─ 後編 ─
河原から離れていくと真昼のように明るい世界が戻ってきた。池には蓮の花が咲き乱れている。岸に降り立ち、振り返ると男はさっさとと舟を回頭し対岸へ戻っていく。光が苦手なのだろうか。丘の上にはこじんまりとした御堂が建っている。俺はそこを目指すことにした。しかし、その中は洞窟と同じように光のない薄暗闇の空間だった。
「永田歩様。こちらへ」
中から声をかけられる。声から女性だと見当がつくが、そのシルエットから腕が四本あることが見て取れる。
「ここはどこですか?」
幸い日本語は通じそうだ。俺は怯えながらも聞いてみた。彼女は首をかしげ、答えた。
「ここはヤマトの南、クマノの地にござります」
ヤマト、とはどこだろうか? 日本史の歴史で習ったような気がするが、奈良県あたりではなかっただろうか。ということはここは和歌山か三重県だろうか。元の場所に戻ってきたのだろうか? しかし俺たちがいた場所は埼玉のドがつく田舎だ。どうやって和歌山まで移動したというのだ。それに腕が四本ある人なんて聞いたことがない。
「永田様、立ち話はなんですからこちらへお入りいただけませんか?」
俺は意を決して御堂の中へ足を踏み入れた。線香の古臭くも懐かしい匂いが鼻腔をくすぐる。そこは物の輪郭が辛うじて見えるほどの暗闇だったが、前を行く女性が時たま立ち止まってくれるお陰で迷わずに済んだ。
「こちらへ。段差がございますのでお気をつけください」
彼女の案内に従って足の指先で探りながら敷居らしき段差をまたぐ。枯れ草と香木の匂いが強まる。
「ようこそ。外の神の世界より来たりし者よ」
簾の向こうから影形が朗々と語りかけてくる。彼女が口を開き、言葉を紡ぐたび、煙たさと同時に嗅ぎ慣れない異臭が仄かに脳をくすぐる。
「夜の国の遥かなる旅路、ご足労であった」
その臭いはおそらく腐臭だ。
「最近は人手不足での。生まれの世界だけでなく他所の世界も管理しなければならない」
彼女はぼやいたらしい。その内容は全く理解できない。
「俺はこれからどこに連れて行かれるんですか?」
大津から預かった魂だ。どのようなことがあっても無駄にはしない。そう俺は心に固く決めていた。
「そう結論を急がれると悲しくなる。少しは愚痴も聞いてはくれまいか」
俺は押し黙った。その沈黙をしっかりと聞き届け、彼女は溜め息交じりに話を続ける。
「急いでいるのなら仕方あるまい。では本題に入ろう。永田歩、武本義弘、大津大成。この三名の処分を取り消すことをここ、玉司部において認めることを決定する。以上のことはヨモツオオカミがその名において権利を行使する」
一瞬何を言っているのか理解できなかった。言葉を失った俺に彼女は続ける。
「理解できなかったのか? これでも簡単にしたのだがな。更に意訳するとなれば、お前とその友達は間違って地獄を通ってここに来た。よってお前たちが死んだということをなかったことにして生き返らせる。そういうことだ」
俺はゆっくりと呟く。
「あいつらは、武本と大津は生き返る、ってのか?」
「そう言っておる。しかし、ここにいるのはお前だけだ。武本義弘はこの世ならざる者の血肉となり、大津大成は自らの罪を自覚しそれを悔い改める営みに身を投じた。定まった理を歪めることは難しくてな。よって、元の世界に戻すことができるのは永田歩。ただひとりである」
俺は足元から崩れ落ちる。彼らを犠牲にたどり着いた先で俺だけが何事もなかったかのように元通り。そんな未来はご免だ。
「彼らを……彼らを生き返らせる方法はないのですか?」
簾の向こうの彼女は再び溜息をついた。俺より遥かに大きいように見える身体を揺らし、正座を崩した。影しかわからないが、片頬をついているようだ。
「困ったことに、その方法はある」
「……なぜ困ったことに、ですか?」
彼女は答える代わりにどこかに向かって手招きをする。彼女の傍らに控えていた付き人が俺の手に何かを渡す。ざらついた感触の球体だ。
「理を捻じ曲げ、元に復元するにはその非時香菓が必要となる」
恐る恐る顔を近づけ、匂いを嗅いでみる。爽やかな酸味が喉奥に流れ込む。みかんだ。それも小さいものではなく、掌を少し広げてつかめるほどの大きいものだった。
「ここでは手に入らないんですか?」
「そうだ、永田歩。それはクマノの灘の遥か彼方。我らが永遠の旅路の果てにある。人では到底耐えられるぬほどの長い時間がかかるだろう」
彼女はどこか遠くを見つめている気がした。そして言いづらそうに言葉を続ける。
「あるだけ欲しい。最低でも八つだ。しかしこれは異界の人には尚更厳しい旅になると言わざるを得ない。我はこれ以上命を落とす様を見たくない」
俺の行動は決まっている。
「行きます」
「本当か? 行けば引き返せない。那由多の時の間に精神がすり減り、無くなるかもしれない」
俺はそのシルエットを見つめる。
「行きます。二人のために」
彼女は何を考えたか、少し間を置き身をかがめた。簾が上げられ、顔が近づく。ボロボロの皮膚と長く太った首。その容姿は人間離れしており、どちらかというと芋虫に近い。
「永田歩。そなたには加護を与えよう」
彼女からは何かが腐った匂いがする。額から突き出され、差し出されたものも気分の悪くなる匂いを発する粘膜がまとわりついている。
「では行くがよい。時間はいくらかかってもここでは変わらん。大津の償いが先に終わってしまうかもしれんなあ?」
俺は再び腕が四本の付き人に連れられ、御堂から退出する。明るみに出たその姿は元の世界の理を逸脱している。彼女は、いや彼女たちは二人の人が合わさってひとりになっている。四本に見えた腕は道理が通っていると言えそうだ。透き通った白い肌は日に晒されることが少ない御堂での生活で作られたものだろうか。
「海岸までご案内いたします、ハウラと申します」
彼女は先行し丘を降りていく。彼女の後ろ姿にあたるもうひとりは赤子のように静かに眠っている。表の彼女と同じように口を白い布と砂の落ちるような音を立てる金属飾りで覆っている。双子のようなものだろうか?
「私の姿が珍しいですか?」
ようやく聞けた彼女の個人的な問いに俺はホッとしつつ答える。
「ちょっとね。ごめん、ジロジロ見ちゃって」
「いいんですよ。ここにはお互いしばしば見慣れない人たちが来ます。神のように数千年を生きる人もいれば数粒の石ころの塊のような方もいらっしゃいました。私も毎度お恥ずかしながら見入ってしまいます」
「色々な方がいるんですね」
「ええ。しかし海を渡って常世の国へ赴く方は極めて稀です。こうして見送るのは数億人ぶりのことでございます」
太陽のない明るい世界の中で彼女は俺に目を細めて微笑みかける。
「私はお館様のように向こうへ渡ったことはありません。だから貴方様を引き止めはいたしません。しかし、どうか無事に戻ってきてください」
俺はその言葉を胸に抱きしめ、頷いた。
さざ波が辺りを賑わせ、微量の砂が靴の中に入り込む。太陽はいつの間にか地平線に陣取り、辺りをオレンジ色で染めている。異界の砂浜は不思議と見覚えがある気がした。
「私の案内はここまでです。最後にお館様の加護についてお教えいたします」
俺はズボンのポケットから粘つくそれを取り出す。その正体は昔の人が髪を留めるために挿しているような櫛だった。歯は全部で三本。匂いはいつの間にかなくなっていたが、それでも感触は気持ち悪さが残る。
「頭の中に欲しいものを具体的に思い浮かべてください。そして櫛の歯を折り、投げるのです。それはきっと叶えられるでしょう」
俺は頭の中で海を超える手段を思い浮かべる。無難に船はどうだろうか? しかし海を渡るための大きな船を自分ひとりで動かせるはずがない。飛行機はどうだろうか? 自動運転にすればいいはず。しかし途中で燃料がなくなったら?
「すみません、他の方はどうやって渡ったんですか?」
いい案は思い浮かばず、傍らで佇むハウラに尋ねる。
「皆さん歩いて行かれましたよ。稀に飛んでいく方もございますが」
「歩くって、海底を?」
彼女は首を振る。
「ここの海は波の先を踏んで渡ることができます。つまり、深みに足を取られることも、溺れることもないのです」
しかし、と彼女は続ける。
「よわのみず、これには気をつけなければなりません。ここに踏みこんでしまうと海底に引き込まれてしまいます」
俺は一気に脱力してしまった。改めて寄せる波に一歩踏み出す。さざ波の蠢く感触が靴底を通して感じ取れる。数歩進み、振り向くとハウラさんがいつもの微笑をたたえて手を振ってくれていた。俺は手を上げてそれに応え、振り返ることはなかった。
踏み出す一歩に大幅な変化は認められない。しかし、地平線に見える岩陰の大きさの変化が日に日に小さくなってきている。もうどれほど長い間波間を歩んできたのかわからない。それでも気がついたことがもう一個ある。一歩踏み出す間に思考できることが増えている。一日にできる思考回数は三千件ほどだと何処かで聞いたことがある。しかし、今は踏み出す間に一日分の思考をしている。俺は御堂での言葉を思い出す。
『那由多の時の間に精神がすり減り、無くなるかもしれない』
その理由の一端を垣間見た気がする。それでも踏み出す足を止めることはしなかった。こうなれば精神が擦り切れるまで思考を続けるしかない。普通の人間では考えられないほど膨大な時間を今手にしているのだ。
俺はもう一歩踏み出した。
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