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ベテルギウスの空 ー天体物理事変、あるいはひとつの恋のかたちー  作者: 渡海真記


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プロローグ 「傷のある夜」

 屋上の手すりに肘を置き、朝倉澪里(あさくら みおり)は夜空を見上げていた。


 冷えた空気のせいか、星は妙に近かった。東京の夜は本来、こんなにも深く透きとおってはいない。街の灯りに薄められた黒の上で、星はただ点のまま瞬くだけのはずなのに、今夜の空には広がりがあった。


 オリオン座の肩にある赤い星――ベテルギウスが、爆発してから七年。


 人々はその名を、いまではニュースや教科書よりも、スマートフォンの待ち受けや夜空の特集記事で目にすることのほうが多い。天文学に興味のなかった人間でさえ、あの星が死んだ夜のことをまだ覚えていた。


 だが、澪里にとって大事なのは「死んだ」という事実そのものではない。


 死んだあと、何を残したかだ。


 彼女はタブレットへ視線を落とし、撮像データを確認した。広角カメラに映った空には、淡い朱と青のゆらぎが重なっている。肉眼ではほとんどわからない微かな濃淡が、長時間露光の画像では、空の奥に滲んだ傷のように浮かび上がっていた。


 星雲というには若すぎて、残光と呼ぶには広がりすぎている。


 その中間にある、うまく名前のつけられない光。


「……今日も出てる」


 呟きは白く曇って、すぐに消えた。


 東陵大学理学部棟の屋上は、夜になると驚くほど静かだ。観測ドームは隣の棟にあり、ここは補助機材の試験と広角撮影に使われるだけの、半ば放置された屋上だった。だから澪里は気に入っていた。人目がない。教授の早口もない。学部生の無邪気な質問も、共同研究者の雑談もない。


 夜と、風と、空だけがある。


 父もそういう場所を好んだ。まだ小さかった澪里をベランダへ連れ出して、冬の星座を教えてくれた人だった。


 その父はもういない。残ったのは古い星図と、癖の強い字で書かれたノートだけだ。


 澪里はわずかに肩をすくめて、また空を見上げた。


 美しかった。


 それは認めざるをえない。残酷なほどに。人が勝手に死んで、悩んで、眠れずにいることなんて知りもしない顔で、夜空はただ美しい。


 彼女はカメラの設定を変えようとして、ふと手を止めた。


 下の階から、音がした。


 かすかな金属音。扉が擦れるような、ごく控えめな音だ。夜の理学部棟には警備が入っているが、この時間に屋上へ上がってくる者はまずいない。


 澪里は眉を寄せた。


 風の音かもしれないと思ったが、すぐにもう一度、今度はもっと確かな物音がした。何か硬いものがぶつかり、すぐ押さえ込まれたような短い響き。


 彼女は足音を殺して屋上出入口の陰に寄った。


 薄暗い階段室の扉が、ほんのわずかに開く。


 先に現れたのは手だった。黒い手袋をした大きな手が、慎重に扉を押し開ける。続いて長身の男が身体を滑り込ませるように入ってきた。フード付きのくすんだ上着。細身だが、頼りない印象はない。重心が低く、動きに無駄がない。背には、登山用とも業務用ともつかない古びたバックパックを負っていた。


 男はすぐには澪里に気づかなかった。


 視線はまっすぐ、屋上の隅に置かれた機材収納庫へ向いている。予備ケース、交換用バッテリー、簡易電源、冷却材の箱――数は管理しているが、消えたところで学内全体が大騒ぎになるほどではない物ばかりだ。


 それでも、泥棒には違いない。


 澪里はスマートフォンを握りしめた。警備へ連絡する指が、なぜかそのまま動かない。


 男の歩き方が気になった。慎重なのに、盗みに慣れた者の滑らかさとは少し違う。警戒しているというより、屋上そのものを壊れ物のように扱っている歩き方だった。まるでこの平らな床や、整った手すりや、規則正しく並んだ機材のほうが現実味を持たないような。


 男は収納の前でしゃがみ込み、鍵を確認した。ピッキング工具らしきものではなく、工具箱から取り出した小型のドライバーを使って、固定具ごと外しにかかる。


 澪里は思わず口を開いた。


「それ、大学の備品なんですけど」


 男の肩が硬直した。


 一拍遅れて、彼が振り向く。


 フードの陰から覗いた顔は若かった。二十代半ばか、それより少し上か。頬は痩せ、目の下に影が濃い。だがいちばん印象に残ったのは目だった。暗さに慣れた獣のように鋭いのに、その奥にひどく疲れた色があった。


 男はすぐ反射的に逃げる姿勢をとらなかった。澪里を見たまま、ただ息を止めたように静止した。


「警備を呼びます」


 そう言いながらも、澪里の声は思ったより落ち着いていた。


 男の視線が、彼女の顔から、背後の機材、タブレット、三脚、そして空へと短く移る。観測中だと理解したらしい。


「……それは、困る」


 掠れた低い声だった。妙に丁寧で、妙に遠い。


「困る、で済むと思ってるんですか」


「済まないのはわかってる」


 男はそう言って、わずかに目を伏せた。逃げるなら今のはずなのに、彼はそこでほんの半歩だけ、澪里から距離を取る方向へ下がった。威圧しないようにしているようだった。


 その仕草がかえって奇妙だった。


「何が目的ですか。バッテリー? 薬品? そんなもの、売っても大した額にはなりません」


「売らない」


「じゃあ何に使うんです」


 男は答えない。


 澪里は彼の腕に目を留めた。袖口から覗いた手首に、薄い包帯が巻かれている。乾いた茶色の染みがある。古い怪我だろうか。それに、背負ったバックパックの側面には市販品には見えない金具がいくつも取り付けられていた。既製品を継ぎ足して使っているような粗さがある。


 おかしい。


 盗みに来たにしては、もっと換金性のある物を狙うはずだ。研究機器そのものには興味がない。必要なのはレンズではなく電源、装置ではなく消耗品。


 まるで、本当に使うために探しているみたいだ。


「あなた、どこの研究室の人ですか」


「違う」


「じゃあ、業者? この時間に?」


「違う」


「……警察を呼ばれたいんですか」


 男の喉がわずかに動いた。夜気の中で、その呼吸だけが妙に浅い。


 澪里はそこで初めて、彼の顔色の悪さに気づいた。暗がりのせいだけではない。ひどい寝不足か、あるいは発熱でもしているような青白さだった。


 彼は短く息を吸い、何かを決めたように言った。


「必要なんだ」


「何に」


「生きるのに」


 あまりにも直接的な言葉だった。


 澪里は一瞬、返事を失った。


 芝居じみた脅しでも、同情を引くための言い方でもなかった。ただ、本当にそれ以外の表現が見つからないような口調だった。


 男の視線が、再び空へ流れる。赤い残光の滲む夜空を見た瞬間、その目に一瞬だけ、説明のつかない翳りが差した。


 その顔を、澪里は見間違えなかった。


 この人は、あの空を怖がっている。


 なのに、目を逸らせないでいる。


「……あなた」


 問いかけようとした瞬間、男が眉をしかめてこめかみを押さえた。ぐらりと身体が揺れる。床に膝をつきそうになるのを、ラックへ手をついて耐える。


「大丈夫ですか」


 思わず一歩踏み出した澪里に、男は反射的に身を引いた。


「来るな」


 声だけが鋭くなる。だが、次の瞬間には息を吐き、低く言い直した。


「……悪い」


 澪里は立ち止まった。


 男の額には脂汗が浮いていた。吐き気でもこらえるように唇を噛み、何度か浅く呼吸する。やがて少しだけ落ち着くと、彼はポケットから何か小さな円盤状の装置を取り出し、手の中で握り込んだ。金属でもガラスでもない、鈍い光沢のある材質だった。


「それ、何ですか」


 男は答えない。


 代わりにラックから予備バッテリーを二つ、冷却材のパックを一つだけ取り出した。必要最低限。欲を出しているようには見えない。


「返してもらえませんか」


 澪里が言うと、男はほんの少しだけ口元を歪めた。


「返したい」


 嘘ではない、と澪里はなぜか思った。


 男はバックパックへ品をしまうと、出入口のほうへ後退した。逃走経路を確保しながら、決して彼女へ背を向けない。訓練されているのか、ただ必死なのか、澪里には判断できない。


「待って」


 今度は澪里のほうが一歩踏み出した。


「あなた、どこから来たの」


 その問いに、男は初めて言葉に詰まった。


 夜風が二人のあいだを抜ける。遠くで救急車のサイレンが鳴り、街の光がビルの窓に淡く反射する。ここはいつもの東京の夜だ。電車は動き、コンビニの明かりは消えない。誰かがラジオを流し、誰かが酔って笑っている、そういう街のど真ん中にいるはずだった。


 なのに、目の前の男だけが、そのどれにも属していないように見えた。


 男はしばらく黙っていたが、やがて低く言った。


「……遠いところから」


「ふざけてますか」


「ふざけてない」


 短く返したあと、彼は一瞬だけ目を伏せた。


「本当に、悪いと思ってる」


 それだけ言って、男は階段室へ身を滑り込ませた。


「待って!」


 澪里は追った。


 扉を押し開ける。コンクリートの狭い階段室は白い非常灯に照らされ、ひやりとしていた。男は一階分下の踊り場にいる。逃げるならそのまま降りればいいのに、彼は途中で立ち止まり、壁際の古い配電盤の前にしゃがみ込んでいた。


 円盤状の装置を、配電盤の金属扉へ押し当てている。


 青白い光が、じわりとにじんだ。


 澪里は足を止めた。


 非常灯が一瞬、明滅する。低い唸りのような音。耳の奥がきんと痛んだ。冬の空気とは別の冷たさが、階段室の底から這い上がってくる。


「何を……」


 言い終える前に、男が振り向いた。


 その顔には、諦めたような静けさがあった。


「来るな」


 今度の声は鋭くなかった。警告というより、願いに近い響きだった。


 配電盤の裏側、何の変哲もないはずのコンクリート壁が、水面のように揺らいだ。


 澪里は息を呑んだ。


 光の膜がそこにあった。縦に裂けた空気のような、薄い、頼りない歪み。その向こうに見えたものを、脳がすぐには理解しなかった。


 同じはずの階段。


 同じはずの踊り場。


 けれど壁は黒く煤け、手すりは途中で曲がり、床には細かな瓦礫が散っている。非常灯の白ではなく、どこか赤みを帯びた薄明かりが遠くから差していた。


 何より、空気が違った。


 ひどく乾いて、錆と焼けた埃の匂いがした。


 男はその揺らぎの前で一瞬だけ躊躇したあと、澪里を見た。目が合う。ほんの刹那、言葉にならない疲労と焦燥、それでも捨てきれない何かがその視線に滲んだ。


「……忘れてくれ」


 そう言い残して、彼は膜の向こうへ身を投げるように消えた。


 澪里は動けなかった。


 心臓の音だけがうるさい。非常灯がまた一度、ちかりと明滅する。揺らぎは数秒ほど残り、それから水面に石を落としたあとのように静かに閉じていく。


 けれど完全に消える寸前、澪里は見てしまった。


 ひび割れたコンクリートの向こうに続く長い通路。

 崩れた天井。

 転がる標識。

 遠く、地上へ抜けるらしい裂け目の先に覗く夜空。


 その夜空は、この世界のものよりもずっと濃く、ずっと痛々しいほど鮮やかだった。


 赤い。

 青い。

 紫がかって滲む光が、雲とも星雲ともつかない巨大な傷のように広がっている。


 あまりにも美しくて、あまりにも壊れていた。


 揺らぎは消えた。


 そこに残ったのは、古い配電盤と、冷えたコンクリートの壁だけだ。階段室は元通りの静けさを取り戻し、遠くで換気装置の低い音が鳴っている。何一つ起きていなかったような顔をしている。


 だが、澪里の視界の奥には、まだあの空が焼きついていた。


 彼女はゆっくりと配電盤へ近づいた。


 触れてみる。金属は冷たい。少し前まで光っていたとは思えないほど、何の異常もない。床を見下ろすと、男が落としたのか、微かな黒い粉がひと筋だけ残っていた。煤にも、焼けた塗料にも見える細かな粒だった。


 澪里はしゃがみ込み、その粉を指先で掬った。


 ざらりとしている。


 鼻先へ寄せると、かすかに金属と灰の匂いがした。


 嘘ではなかった。


 どこから来たのかと問うたとき、あの男は答えを濁したのではない。正しく答えられなかっただけだ。


 遠いところ。


 たしかに遠い。距離ではなく、もっと別の意味で。


 澪里は立ち上がり、屋上へ戻った。冷え切った空気が頬を刺す。三脚に据えたままのカメラはまだ動いていて、インジケーターが小さく明滅している。タブレットの画面には、数分前の撮像データが表示されていた。


 グラフの端に、見慣れないノイズが走っている。


 撮影時刻は、ちょうどあの揺らぎが現れた時間と一致していた。短いピーク。電磁ノイズとも、時刻同期の乱れともつかない不自然な跳ね方だ。


 澪里はその波形を見つめた。


 研究者としての自分が、背筋の奥で静かに目を覚ます。


 怖くないわけではなかった。むしろ、遅れて膝が震えてきそうだった。だがそれ以上に、どうしようもなく確かな感覚があった。


 あの男はまた来る。


 必要だからだ。生きるのに必要だと言った。その目は、切羽詰まった者の目だった。


 なら、次は逃がさない。


 問いただすためではない。理解するために。


 澪里はタブレットを抱え、空を見上げた。


 ベテルギウスの残した光が、東京の夜のはるか上で静かに滲んでいる。人々が美しいと呼ぶその光の下に、壊れたもう一つの夜があるのだと知ってしまった今、同じ空にはもう戻れない気がした。


 それでもやはり、美しかった。


 美しいからこそ、見届けなければならないと思った。


 あの空の下で、誰が生きているのかを。

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