第1話 プロローグ
この小説を社交ダンスを愛する人達に捧げます。
その場所は、ある社交ダンス教室だった。今、彩香の相手は慎二という男である。
「彩香さんはいつも頑張ってるね」
「はい、有り難うございます、でも難しくて上手くいきません」
「そのようだね、大夫ステップも憶えてるようだけれど、もう少しだ」
そういうと慎二は薄い唇を開き、薄笑いを浮かべた。どうやらこの男は何事にも自信過剰のようだが、しかし、それは自信に裏づけされているようである。
「ええ、ようやく足の動かし方は何とか……ですが、それで私には精一杯で」
彩香は、ハンサムな慎二に始めて声を掛けられ緊張していた。彼はいつも息のあった女と踊り、その姿に魅了されていたからである。
彼が踊るダンスは、どんなダンスでも小気味よく切れとスピードがあり、颯爽として見えた。初心者の自分から見て、そう感じるのである。その慎二が、どうしたことか今日は彩香の前にいた。彼は彩香の眼をじっと見つめながら言う。
「貴女は良い素質を持っているけれど、初めから間違った変な癖で憶えると、後から直すのが大変だから、しっかりちゃんと覚えないと」
「はい、有り難うございます、それで……あの私の癖ってどんなところでしょう、自分では分からなくて」
「そうだね、ではどんなダンスでも皆その姿勢が大事なんだよ、それから直さなければいけないな、まずは、スタンダードのワルツから教えてあげよう」
「はい、お願いします」
「貴女は折角、素敵な身体をしているんだから……」
そういう慎二の眼が自分の身体を注視しているようで、彩香はどきりとした。慎二の眼でじっと見つめられると、何とも言いようのない戦慄が身体を過ぎる。その見えない熱い視線を感じ、それが目眩のようなクラクラした錯覚を感じるのである。
「スタンダードでは、ワルツでもタンゴでも男女が息を合わせて踊るには……」
「はい」
「こうして身体を密着させるんだよ、しっかりと」
そう言うと慎二は彩香をぐいと引き寄せホールドの姿勢をとる。その時、引き締まった慎二の身体が彩香の身体と密着した。慎二の身体がピタリと彼女の部分と重なる。彩香は、こんなに身体が密着したのは初めてだった。
「あっ……」 彩香は小さな声で呟く。
「腰を引いちゃ駄目だ」
「はい」
瞬間、彩香は彼に抱かれている自分を瞬間的に想像していた。彩香は慎二の、男臭い匂いとその感触に、乙女のような喜びと、不安が混じったような不思議な戦きさえ感じるのである。そんな余談を許さないような慎二の次の言葉が走る。
「まずワルツをやろう、こうして上体を一定の空間をつくり、姿勢を最後まで崩しちゃだめだ」
そう言いながら慎二は正しい姿勢で彩香とホールドをする。
「はい」
「お互いの足がクロスして、男性の膝の当たりのリードで、女性はその動きを察知して動くんだ、手は上体を揺らさずに、真っ直ぐに、もっと力を抜いて」
「はい」
「顎を出さないで引き締めながら、眼は踊る方向を見据えて、ほら、足を気にして下を向いちゃ駄目だ、腕もその姿勢をキープしながら下げないように、いいね」
「はいっ」
「いくよ」
そういうと、慎二は彩香の股間に挟んだ足でぐいと前進した。すると不思議なことに、いままで経験したことがない動きが信じられないほど自分の意志とは無関係にスッと自然と動き出していた。彩香はここで3ヶ月も過ぎ、今まで何人もの男性と組んで踊ったが
こんなスムーズに動けたのは初めてだった。
「下を向いちゃ駄目だ」
「ライズして、そうそう……もっと軽やかに」
「自分から後ろに引いちゃ駄目だ」
「もっと背筋を伸ばして、ピンと胸を張るように」
「よし、その感触を忘れるないように」
矢継ぎ早の慎二の声を聞き、クルクルとスピンしながら、彩香は夢中で踊っていた。重ねた彼の手の動きに合わせ身体を動かし、密着した膝のリードで足を前後する。
耳元で彼が囁く。
「クローズド・チェンジ、ナチュラル・ターンそれから……」
その彼の言うステップを頭で意識しながら、彩香は慎二に身を任せていた。彼の言葉で感じ、意識し自然と身体が動いていた。それは操り人形のように自在に慎二という業師に操られているようだった。この経験は彩香にとっては始めての経験である。
まるで自分でないようだが、しかし確実に彩香は正確に学んだステップを忠実に踏んでいた。自分でも信じられないほどだった。それは慎二のリードとテクニックが、彩香の才能を引き出したからだと言える。いつしか、彩香の額には汗が玉のように流れていた、これほどまでに、彼が自分と情熱的に踊ってくれるとは想像もしていなかった。
何故か、彩香は踊りながら一種の感動のようなものを感じていた。
踊りが終わったとき、彩香の眼に涙が溢れていた。それは感動のせいか喜びかはわからない。
「もっと上手になりたい、慎二さんに相応しい相手としてダンスをもっともっと覚えたい」
と、彩香は心からそう思っていた。