嘲笑
貧困と搾取
暗い下水道を抜けて、仄かな光が射し込む様に、そっと目を開ける。午前5時半。私は目を覚ました。薄暗い半地下の台所の壁は、所々に黒い染みが付いている。壁が冷たく私に言う。「さっさと起きろ。さぁ働け。」と。ひび割れた床と天井を一通り見渡すと、私は、台所の狭い一角にある錆びた粗末な硬いベッドから起き上がった。このベッドが私の寝室だ。
とある良家の娘がいた。しかし、父親が事業に失敗し、そのまま亡くなった。3人の娘が残された。上2人の姉は行方をくらませた。末の娘が1人残された。彼女は高利貸しから借金をして、父親の負債を返済した。高利貸しは、末の娘に「働いて返済するか、債務不履行で刑務所にいくか。」の選択を迫り、末の娘は働く事にした。
高利貸しは、とある金持ちの屋敷の小間使いの職を末の娘に紹介した。屋敷の女主人は人使いが荒い事で有名だった。この職は住み込みであった。末の娘の寝室は薄汚い半地下の台所の一角にある錆びた粗末なベッドだけ。屋敷のトイレと風呂は使用禁止だ。彼女はこのベッドのそばで壺に排便し、盥で身体を洗った。彼女の食事は、女主人の食べ残しである。
私は制服に身を包んだ。黒いUネックの長袖のワンピースタイプの制服。両腕の袖口に白いカフスが着いている。制服の前面を隠す様に白いエプロンを着ける。両脚は真っ黒なタイツで素肌を完璧に隠す。ゴツゴツした紐付きの革靴を履いてベッドから立ち上がると、壁にある小さな鏡の前に立つ。じっと自分を見つめる。頭にコロネットキャップを巻いた。
彼女の一日は朝6時から始まり、夜3時に終わる。一日21時間の労働をこなした。休日は無かった。時給は15ペンスだ。彼女の給料は、家賃、食費、制服の貸与費、そして、高利貸しへの返済分。残りが彼女の手取りとなる。
朝から晩まで立っていられるのがやっとなくらいに働いた。女主人の食事のお世話。洗濯。掃除。屋敷の床を丁寧にモップ掛けする。それでも落ちにくい汚れや隅の方のホコリは、四つん這いになって雑巾を使い手で磨く。
女主人にお茶を運ぶ。「お茶をお持ちしました、奥様。」大きな声で元気良くハキハキと声を出す。「ありがとう。置いといてちょうだい。」と女主人が言う。「はい、奥様。」そう言うと私はテーブルにお茶を置く。「おつぎ致しますか?」私が聞く。「えぇお願い。」と女主人が冷たく答えた。満面の笑顔を浮かべて、私はお茶をつぐ。この「大きな声」や「笑顔」を作り上げるのは大変だ。傷付いて汚れた衰弱した心を奮い立たせるには、大変な努力が必要になる。女主人の機嫌を損ねたら一巻の終わりだ。背に腹は代えられない。「他に何かお申し付けは御座いますか?」私が聞く。女主人は「無いわ。お下がり。」と冷たく答えた。この「無いわ、お下がり。」は「屋敷中をピカピカに磨きあげろ。」という暗号だ。私はくるりと向きを変えると居間をあとにした。コツコツコツ。革靴の音が虚しく廊下に響く。
月に一度、高利貸しが屋敷に来て、私の仕事ぶりを監督しに来る。「逃げようなんて考えるなよ。刑務所行きだぞ。」そう言うと、諸経費を差し引いた残りの手取り分を私のベッドに投げ捨ててさって行く。私はこのネズミの心臓よりも小さな額の小銭をかき集め、急いで手取りを貯金してあるジャムの空き瓶に入れた。
女主人にとって、この小間使いは、非常に使い勝手が良かった。なにより、低賃金で長時間働かせる事が出来る召使いは魅力的だ。
ある日、女主人は靴を履き替えるので、今履いているものとは別の靴を持って来るよう私に命じた。跪き、女主人の右足に靴を履かせる。次に左足。すると女主人は左足の足の裏を、私の顔面に押し付けた。足の裏が私の鼻をグイグイと押す。私は目一杯笑顔を作った。女主人は楽しそうに笑った。
女主人はしばしば私に躾をした。制服を脱ぎ、裸になる。女主人は、私に居間の壁側を向くように命じると、硬く冷たい鞭で、私の背中を何度も打った。
躾が終ると、私は笑顔で「有り難う御座います、奥様。」と答えた。機嫌を損ねたら一巻の終わりだ。女主人は満足そうに煙草に火を付けた。
私は常に、全身の力を込めて笑顔を作り、がむしゃらに働き続けた。「自分には住む場所がある。」「食事にもありつける。」そう自分に言い聞かせて。私は、働ける事を神に感謝しながら、今日も屋敷の床を磨く。
錆びた粗末なベッドが私を嘲笑った。
お疲れ様でした。