9 二人は兄妹
寝台に横たわってる女からは起きる気配が見受けられない。
明かりに照らされた女の頬は湿った布でおおわれており、そこからは薬草の煎じた匂いが漂う。
日が昇りはじめたのか窓から見える外は薄明めいており、部屋の中がほんのりと明るくなる。
女の面部を照らしている手燭の蝋燭の火を消し、台の上に置く。
部屋の中は女…柚以の規則正しい寝息を支配した。
…寝息というより鼻息か。彼女は鼻だけで息をしているかのような音を鼻から出している。初めて聞いたがこれはいびきなのか…。
そんな彼女を見つめながら思案する。
黒目、黒髪……特に取り立てていうこともない、この国で珍しいものではない。
体つきは中肉中背で容貌は悪くはない。まぁもう少し肉付きが豊かなら言うことなしだが。
この間膝の上に乗った女の柔らかな感触を意識に浮かべながら思う。
容姿は有り触れているが彼女はどこか不思議な感じがする。初めて見た時は異国の血を引いてる混血児だからだと思ったが、
眠る横顔はそれだけではない、言葉に言い表わせないようなある種の神秘的な雰囲気を醸し出している。
それに彼女の肌は素直に美しいと感じる。有り触れた肌だと思うのに、意外と目にしないもので瞬時にはわからないが人を引き付けるのだ。
引き裂かれた衣服が思い浮ぶと、誰かがその肌に触れたかと思うと血が熱くなるのを感じた。
深く息を吐く。
柚以は楼主が連れてきた女。
素性は明きらかにされておらず、彼女自身は知人の知人と言っていたらしいが楼主との間柄は定かではない。
…労働階級か?少なくとも農村の出には見えない。そうなると素封家の娘あたりになるが…
桃花の話に因れば文字には不慣れだか仕事の覚えも早く教養は有りそうだと。
だが一般の生活常識には欠けている所もあるという。
領地や地位は無いが財産はある豪商の子弟が都府に遊学に訪れることはある。
文字に不慣れな点を考えれば隣国から遊学に来た豪商辺りの娘とも思えるが…
仮にそうだとすると楼主との関係は……国外の商人、例えば国の中枢、つまりは高官と結びつき特権的な利益を受けている政絡みの商人だとしたら…
そこまで思案して壁に寄りかかる。
流石に考えすぎか…彼だって自分を取り巻く現況を理解しているはずだし何よりも…
そこで物音がし、桃花が部屋に入ってきた。
「兄様、柚以ちゃんはどう?」
「よく寝てるよ。先程までいびきをかいていたぐらいだ」
「いびき?私聞いたことないよ。…あぁまだ腫れてるね」
そう言いながら桃花は布を剥がし頬を水で濡れた布巾で拭い、軟膏を塗っていく。
「起こして悪かったな」
「ううん…それより何があったの?頬も服も酷いし…楼主様に報告した方がいいよね。起きてるかしら」
「いや、少し待ちなさい」
再び部屋を出ていこうとする桃花を引き留め、座らせると可能な範囲で柚以を発見した経緯を話した。
楼主に会おうとしたが彼の姿がなく、彼を探しに書斎へ赴くと倒れている彼女を発見した。
部屋の中は何時ものように紙が乱雑に置かれており、荒らされた形跡はなく特に変わった点は無かった。
…彼女の嘔吐物以外は。
起き上がらせようと体に触れると、触るな眠いと言って胸元を押さえながらふらふらと自分の部屋へ向かって行ったのだった。
そこまで話して桃花に言う。
「彼女を見ていてくれないか?起きたら話を聞きたいから…」
「ちょっと待ってよ!!
兄様の話を聞く限りじゃ、楼主様は行方不明で柚以ちゃんは書斎で襲われてたって事でしょ?!犯人は?目的は?
それにこんな時間に兄様が楼主様に会いにくるなんておかしいわ!何があったの?」
妹が声を荒げるのを聞くのは久しぶりだった。
「…お前に話せる事はこれ以上無い。何より今のお前はただの街娘で…そうであれば尚更」
「わ、私に関係ないことだって言うの?柚以ちゃんは同室で…」
「事を大きくしたくないんだ。…出来ればだが」
言うと妹は不貞腐れた顔をして黙る。
「ただ…楼主はもう戻らない可能性もある。まあ店は琳がいるから大丈夫だろうが…
桃花、お前はもう家に戻れ。慌ただしくなるから此処にはいない方がいい」
「………もう宮中に上がるつもりはないよ」
「お前の父君に謝って家に戻る事は出来るだろ。
…言い忘れていたが、まだお前の籍はあるそうだぞ。女官のな」
「……」
返事はない。
家を出たきっかけは些細なことだったが時間が経つにつれ戻りづらくなった所か。
それにこの前、此処は居心地がいいと言っていたな…
妹は口を閉じたままだ。
ふと視線を寝台に向ける。
…柚以は眠ったままだった。
***
「うぅ…ん……なんか薬くさい…」
ドクダミのようなキツいにおいがする。それに頬っぺたに何かある…
眠りから覚めきれていない身体を動かし頬に触れると、湿った布らしき物が剥がれ手についた。
薄ら目を開けると、明るい室内が見える。いつもの部屋。いつもの寝台。
「朝、かあ……?」
「起きたのか?」
「まだ…寝ていられる?」
まだ寝てたくて敷布に潜り込みながらそう言って、はっとする。
男の声だ。
起き上がり、辺りを見回すといつかの男が立っていた。
「あなた、どうしてここにいるの?」
「気分はどうだ?頬は?」わたしの問いに答えず男は言う。
「気分…?悪くはないです。頬はジンジンしないし…」
「そうか」
少し離れた壁にもたれながらこちらを見ているが目線が合わない。どうも顔から下を見ているようで…
顔を下げるとはだけた胸元と乳房のあたりに薄ら歯形が見えた。
げっ!!
とっさに敷布を口元まで上げたが見られた可能性は大。歯形は流石に大丈夫だと思うけど…。
それにしても跡が付くほど噛むってどういうつもりなのよ!
心の中で楼主様へ悪態をつこうとしたら太股に異物を感じた。
太股に触れているのは昨日の出来事の元凶と言うべき代物だ。そしてわたしは昨夜の事を思い起こした。
楼主様の様子がおかしくなって書斎に誰か来て―――
「…柚以ちゃん着替える?」
昨夜の事を回想していたら桃花が気遣わしそうに口を開いた。
「そうだね、そうするよ。
それと頬、手当てしてくれたの桃花?痛みはなくなったよ、ありがとう」
「ううん気にしないで。
頬はまだ腫れてるからもう暫く軟骨は塗った方がいいと思うよ。それとこれ、私が着ていたものだけど丈は合うはずだから…
ああ兄様は部屋の外で待ってて」
兄様?この二人兄妹だったのか。
二人を見比べる。見栄えのする兄妹だ。
「いや、このまま話を聞きたい」
「でも兄様!」
「時間が惜しい。構わないだろ?」
いやわたしは構う!
話って昨日の事だよね。流石に敷布を上げたまま話せるような内容じゃないし、
何よりわたし自身何が起こったかいまいち理解していないのだ。
「…出来る限り早く着替えますから待っててもらえませんか?」
兄の方にそう告げると彼は数秒わたしを見据え部屋から出ていった。