飛んで火に入る夏の虫
あるところに、独り立ちしたばかりのハエがいた。名前はハチベエと言った。
ある日ハチベエが空を見上げると、ハチベエより年上のハエが、夜空をバックに光り輝く殺虫灯へ飛び込んだ。ジッという音と共に、そいつの命は散った。
人間たちは虫を騙してるつもりかもしれないが、虫たちは殺虫灯が何かを知っていた。なのでハチベエはなぜそのハエがあんなことをするのか理解できなかった。
その後も何度もハチベエは、自分と同じようなハエが殺虫灯へ飛び込み、命を落とすのを見てきた。ある日ハチベエは我慢できず、近くにいた年上のハエに聞いた。
「なぁ、なんであいつらはあんなことをしてるんだ?」
年上の虫は苦虫を噛み潰したような顔をして、こう言った。
「直に分かるさ」
ハチベエの大人としての人生が本格的に始まった。最初は自由に飛び回ることが楽しかったが、そのうちご飯を探すことに困り始めた。
ある日美味しそうなニオイに釣られて建物に入ると、中にいる人間たちが大騒ぎを起こした。彼らは次々にスリッパやチラシを丸めた筒を取り出し、ハチベエを潰そうとした。ハチベエは必死に避け、やっとの思いで逃げ切った。
命こそ助かったものの、このままでは飢え死にしそうだった。だが美味しそうなニオイのする場所はどこも人間たちで溢れており、ハチベエを見た瞬間に手で叩いて殺そうとしたり、スプレーで殺そうとしたりするのだ。俺のことなんて無視すればいいのに、とハチベエは思った。
いよいよ飢えに耐えられなくなったハチベエは、美味しいニオイを諦め、反吐が出そうなほど臭いウンコの臭いを追いかけた。とにかく体内に栄養を取り込まないと死にそうだった。
ハチベエは吐きそうになりながらウンコを食べた。よく見ると周りには他にもハエがいて、全員号泣しながらウンコを食べていた。ハチベエはそれを見て泣いた。
ある日、ハチベエは道に落ちてあるお菓子を見つけた。それは天からの贈り物のように思えた。ハチベエは歓喜しながらお菓子の元へ降りた。
するとどこからともなく鳩が現れ、ハチベエの見つけたお菓子を口に放り込んだ。ハチベエにとっては一週間の食事が、鳩にとっては一口で終わった。鳩はそのまま飛び去った。
別の日にはカブトムシで遊ぶ子どもたちを見かけた。子どもたちにヒーロー扱いされる虫もいると知り、ハチベエは嬉しくなった。事実、子どもたちの前で自慢げにツノを突き上げるカブトムシはかっこよく見えた。
「もしかしたら子どもたちと仲良くなれば、お菓子を分けてもらえるかもしれない」
ハチベエはそう思い、子どもたちの元へ近づこうとした。しかし急に降り出した雨により、子どもたちは蜘蛛の子を散らすように去ってしまった。そして地面に溜まった水に映る自分の姿を見て、ハチベエは絶望した。
そこには真っ赤な、無数に存在する目と、まるでハゲ散らかした中年の頭のようにところどころ生えている短い毛があった。ハチベエは生まれて初めて、自分が救いようのないブサイクだと知り、なぜ人間たちがあそこまで自分のことを嫌がるか分かった。
夏の終わりが近づいてきた。ハチベエはいつものようにウンコを食べていた。もう吐きそうにも、泣きそうにもならなくなっていた。
他のハエたちがウンコに集まってきた。彼らもまた、疲れ切っていた。生きているだけで、屈辱を味わう日々を送る仲間たち。彼らを見ると、鏡を見ているみたいだ。
ふと見上げると、太陽のように光り輝く物が見えた。夜なのに不思議だと一瞬思ったが、そうか、あれは殺虫灯だ。
昔はなぜ仲間たちがあれに飛び込むのが分からなかったが、今のハチベエには痛いほど理解できた。ハチベエは決心した。
翼を広げ、ウンコから飛び立ち、ハチベエは殺虫灯に向かってまっすぐ飛んだ。
ジッという音がした。