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ベテルギウスの空 ー天体物理事変、あるいはひとつの恋のかたちー  作者: 渡海真記


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第9話 「観測者と漂流者Ⅲ」

 店を出ると、通りの向こうで踏切が鳴り始めた。


 澪里は思わず足を止める。冬真も顔を上げる。


 下り列車が、通っていくところだった。窓は明るく、座席にまばらな乗客の影が見える。青白い車内灯が、流れる帯になって暗い街へ線を引く。


 冬真は、その光を見ていた。


 身じろぎもせず、ただ見ている。


「電車、好きなんですか」


 澪里が聞くと、冬真は少し遅れて口を開いた。


「好きとかじゃない」


「じゃあ何ですか」


 列車の最後尾が線路の向こうへ消えていく。


「ちゃんと時間通りに来て、ちゃんと人を運んで、また明日も走るものがあるって……」


 そこで言葉が途切れた。


 続きを言わなくても、澪里には十分だった。


 それは単なる交通手段ではなく、社会の連続性そのものなのだ。明日も同じものが動くという確信。こちら側では意識しなくても足元にあるそれが、向こう側ではもう失われている。


「ねえ」


 澪里は歩き出しながら、そっと言った。


「冬真のところの子どもたちって、空を知ってるんですか」


 冬真の視線が少しだけ揺れる。


「知識では」


「実際には?」


「出たことがないやつも多い」


「怖がる?」


「怖がるのもいる。憧れるのもいる」


 冬真の声は少しだけ遠くなった。


「『本物の空って、どんな匂いがするの?』って聞かれたことがある」


 澪里は息をのんだ。


 空の匂い。そんなふうに問われたことは一度もなかった。こちらでは、空は上にあるものでしかない。わざわざ匂いを意識する対象ではない。


 冬真は前を向いたまま続ける。


「答えられなかった」


「どうして」


「日によって違う」


 短く、それだけ言った。


 澪里は何も返せなくなる。


 冬の夜の冷たさ。アスファルトの湿った匂い。川沿いの風。遠くの排気ガス。夏の焦げたコンクリート。雨上がりの土。こちら側の人間にはあまりに当たり前すぎて、言葉にする機会もないものばかりだ。


 大学裏の小さな公園へ回り込むと、ブランコが風に揺れていた。街灯の下、砂場は誰にも踏まれず滑らかで、ベンチには夜露が薄く光っている。


 冬真はそこで一度立ち止まり、ゆっくり辺りを見回した。


「静かですね」


 澪里が言うと、冬真は首を横に振る。


「静かじゃない」


「え?」


「音が多い」


 耳を澄ますと、たしかにあちこちから音がしていた。遠くの車道を走るタイヤ音、コンビニの室外機、踏切の余韻、交差点の信号音、風で揺れる金属フェンス。澪里にはいつもの夜の雑音でしかないが、冬真には一つひとつが生きた都市の証なのだろう。


「向こうの夜は、もっと狭い」


 その言い方に、澪里は胸の奥がしずかに締まった。


 地下の夜。機械の唸りと、人の寝息と、時々誰かの咳だけがある時間。彼がこちらの夜へ動揺する理由が、ようやく理屈ではなく感覚でわかり始める。


 冬真はそこで、不意に言った。


「お前の言った通りかもしれない」


「何がですか」


「お前が見てるもの」


「空のこと?」


「……それもある」


 冬真はポケットから缶入りスープを取り出した。店で澪里が勝手にかごへ入れたやつだ。プルタブを開ける手つきはぎこちないが、器用に開封する。


「グラフとか数字とか、そういうの」


「データのことですね」


「それ」


 缶を持ったまま、彼は少しだけ目を伏せた。


「俺たちは、通れるか通れないかでしか見てなかった」


「通る必要があったから」


「必要だけじゃない。余裕がなかった」


 缶から白い湯気が上がる。冬真はそれを眺めてから、一口だけ飲んだ。熱さにわずかに目を細める。澪里はその横顔から目を逸らせなくなった。


「お前のやってることが、向こうで役に立つかもしれない」


 夜気の中で、その言葉は思った以上に重く響いた。


 澪里は答えを急がなかった。軽々しく頷きたくなかったからだ。役に立つかもしれない。けれど、それがどんな形で、どれだけの危険と引き換えになるのか、まだ彼女には見えていない。


「なら、ちゃんと解析します」


 それでも、そう言った。


 冬真は小さく頷いた。


「……だからって、全部話すわけじゃない」


「それは知ってます」


「知ってるのか」


「大事なところ、まだ隠してるでしょう」


 冬真の目が一瞬だけ動く。図星だった。

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