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その日、明神警察署内の空気は、朝から張り詰めていた。
昨日、竹駒駅付近であった死亡交通事故のことが、全体朝礼の中で触れられたからだ。
今年は例年より死亡事故が少なく、このままいきたい、という雰囲気が皆に漂っていた。
しかし、もうじき年末というこの時期に、今回の事故が起こる。
「これ以上は増やさないよう、全員が気を引き締めて、業務に当たるように」
と、最後に署長が締めて、この日は解散となった。
生駒誠は、朝礼のあと、所属する生活安全課の部屋へ移動する。
昨夜、当直だった彼は、眠気で重くなった目蓋を擦りつつ、自席に座った。
「生駒ちゃん、おはよう」
振り返ると、会計課の鳥海暢子が立っていた。
先日、勤続30年で表彰されたばかりの大ベテランだ。
「おはようっす、鳥海さん」
「ねぇ、昨日の経費申請だけど、領収書添付の仕方が間違っているわ」
「え、まじっすか?」
暢子の文句を聞き流しながら、生駒は経費精算の手ほどきを受ける。
面倒見はいいが、小言が多いのが玉に瑕、というのが彼女の評判だった。
そして、話が長い。
「生駒ちゃんも、そろそろ中堅って歳なんだから、しっかりね」
生駒は苦笑し、頭をかいた。
28歳である彼は、もう中堅なんて呼ばれるのか、と少し気後れしてしまう。
彼が警察官になったのは、どちらかといえば後ろ向きな理由だった。
元々は、弁護士になろうとしていた。大学では法学を専攻し、入学当初は司法試験の合格を目指していた。
しかし、2年生が終わる頃には、その目標は霧消してしまった。
実際に学ぶうちに、彼は法律への興味を失っていく。成績は悪くなかったが、勉強すればするほど、それを仕事にしたいという意欲はなくなっていった。
法律とは、問題があるところに生み出される、他人間のルールだ。
人々の間に、諍いがなければ作られない。市民の活動は原則、国に規制されることなく、自由であるべきだからだ。
それはすなわち、人は法の数だけ争っている、ということだ。
わざわざ法が、財産や罪刑について定めているのは、それらに関する揉め事が多いからだ。
過去の裁判例を読み返すと、そうした場面でこれまでいかに多くの人々が、欲深く利己的な闘いを続けてきたかがわかる。
弁護士とは、その争いの中で、利益を得る職業だ。
誰かの代わりに権利を主張し、訴え、報酬を受け取る。
それが悪い、と考えているわけでない。
しかし、争い事が苦手な彼にとって、それは素直になりたいと思える職業ではなくなっていた。
結局、生駒が警察官を志したのは、採用試験の科目と自身の専攻に、親和性があったからだ。
加えて、争いが嫌いなら、いっそそれを予防できる仕事に就こう、という程度の理由だった。
暢子が、口を開く。
「生駒ちゃん、今日は外出だっけ?」
「そっす。明神高校の全校集会にお邪魔して、闇バイトや薬物禁止の案内をするっす」
「冬休みが近いものね。休暇が長いと、誘惑が多いから――」
暢子がふと、何かを思い出したらしき仕草を見せる。
まだ喋るのか、と生駒は内心、疎ましく思っていた。
「最近、明高ってよく聞くわね。
この前あった宝石強盗で、逃げようとする犯人に刺されたのも、そこの生徒じゃなかった?」
そう言われて、生駒も思い出す。先日、隣の白竜市であった事件だ。
高校生のカップルのうち、女の子の方が、腹部をナイフで刺された。
幸い、一命はとりとめたと聞いているが、テレビや新聞でも、大きな騒ぎになった。
犯人はまだ捕まっていないとのことだが、管轄が違うこともあり、詳しい捜査状況はよくわかっていなかった。
暢子が、続ける。
「それに昨日、竹駒駅近くで、死亡事故があったでしょ?」
「はい。さっき朝礼で言ってたっすね」
「地域課の人に聞いたんだけどね。ほら、駅前交番の。
その人が言うには、あの事故現場にも、明高の生徒がいたみたい。
それで、事故を起こした運転手が、亡くなったでしょ?
その写真を、明高の子が、スマホで撮ってたんだって」
ほう、と生駒は腕を組んだ。
死体マニアか何かだろうか、と彼は想像する。
それはもちろん、褒められたことではない。しかし、中高生の子がそういうものに興味を持つのは、さほど珍しくはないようにも思えた。
(でも、今回は事故っすよね?
事前に知るなんて不可能っすから、たまたま居合わせたということっすかね?)
「これは噂なんだけど。最近、そういうことが多いらしいの。
人死にの現場に、明高の生徒が、よく居合わせるんだって」
「えっ、そうなんすか?」
よくいる、となると話は変わってくる。
それは、人が死ぬ情報が、どこかで出回っている可能性を示すからだ。
闇サイトか何かだろうか。
昨日の事故は別だとして、例えば自殺や病死なら、ネットを通じてあらかじめ情報を得ることができたケースは、あったかもしれない。
「署の中でも、少し話題になってるみたい。その高校生、『死神』だって」
(――死神高校生)
生駒の想像は、より悪い方向へ進んでいく。
もしサイトに載せられているのが、殺人予告というケースだったら……
その情報を信じ、死体を写真に収めたくて、現場に向かう人々。
その人たちは最悪の場合、共犯とみなされる可能性がある。殺人犯の犯行を後押ししたとして、罪に問われる余地が、刑法には存在しているのだ。
(これは、ちょっと調べた方がいいかもしれないっすね)
さらなる情報を引き出すために、生駒はもう少しだけ、暢子の長話に付き合う決意をした。
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