神様、そのプロンプトは間違っています
第一章:神託のプロンプト
二〇二八年、夏。
東京という都市は、その輪郭を自ら溶かし始めていた。かつて摩天楼と呼ばれた建築物の群れは、今や巨大なサーキットボードと化し、その表面を無数の情報、すなわちデジタルゴーストたちが光の速さで駆け巡っている。
人々は網膜に直接投影される拡張現実(AR)の福音を浴び、リアルとバーチャルの境界線は、梅雨時の滲んだ水彩画のように曖昧だった。世界は加速していた。人工知能という名の、新たな神、あるいは抗いがたい悪魔によって。その神へ的確な問いを立てられる「預言者」と、ただ神託のままに動く「信徒」とが、残酷なまでに選別される時代であった。
そんな時代の奔流の、まさに渦の中心に、男はいた。湊、三十歳。
「……来た。俺の、時代が」
千葉県に本社を構える新進気鋭のIT企業「クオンタム・リープ・ダイナミクス」。その無機質な白で統一されたオフィスで、湊はホログラムモニターに映し出されたアナリティクス画面を凝視していた。
彼が手掛けた自治体向けDXプロジェクトの成果報告。導入コスト六割削減、業務効率三百パーセント向上。その異常な数値が、エベレストの北壁のごとき角度のグラフとなって、空間に屹立していた。
三浪の末に滑り込んだ大学。親のコネで入社した財閥系商社で、粘着質な上司から受ける人格否定の言葉のシャワーに、心を削られ、たった三ヶ月で逃げ出した過去。あの澱んだ部屋で、天井の染みを数えていた自分からすれば、今のこの光景は、眩暈のするような天変地異に他ならなかった。
大学時代、彼が熱中したのは講義ではなく、薄暗い地下のビリヤード場だった。手玉と的玉、そしてクッションが織りなす幾何学。力学と回転が紡ぎ出す、予測と裏切りの連続。彼は、物事の力点、作用点、そしてそれがもたらす無数の未来線を、直感的に読み解くことに快感を覚えていた。
この世界は、突き詰めれば物理法則という巨大なアルゴリズムで動いている。夜空の星々が、寸分の狂いもなく運行を続けるように。彼の思考の原風景は、そこにあった。
「湊さん、また神がかってますね! これもう魔法の領域ですよ」
「ま、ITやってた甲斐があったってことかな」
後輩の屈託のない称賛に、湊は得意げに口角を上げた。
だが、彼自身が骨の髄まで理解している。自分は天才ではない。魔法使いでもない。ただ、AIという名の神への「問いの立て方」が、異常なまでに巧みなだけだ。その相性が、神に愛されるほどに良かっただけだ。
すべては二〇二四年から始まった。地方の病院で理学療法士として、老いた身体の可動域という、アナログの極致のような仕事に埋もれていた頃だった。世界を席巻し始めたChatGPT。ほとんどの人間がそれを「物知りな検索エンジン」としか見なさない中で、湊は自らの神経系の外部拡張だと直感した。思考の補助線、記憶の外部ストレージ、創造力のブースター。ビリヤードで培った俯瞰的な思考と、幼少期から好んだ哲学的な問いが、AIとの対話に見事に癒着した。
趣味で始めた『AI猫、ニーチェを語る』というYouTubeチャンネルは、そのシュールさと本質を突く内容で瞬く間にバズり、広告収入は本業のそれを軽々と凌駕した。その実績は、彼を再びITの世界へと引き戻すための、黄金のチケットとなった。
かつて、この業界で一度、彼は敗北している。天才プログラマーたちの、人間業とは思えぬコードの奔流を前に、己の凡庸さを突きつけられ、逃げ出した。だが、今は違う。コードを自ら書く「創造主」ではなく、AIに問いを発する「預言者」として、彼は誰よりも先を走っていた。
そんな湊の特異な才能に、いち早く目をつけたのが、クオンタム・リープ・ダイナミクスのCEO、天禅だった。
「いいね、Minato。君はオーケストラの指揮者だ。最高のAIという名の演奏者たちを、君のタクト、いや、君のプロンプト一本で、世界を変えるシンフォニーを奏でさせる。我々が必要なのは、そういう人間なんだ」
孔雀の羽を思わせる玉虫色のスーツを身にまとった天禅は、湊に破格の年収と、AI部門のプロジェクトリーダーというポジションを提示した。彼の言葉は、湊の承認欲求という名の空洞を、心地よく満たした。
この会社には、湊を快く思わない人間もいた。筆頭は、プログラマーチームのリーダー、梶原だ。四十代半ば、痩身で、神経質そうに磨き上げられた眼鏡の奥の瞳は、常に冷徹な光を宿している。彼は、湊の登場以前、この会社で最も評価されていた「旧世代の天才」だった。その指先から紡ぎ出されるコードは、建築物のように精緻で、一切の無駄がなかった。
「……また、神様に丸投げか」
湊が提出したプロジェクトの設計書を見た梶原が、誰にともなく、しかし湊の耳にはっきりと届く声で呟いた。
「梶原さんのコードは美しい。でも、時代はもうその美しさを求めていないんですよ」
「……お前のやり方には、哲学も、魂もない。ただ問いを投げ、返ってきた答えを横流しにしているだけだ。それは技術じゃない、ただの『お告げ』だ」
梶原の言葉は正しかった。
だが、その正しさは、あまりにも非効率だった。彼は今、圧倒的な結果という暴力の前に、沈黙するしかなかった。
湊の心を、もう一人、別の意味で掻き乱す存在がいた。
「す・て・き!」
柔らかなアルトの声。振り返ると、受付カウンターから咲茉が、両手を胸の前で合わせ、うっとりとした表情でこちらを見ていた。
彼女はこの会社の顔であり、多くの男性社員にとって、手の届かない偶像だった。計算され尽くした完璧な美貌と、それを無邪気さでコーティングする狡猾さ。彼女が微笑むだけで、オフィスの無機質な空気は、甘く危険な香りを帯びて弛緩した。
「湊さんの頭の中、どうなってるんですか? なんだか、未来が見えてるみたい」
「いや、そんな大したものじゃ…」
湊はしどろもどろになる。咲茉の視線は、獲物を見つけた豹のようにしなやかで、それでいて、捨てられた子猫のように庇護欲をそそる、矛盾した引力を放っていた。
この会社に来てからというもの、彼女からのアプローチは日に日に露骨になっていた。
湊には、凪という、三年付き合った恋人がいた。
『湊、聞いてる? ちゃんと私を見てないと、どっか行っちゃうからね』
昨夜、電話越しに聞こえた凪の、甘えるようでいて、どこか切実な響きを帯びた声が、罪悪感と共に鼓膜の内側で反響する。彼女は湊のすべてを知っている。三浪していた頃の焦燥も、就職に失敗した時の絶望も、理学療法士として燻っていた頃の諦念も。そして、今の成功を、おそらく誰よりも喜んでくれている。
だが、その成功が、二人を少しずつ引き離していることにも、湊は気づいていた。仕事にのめり込むほど、凪との時間は減っていく。彼女との会話の最中にも、頭の片隅ではAIへの次の問いを組み立てている自分がいる。凪は美しい。それ故に、彼女の周りには常に男たちの影がちらついていた。湊の今の成功は、彼女を繋ぎとめるための、唯一にして最大のアンカーのようにも思えた。
浮気など、論外だ。凪との未来を壊すなど、考えられない。しかし、咲茉という存在は、湊の倫理観という名の脆弱な防壁を、じりじりと腐食させていた。男としての本能が、生理的なレベルで警鐘と誘惑の鐘を、狂ったように同時に打ち鳴らす。
その焦燥が、湊を秘密の研究へと駆り立てていた。それは会社のプロジェクトとは全く別の、彼個人の野心の結晶。来るべき未来への、究極の切り札。
『AIグラス・アストラルシーカー』
独自にファインチューニングした超言語モデルと、網膜投影ディスプレイ、そして脳波の微弱な変化を読み取るセンサーを組み合わせた、試作品のスマートグラス。その真の機能は、装着者が見つめる相手の「強く意識されている表層思考」、その核心をキーワードとして抽出すること。感情の機微までは読めない。だが、相手が何を欲しているか、何を考えているかの「ベクトル」は掴める。これは、凪の心を永遠に繋ぎとめるための、湊だけの神託のツールとなるはずだった。
ある日の夕方。残業する湊のデスクに、ふわりと甘い香りが舞い降りた。
「湊さん、お疲れ様。これ、よかったら」
咲茉が差し出したのは、一個数千円はするという、宝石のようなチョコレートの箱だった。細くしなやかな指が、受け取ろうとする湊の手に、わざと、しかしあくまで自然に触れる。ぞくり、と背筋に微弱な電流が走った。
「えっありえないんですけど、この前のプロジェクト、ボーナス渋すぎじゃないですか? 湊さんの功績に、会社が全然追いついてない」
「はは…まあ、会社が決めることだから」
他愛ない会話。だが、その裏にある引力を、湊は感じずにはいられなかった。衝動が、理性を上回る。
彼は、誰にも気づかれないよう、デスクの引き出しに隠していたアストラルシーカーを、そっと装着した。視界の隅に、青い光のラインが走る。
咲茉を見る。 彼女は、完璧なアイドルのような笑顔を浮かべている。
[TARGET: EMA SAKUMA]
[ANALYZING ASTRAL VECTORS...]
[KEYWORDS DETECTED]
視界の右上に、ゴーストのように単語が明滅した。
【湊】
【ホテル】
【支配】
【今夜】
【欲しい】
【凪(NAGI):障害オブジェクト】
血の温度が、急速に下がっていくのを感じた。分かっていたことだ。だが、こうして可視化された欲望は、あまりにも生々しく、暴力的だった。それはもはや誘惑ではなかった。抗いがたい、引力そのものだった。湊の理性のダムに、決定的な亀裂が入る音がした。
「咲茉さん…」
自分の声が、少し掠れていた。
「もしよかったら、この後、飲みに行かないか?」
言ってしまった。
咲茉の瞳が、驚きと歓喜に大きく見開かれる。その奥に、計画通り、という冷徹な光が一瞬宿ったのを、湊は見逃さなかった。いや、見ないふりをした。
「……うん。行く」
それは、輝かしい成功の頂から、奈落の底へと続く、帰還不能点だった。
第二章:バベルの頂、零度の部屋
西麻布の、看板もない地下への階段を降りた先にあるバー。そこは、時代の奔流から取り残されたかのような、静寂が支配する空間だった。分厚い一枚板のカウンターの向こうで、老いたバーテンダーが黙々とグラスを磨いている。客は湊と咲茉だけだった。
「湊さんって、ほんと不思議な人。普段はちょっと抜けてて、放っておけない感じなのに、仕事になると世界を支配してる王様みたい。そのギャップ、す・て・き!」
琥珀色の液体が満たされたグラスを、咲茉の赤い爪が彩る指が弄んでいる。彼女の言葉は、アルコールと共に湊の思考を麻痺させ、罪悪感を、禁じられた快楽へと巧みに誤変換させていく。
「彼女さん、凪さんだっけ。すごく美人よね」
「……ああ」
「でも、湊さんのその才能の、本当の恐ろしさを、彼女は理解してるのかな。あなたが世界をどう作り変えることができるのか、その力の本当の意味を」
テーブルの下で、咲茉の脚が、湊のそれにそっと触れた。シルクのワンピース越しに伝わる、生命力に満ちた熱。それは、湊の最後の理性を焼き切るための、完璧な着火剤だった。
「俺は…凪と、結婚するつもりだ」
「ふぅん」
興味なさそうに咲茉は鼻を鳴らし、グラスの残りを一気に飲み干した。
そして、潤んだ瞳で湊を真っ直ぐに見つめる。それは、もはや演技ではなかった。純粋な、捕食者の瞳だった。
「じゃあ、これは結婚前祝い。盛大に、ね」
気づけば、二人はタクシーの中にいた。窓の外を流れる東京の夜景が、歪んだ光の川となって見えた。
行き先は、咲茉が告げた。ベイエリアに聳える、外資系の超高級ホテル。
カードキーをかざし、重厚なドアを開ける。冷え切った空気が、火照った肌を撫でた。部屋の明かりがついた瞬間、咲茉は湊の首に腕を回し、その唇を奪った。
計算された香水の匂いと、上質なアルコールの香りが、脳髄を痺れさせる。湊もまた、飢えた獣のように彼女を求めた。シャツのボタンに指がかかり、柔らかな肌が、月の光に照らされて露わになる。
ベッドに倒れ込み、互いの熱を貪るように確かめ合う。その時だった。
湊の脳裏に、凪の顔が、閃光のように過った。
『ちゃんと私を見てないと、どっか行っちゃうからね』 楽しそうに笑う凪。
不安そうに眉を寄せる凪。
泣きそうな顔で「もう私たち、難しいのかな」と呟いた、一週間前の凪。
「……っ、ごめん」
湊は、喘ぐ咲茉の体から、弾かれたように身を離した。
「え?」
咲茉は、何を言われたのか分からないという顔で、数秒間、固まっていた。
欲望に濡れていた瞳が、急速にその温度を失っていくのが、手に取るように分かった。
「ごめん、やっぱり、できない。俺は…」
「……は?」
咲茉の声のトーンが、絶対零度まで下がった。
「えっありえないんですけど。この部屋に来て、この状況で、それ言う?」
「本当に、すまない。俺が、馬鹿だった」
湊は、乱れた服を直し、震える足で立ち上がった。
咲茉はベッドの上で、ゆっくりと体を起こし、腕を組んだ。その瞳には、侮蔑と、冷え切った怒りが浮かんでいた。
それは、手に入れかけた玩具を、土壇場で取り上げられた子供の怒りとは違う。自らの計画と魅力を否定された、女王の怒りだった。
「……そう。分かった。じゃあ、消えて」
「咲茉さん…」
「二度と、その汚い顔、見せないで」
湊は、その言葉に背中を斬りつけられるような痛みを感じながら、逃げるように部屋を飛び出した。エレベーターの鏡に映った自分の顔は、恐怖と後悔と、そしてわずかな安堵で、醜く歪んでいた。
一線は、越えなかった。
だが、その事実は、何の免罪符にもならなかった。魂の最も深い部分で、凪を裏切ってしまったという確信だけが、鉛のように重く、彼の全身にのしかかっていた。
翌日、湊の人生は、静かに、しかし決定的に崩壊を始めた。
異変を最初に察知したのは、凪の、鋭敏な嗅覚だった。
「湊、このシャツ…」
週末、湊の部屋で洗濯物を畳んでいた凪が、ぴたりと手を止めた。それは、昨日湊が着ていたシャツだった。クリーニングに出す暇もなかった。
「知らない匂いがする」
「え? そうか? 気のせいじゃないか」
「ううん、気のせいじゃない。甘くて、重い…私のじゃない。嗅いだことのない、香水の匂い」
凪の目が、じっと湊を見る。それは疑いではなかった。確信に近い、何かだった。
「それに、このレシート、何?」
凪が拾い上げたのは、湊がズボンのポケットに入れっぱなしにしていた、あの西麻布のバーのレシートだった。二人分の金額。
そして、その後に続く、タクシーの深夜料金の領収書。行き先は、ベイエリア。
「…会社の同僚と、打ち合わせで…」
「同僚って、誰?」
「……」
答えに詰まる。
咲茉の名前を、どうして言えるだろうか。その一瞬の逡巡が、凪にとっては、千の言葉よりも雄弁な自白となった。
「…ふぅん。そうなんだ」
凪はそれ以上何も言わなかった。
ただ、部屋の温度が、体感で五度は下がった。彼女との間に、見えない、しかし決して越えられない氷の壁が生まれた瞬間だった。
『うーーん、、もう私たち、難しいのかな』
凪の心の声が、湊の頭の中で、壊れたレコードのようにリフレインする。
追い打ちをかけるように、仕事でも、彼は致命的な失態を犯した。 重要なクライアントである政府系金融機関への、次期システムに関する最終プレゼンの日。前夜、凪との凍りついた空気から逃れるように深酒をした湊は、アラームの音に気づかなかった。
会社に駆けつけた時には、プレゼンはすでに佳境に入っていた。CEOの天禅が、自ら代役を務めていた。その背中から、静かだが、凝縮された怒りのオーラが立ち上っているのが、遠目にも分かった。
プレゼン後、湊はCEO室に呼び出された。天禅は、トレードマークである派手なスーツではなく、黒一色のシンプルなスーツを着ていた。それが、彼の本気の怒りを物語っていた。
「Minato」
天禅は、笑っていなかった。
「君は、自分が何をしたか理解しているかね? 君が昨夜、アップデートを怠ったAIモデルのパラメータ。そのたった一つの数値のせいで、シミュレーションは暴走し、我々はクライアントの目の前で、数兆円規模の仮想市場をクラッシュさせるところだった。分かるかね? 我々は、バベルの塔を建てようとしていた。だが君は、その礎となるべき石を、泥で固めたんだ」
湊は、全身から血の気が引いていくのを感じた。完全に失念していた。咲茉とのこと、凪とのことで、頭が機能していなかった。
「君は素晴らしい触媒だった。だがね、Minato。触媒は時として、制御不能な連鎖反応を引き起こす。暴走した触媒は、もはや触媒ではない。ただの、汚染物質だ」
それは、事実上の解雇通告だった。反論の言葉は、何一つ浮かばなかった。
オフィスに戻ると、湊のデスクは、まるでそこだけ時間が切り取られたかのように、綺麗に片付けられていた。
私物の入った段ボールが一つ、ぽつんと置かれている。同僚たちの視線が、憐れみと好奇の色を浮かべて、針のように突き刺さる。
旧世代の天才、梶原が、無言で湊のそばに立った。
「…お告げに頼りすぎたな」
その声には、嘲笑も、勝利の響きもなかった。
ただ、どうしようもない事実を告げる、静かな響きだけがあった。その無感情な一言が、湊のプライドの残骸を、粉々に打ち砕いた。
受付の前を通りかかった。咲茉が、同僚と楽しそうに談笑している。湊に気づくと、一瞬だけ視線を向けたが、すぐに興味なさそうに逸らした。その瞳は、道端に転がる石を見るように、何の感情も映してはいなかった。
その日の夜、湊は凪に全てを話した。ホテルに行ったこと。でも、一線は越えなかったこと。仕事を失ったこと。言葉を尽くし、許しを乞うた。
凪は、静かに全てを聞き終えた後、ぽつりと言った。
「一線を越えたかどうかは、もう、どうでもいい問題なの」
彼女の瞳から、一筋の涙が、静かにこぼれ落ちた。
「信じられなくなったの。湊のことも、湊が見てる未来も、私たちの未来も。全部。…ごめんね」
「別れよう」という言葉は、あまりにも静かで、だからこそ、絶対的な、覆すことのできない決定として響いた。
湊は、何も言えなかった。引き止める資格など、どこにもなかった。 凪が部屋から出ていく。ドアが閉まる、乾いたクリック音が、湊の世界の終わりを告げた。
たった数日で、全てを失った。 時代の寵児という称号。破格の年収。将来を誓った恋人。ちやほやしてくれた美しい女。築き上げたはずの、バベルの塔は、砂上の楼閣だった。
『……来た。俺の、時代が』
数週間前の自分の声が、遠い過去からの、残酷な嘲笑のように聞こえる。 がらんとした部屋で、湊は一人、膝を抱えた。窓の外では、東京の夜景が、計算され尽くした星々の光のように、無機質に、冷ややかに輝いている。アルゴリズムが支配するこの世界で、たった一つの判断ミスが、人生のすべてをゼロ除算のエラーへと導く。
「人生って、厳しくないか…?」
呟きは、誰にも届かず、静寂という名の分厚い壁に吸い込まれていった。生きている意味さえ、見失いそうだった。
第三章:アンドロイドは幸福の夢を見るか
二〇三〇年、冬。世界はさらに変貌を遂げ、家庭用アンドロイドが普及し、単純労働はほぼ過去の遺物となっていた。ベーシックインカムの導入が本格的に始まり、人々は労働という呪縛から解放された代わりに、「生きる意味」という、より根源的な問いと向き合うことを余儀なくされていた。
湊は、あの奈落から二年という月日を、まるで深い海の底を這うように生きていた。
全てを失った後、彼は故郷である千葉の、古びたアパートの一室に逃げ帰った。しばらくは何も手につかず、昼夜の区別もない部屋で、ただ虚空を睨んでいた。YouTubeで稼いだ貯金の残高だけが、彼の生命維持装置だった。夜ごと、安酒を煽り、曇った窓ガラスの向こうに、かつて夢見た星を探した。本棚に並んだ哲学書は、ただの文字の羅列にしか見えなかった。
転機は、雨の日に訪れた。アパートの片隅で、ずぶ濡れになった子猫が、か細い声で鳴いていた。その震える小さな命が、なぜか、かつての『AI猫』と重なった。デジタル空間で神託を語らせた空虚な自分と、今、目の前で死にかけているリアルな命。その圧倒的な断絶に、彼は突き動かされた。子猫を部屋に連れ帰り、温め、餌を与えた。その温もりと、ゴロゴロと喉を鳴らす音に、凍てついていた湊の感情が、少しずつ解かされていくのを感じた。
彼は再びパソコンに向かった。だが、目指す場所は以前とは全く違っていた。最先端のIT業界ではない。もっと、身近で、温かい、数値化できない場所。彼はオンラインでカウンセリングと臨床心理学を学び始めた。かつてAIと対話し、その思考の癖を読み解いた経験は、複雑怪奇な人間の心を理解する上で、奇妙な形で彼の助けとなった。彼が培った「問いを立てる能力」は、人間の心の奥底に眠る、本人さえ気づいていない答えを引き出すための、鍵となったのだ。
そして、二〇四〇年。 世界では完全自動運転が社会のインフラとなり、月面都市への移住計画が現実味を帯びていた。ベーシックインカムが当たり前になった世界で、人々は豊かさの中で、新たな虚無を抱えていた。
湊は、四十歳になっていた。 彼は、千葉の、海に近い静かな街で、小さなカウンセリングルームを開いていた。『心の調律師』。それが彼の新しい肩書だった。AI時代に適応できない人々、労働から解放され生きがいを見失った人々、バーチャルな関係に疲れ果てた人々が、彼の元を訪れた。
ITの寵児だった頃のような、華々しい成功はない。年収も、当時の十分の一にも満たない。だが、彼の心は、不思議なほどに満たされていた。クライアントの強張った表情が和らぐ瞬間、涙と共に感謝の言葉を伝えられる瞬間。その一つ一つが、アルゴリズムでは決して得られない、彼の存在証明となっていた。
ある晴れた午後、カウンセリングルームのドアベルが、澄んだ音を立てた。
「こんにちは」
入ってきた女性を見て、湊は息を呑んだ。時間が、止まった。
凪だった。
十年の歳月は、彼女から若い頃の鋭さを奪い、代わりに、全てを受け入れるような、深い優美さを与えていた。驚きで固まる湊に、彼女は柔らかく微笑んだ。
「探したよ、湊」
近くの、潮の香りがするカフェで、二人は向かい合って座った。互いの十年間という、あまりにも長く、濃密な時間を、ぽつり、ぽつりと埋め合わせていった。
凪は、湊と別れた後、猛烈なアプローチを受けていたエリートビジネスマンと結婚したという。誰もが羨むような、完璧な人生。しかし、その内実は、最適化と効率化を家庭にまで持ち込む夫との、冷え切った日々だった。
「彼にとって、私はトロフィーであり、彼の人生を彩るためのアクセサリーだった。彼は私を見ていなかった。私の隣にいることで完成する、『完璧な自分』を見ていただけなの」
まるで、かつての湊が、成功の先に見ていた幻影のように。彼女は、二年前に離婚していた。今は、フラワーアレンジメントの教室を開き、土や花の、不確実で、だからこそ美しい生命力に触れる毎日を送っているという。
「あなたも…本当に、いろいろあったんだね」
凪が、湊の顔を、慈しむような瞳で見つめる。
「ああ。本当に、いろいろ…」
湊は、自分の堕落と再生の物語を、飾ることなく話した。天狗になり、足元をすくわれ、すべてを失ったこと。そして、今、このささやかな場所に、自分の幸福を見出していること。
「幸せって、結局、自分の考え方一つなんだな」
湊がそう言うと、凪は深く、ゆっくりと頷いた。
「本当にそう思う。私ね、ずっと後悔してたの。あの時、もっと湊のこと、信じてあげられていたらって。でも、きっと違ったんだね」 「……」 「あのまま一緒になっていても、私たちはいつか壊れてた。お互いに、自分以外の何かを、相手に投影して、追いかけていただけだから。私たちには、この十年が、どうしても必要だったんだよ」
凪の瞳が、夕陽を受けてきらりと光った。
「結局、こうなる運命だったのかもね。…不思議だけど、私、今、幸せだよ」
その言葉は、湊の心の最も柔らかな場所に、じんわりと、温かい光を灯した。
カフェを出て、二人は夕暮れの海岸を並んで歩いた。空には一番星が、デジタルでは再現できない、儚くも力強い光を放っている。それは、かつて湊が愛した、哲学と宇宙の輝きだった。
「なあ、凪」
「ん?」
「俺さ、昔、凪を繋ぎとめるために成功しなきゃって必死だった。でも、違ったんだ。誰かのために、じゃなくて、まず自分が自分の足で、ちゃんと立たなきゃいけなかった。
自分の幸福を、自分で見つけなきゃ、誰も幸せにできないんだな」
凪は、何も言わずに、そっと湊の手に自分の手を重ねた。十年前とは違う、少しだけごつごつして、日焼けした、しかし生命力に満ちた温かい手だった。
「私もだよ。湊に置いていかれるのが怖くて、安定っていう幻想に、必死でしがみつこうとしてた」
AIがどんなに進化しても、アンドロイドがどんなに賢くなっても、この心の温もりだけは、決して代替できない。二人は、言葉もなく、ただ、寄せては返す、永遠のような波の音を聞いていた。
これから二人がどうなるのか、それはまだ、誰にも分からない。再び恋人という形に戻るのかもしれないし、あるいは、互いの孤独を理解し合える、唯一無二の友として、これからの人生を歩んでいくのかもしれない。
だが、一つだけ確かなことがあった。 アルゴリズムでは決して予測できない、不確かで、曖昧で、だからこそ限りなく愛おしい未来が、今、目の前に広がっている。そしてその幸福は、バベルの塔の頂ではなく、この、波打ち際の、足元の砂の感触の中にこそあるのだと、湊は知っていた。
空と海の境界線が溶け合う黄昏の中、問いも答えも、もはや必要なかった。ただ、静寂と、確かな温もりだけが、二人を優しく包んでいた。