらを整理すべきだとわかっている。


 けれど、その前に胸へ残ったのは、もっと別の感覚だった。


 彼は今、自分から次を口にした。


 必要だからというだけではない。警戒を完全に解いたわけでもない。大事なことはまだ隠している。けれど、それでも少しずつ、こちらの存在を向こう側の現実へ組み込み始めている。


 澪里はタブレットを胸の前で抱えた。


 深夜の研究棟は静かだった。だが、さっきまで冬真と歩いた夜道の音が、まだ耳の奥に残っている。街灯。コンビニ。電車の通過音。こちらでは当たり前のものばかりだ。


 それなのに、そのどれもがもう前と同じには見えなかった。


 暗室を出て、屋上へ戻る。


 冷たい風の中、ベテルギウスの残した光がまた空へ滲んでいた。東京の夜は変わらず平穏で、遠くのビル群は整った窓明かりを並べている。その景色を見下ろしながら、澪里は自分の中で何かが変わっているのを認めざるをえなかった。


 冬真の話を、もう作り話だとは思えない。


 あの人は、本当にあの世界から来ている。


 そして、その世界には、地下で朝を待つ人たちがいる。


 研究対象としての異常現象なら、距離を取って解析できた。だが今の澪里にとって、境界の向こうはもう数式や波形だけではない。温かい飲み物に驚き、街灯の列に言葉を失い、電車の灯りを見上げる一人の男のいる場所だ。


 なら、次に必要なのはもっと確かなことだった。


 グラフではなく、推測ではなく、自分の目で見ること。


 澪里は夜空を見上げたまま、小さく息を吐いた。


「……見ないと、わからない」


 その呟きは風にさらわれていったが、彼女の中でははっきり残った。

 次に冬真が来たら、もう一度言うつもりだった。


 あなたの世界を見せてほしい、と。

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