第8話 別れ
公演まで、あと一週間。
大舞台への準備は着々と進み、博士の研究所はにぎやかだった。ドラムのナナは新パターンの練習に没頭し、博士はステージ照明のさらなる改良に明け暮れている。奏も、新曲がなかなかできず思い悩む日々を過ごしていた。
そんなある朝、何かが違う気配がした。いつもなら真っ先に発声練習をするテフナの歌声が聞こえてこない。気になった奏が研究所の奥で彼女を呼ぶが、返事はない。
ドアを開けると、テフナは床にうずくまるように倒れていた。
「テフナ……っ!」
慌てて抱き起こすと、高熱で顔が真っ赤になり、唇は震えている。博士が応急処置を試みるが、じきにテフナの意識は朦朧としていった。
「なんで……急に……」
奏が必死に呼びかけると、テフナはか細い声で「ごめん……」と微笑もうとする。だが、その顔からは力が抜け、汗が滴り落ちるばかりだった。
博士は寝台を用意して薬や道具を並べる。だが見る見るうちにテフナの容態は悪化し、息も絶え絶えになる。
「私の医療知識は万全じゃないが、できる限り手を尽くす……!」
落ち着いているようで、その額には冷や汗が浮かんでいた。ナナもパニックを抑え込むようにオロオロと戸惑う。奏はテフナの手を握りしめ、その冷たさに胸を締め付けられる思いだった。
病状が重くなるにつれ、テフナはうわ言のように古い言葉をつぶやき始めた。断片的に「戦争……」「お父さん、お母さん……」という悲痛な単語が漏れてくる。昔の戦争で両親を亡くした彼女は、幼い頃から体が弱かったという。その原因は、戦火で使用された毒物や汚染物質。国中を巻き込んだ争いの爪痕が、テフナの体を長年蝕んでいた。
「……ごめん、黙ってた……ずっと、昔から……病気だった……」
そう何度も呟くテフナに、奏は涙をこらえきれなくなる。
夜になると、熱がさらに上がってテフナは息苦しそうにあえぐ。博士も次々と薬を試すが、症状は和らがない。
「くそっ……私が兵器開発などに手を染めず、もっと医療に貢献できる知識を研究していれば……」
博士は歯噛みし、ナナは祈るように彼らを見守る。静寂と絶望が研究所を包み始めた。
そんな中、テフナはわずかに意識を取り戻したかのように、か細い声で奏の名を呼ぶ。
「奏……あなたの曲を……もう一度、聴かせて……」
ぼんやりと開いた瞳には、悲しみと温かさが入り混じるような光があった。奏は迷わずギターを持ち出し、彼女が街はずれで口ずさんでいた童謡をきっかけに出会った、あの“最初の曲”を弾き始める。
出会いの瞬間を思い出すメロディ。テフナがすぐに覚え、二人で合わせたサビ。辛い日々を癒やすように紡がれる音色が、寝台の彼女を優しく包み込む。
「……ありがとう。もっと……みんなと……音楽……したかった……」
テフナは唇を震わせながら微笑み、かすかに口元を動かしてメロディをなぞる。声にならない声で、彼女は最後まで歌おうとしていた。その姿は痛ましいほど美しかった。
しかし、力尽きたのか、曲が終わる頃には再び意識が遠のき、見る見るうちに浅い呼吸しかできなくなる。
夜が明ける頃、テフナは静かに息を引き取った。
「テフナ……嘘だろ……?」
奏が呼びかけても返事はない。まるで眠っているかのように穏やかな表情のまま、もう二度と目を開けることはなかった。博士は黙って目を伏せ、ナナは涙をこぼさないまま震えている。誰も言葉を発せない。研究所には長い沈黙だけが残り、外の空が白み始めても、悲しみは消えなかった。
その日、世界からテフナの歌声が消えた。彼女が夢見ていた大舞台は、もう目の前に迫っているというのに——。
テフナの死は、あまりにも突然だった。大舞台の公演を目前に控えるなか、ホーピーズは要であるボーカルを失い、深い悲しみに沈んでいた。




