The Fifth Day -A day of the summer when rain falls-
物語は起承転結の「転」です。
8/16 ルビの修正
朝に起きた俺は外を見て少し憂鬱になった。
外では飽きることなく水の波紋を作りながら降る雨があった。
水溜りなんかができているあたり、夜の間に降り始めたのだろう。
夏樹と会うのは昼ごろだから、それまでに止んでくれればいいのだが。
俺はとりあえず二度寝したら昼を寝過ごしそうだったから自分の部屋からでて朝食をとることにした。
「あら、また早いわね。ワタル」
居間にいってみると、母さんがソファーに座ってテレビを見ていた。
「ここ最近早いじゃない。やっぱり彼女でもできたのかしら?」
少しうきうき気分の母さん。母さんの調子はだいたいいつもこんな感じなのだが、俺は寝起きに雨というあまりハイにはなれない状態だった。
「彼女じゃない。昨日も言っただろうが」
「でも夏休み入ってから昼まではだいたい寝てたあんたが、ここ四日間ぐらい早起きなのよ? 少しはそういう可能性を考えてみたっていいじゃなーい」
「よくねえよ」
「お年頃の男子はわからないわね……」
残念だわ、といわんばかりに首をすくめる母さん。ちなみに母さんの名前は井上眞子-イノウエマコ-という。ついでにいうと、どれだけ早起きしたって朝早くから仕事にでている父さんの名前は井上秀汰-イノウエシュウタ-という。
仕事は何をしているのかはよく覚えていないが、地味な仕事だったような気がする。
とはいっても、一家三人を養うだけの働きはしているのだから、立派だと思う。
母さんも働いているのだが、これまた何をしているのかは全然知らない。意外とこういう身近なことというものは何も知らないものである。
「で、ご飯食べる?」
「ああ」
一つ返事に言うと、母さんはソファーから腰を上げる。俺は椅子に座って母さんが飯を出すのを待つ。
「それにしても、久しぶりに雨なんか降ったわね」
飯を俺の前に置きながら母さんは言う。確かに雨が降ったのは実に二週間ぶり。この夏に雨が降らなければ、農家の人たちだって困るだろうに、太陽は律儀にも働き続けていてくれた。
「昼までに止むかな?」
「うーん、どうだろう。天気予報じゃ一日中降るっていってたわよ? しかも降水量はいつにも増して多いって。たまりにたまってたのが解放されたって感じだわ」
―― 一日中?
ということは、今日は夏樹に会えないということか。
夏樹も雨が降っていることぐらいは知っているだろうから、自然と今日の予定はなくなることになるのか。
「あ、警報出た」
母さんが普通にそんなことをいう。
テレビを見ると、確かに上のほうの気象情報に大雨・雷警報が発令されたと出ていた。同時にバラエティー番組がニュース番組に変わり、大雨・雷警報が発令されました、なんてニュースキャスターが言い始めた。
『明日、異常気象になーれ』
――こんな異常気象は望んでいなかった。俺は雪が降ることを願っていただけなのに。もちろん、そんなものがこの時期に降るはずないとわかっていて……。
なにかの因果だ。俺と夏樹の願いは、こんな酷い結果で叶えられるなんて。
そこで俺はふと思う。
――夏樹は“雨”というものを知っているのだろうか?
あまりにも馬鹿にしすぎた心配だと思う。だが、夏樹はこれまでに俺たちが常識だと思っていたことを全くといっていいほど知らなかった。ならば俺たちの常識である“雨”だって――。
「……馬鹿か、俺は」
「ん? なんかいった?」
「いや、なんにも。ごちそうさま」
黙々と考えながら食べていると、いつの間にか飯はなくなっていた。お代わりしてもよかったのだが、これ以上食べる気にはなれなかった。
俺は自重気味に部屋に戻る。いくら夏樹だって、年頃から見れば何十年かこの世界で生きてるんだ。その何十年間、雨が降らないってことはないし、ましてやそれを見たことがないなんてことはないだろう。
でも……。
外はザーザーと音をたてて雨を降らしている。ときおり一瞬光って、ごろごろと雷の鳴る音。まだそう近くはないようだが。
「………………」
時間は十時。後二時間ぐらいで今日は止むことがないであろう雨が止めば、約束どおりいくのだが。
俺はしばらくの間窓の外を見続けた。
「ワタルー。ちょっと買い物いってきてくれなーい?」
暇つぶし程度にティッシュでテルテル坊主なんか作っていると、母さんが一階から俺の部屋にむかってそんな意味のわからないことをいってきた。
「なんでこの大雨の中買い物いかなきゃいけねえんだよ!」
自分の部屋から少し顔を出して俺は言う。
「いや、ちょっと買ってきてほしいものがあってさー。ほら、雑誌のキュンキュンってやつ。ちょっと気になってるのがあってさ」
「キュンキュンって……いい歳してなに読んでんだか」
「何か言ったー?」
「なんでもない!」
キュンキュンというのは、女性に人気のファッション雑誌のことである。
「で、行ってくれるの?」
俺はしばし考えて、
「……わかった。行ってくるから金渡せよ?」
と、答えた。理由は別にないが、本音を言えば部屋でテルテル坊主を黙々と作って窓の外を見つめているよりかはいいと思ったからだ。
「わかってるわよー♪」
母さんは俺の答えに上機嫌になると、わかっていたかのようにポケットから金を出して俺に渡す。
それにしても、警報が出ているというのに息子を買い物に外出させるとは、酷い親もいたもんだ。
俺はパジャマから着替えて、軽く準備をすると、母さんから貰った金をポケットに、傘を片手に家を出た。
外は大雨、ときどき雷が鳴るという最悪な天候。
俺はため息をついてから傘をさして商店街のほう目指して歩き出した。
歩いて二十分ぐらい。途中、コンビニの近くまでやってきた。昼までに止めばここという約束だが、今日はもう中止だろう。コンビニには退屈そうな店員の姿しか見えなかった。
そのままコンビニを通り過ぎて、商店街に向かう。雨はいっそう強くなった気がした。
ほどなく十五分ぐらいで商店街に到着。目的のキュンキュンを買いに本屋へ入るが、今考えれば男性が女性向けの雑誌を買うというのにはそれなりに抵抗があることに今気付いた。
まさか、母さんは自分がいい歳なのを知っていて、それで買うのが恥ずかしいから俺に任せた? そういうことなのか? もしそうだとしたら、まんまと俺は母さんの策にはめられたということか……迂闊だった。
とはいっても、そうもいってられないから俺は人の少ない本屋の中でキュンキュンを見つけると、それをレジに持っていって女性店員に少しおかしな目で見られつつも本屋を後にした。
店から出ると、相変わらず大雨で雷が鳴り続けていた。
しばらく休んでいこうとどこか適当なところに座ることにする。
『今日の異常気象は――』
不意にそんな言葉が聞こえてきた。
声の聞こえてきた方向を見ると、そこには小さい電機屋があった。そこのテレビでは何かバラエティー番組でも流していたのだろうが、生憎とニュースに変わっていてそれが流されていた。
暇つぶしにそのニュースを見てみることにするが、大雨がどうのこうの、雷がどうのこうの、どこかの町では川が氾濫したなどと、この大雨を見れば誰でも予測がつきそうなことばかりを流している。
ニュースキャスターもそれを黙々と読み、ときにいそいそと手元の資料を見ながら喋っている。お疲れ様なことだ。
「そこの兄ちゃん」
「?」
呼ばれて振り向くと、そこには魚屋のおっちゃんがいた。
「俺ですか?」
「そうそう。お前さんしか兄ちゃんはいねぇだろうに」
確かに、周りを見てみると俺以外に若そうな男性は見当たらない。まあ、この大雨の中ここまで来る物好きもいないだろうから当たり前なのだが。
「えっと、なんですか?」
それにしても、あまりこのおっちゃんとは話したことがないし、呼ばれるような理由も見当たらなく、俺はそんな当たり前のことを聞く。
「お前さん、一昨日ぐらいにかわいいおじょうちゃんをつれてきたろ?」
かわいいおじょうちゃん……夏樹のことだろうか?
「はぁ。きましたけど……?」
「さっき、そのおじょうちゃんがテレビ見て異常気象だ異常気象だ、って喜んで外にでてってよ」
「!?」
「こないに大雨なのに、あんなに喜んどるなんて珍しいのうと思ってみとったんじゃが、大丈夫」
「それ、いつごろですか?」
つい声に力が入って、おっちゃんは少し驚いたようだがつい二十分前ぐらいだと答えた。
「ありがとうございました!」
「いやぁ、別に感謝されるほどのことでもねぇかんな」
じゃあの、なんていっておっちゃんは魚屋のほうに戻ってゆく。
――あの馬鹿!
これは異常気象でも、お前が望んでいた異常気象じゃないだろうが!
俺は心の中で怒りながら、すぐに立ち上がって大雨の中、傘をさして夏樹を探しに出た。
とりあえず何処に行こうかは迷ったが、俺は最初に向日葵畑のほうへ向かって走っていった。
「っとに、あの馬鹿……!」
ただそう呟いて、それで俺は夏樹がこの大雨の中で何か危険なことにあってないことを祈ることしか出来なかった。
傘をさしながら走れば、傘が少なからずとも風を受け止めてしまって走りにくくなってしまう。何度も傘をたたもうかと思ったが、それでは夏樹を見つけたときに自分がびしょ濡れでは意味がない。傘のことを忌々しく思いながらも、俺はただただ向日葵畑の方向へと向かって走る。
風も出てきて、もしかしたら今頃暴風警報も出ているのではないかと思い始めた頃に、向日葵畑に着いた。
着いて思う。
――どうやって探せばいいんだ?
この向日葵畑の広さを一人で探すなんて、無謀というものだ。
しかも、向日葵はどれも背の高いものばかりで、雨のせいで視界も悪い。
「なーーーつきーーーーーー!」
とりあえず叫んでみることにする。だが応答はなく、ただ雨の音がざーざーと答えるだけだった。
探すなんて事はできない。少なくとも一人では時間がかかりすぎる。
俺は向日葵畑をひとまずあきらめて、今度はこの向日葵畑とは真反対にある海へと向かうことにした。
途中コンビニに寄ってみたが、夏樹はいなかった。そのまま通り過ぎて海へと目指して走る。
もしも夏樹が海にいた場合。この大雨だと波も強くなっているはず……。夏樹のことだ、それに興奮して近づいていけば――。
「っ!」
悪い想像はやめて、ただひたすらに走って――海に着いた。
向日葵畑よりかは探しやすい見晴らしのいい海。思ったとおり、海は荒れていて、波が強くなっていた。
海には人影一つ見当たらず、ただただ荒れ狂う波がうるさいだけ。
とりあえずここでも向日葵畑と同じように夏樹の名前を大声で呼んでみるが、やはり夏樹の声は聞こえない。もしかしたらこの雨の音と海の音でかきけされているのかもしれない。
だとすれば、呼んでも無駄……。
「くそっ!」
ただ一人の少女のために、こんなに必死になっている自分が正直おかしかった。
だいたい、夏樹だって人だ。それに危険ぐらい感知できるはずだろう。だというのに、俺はそれを馬鹿にしているかのように、夏樹を過小評価しすぎているのか心配になって探している。
何度も思うが、会って間もない少女だ。しかもその出会いはみんなに頼まれたアイスを食われたなんて最悪な出会い。そこになんのときめきも感じなければ、それが何かの運命だとも感じなかった。
ただ――あの無邪気すぎる純粋な少女は放っておけないんだ。
そんな甘ったれた自分の考えを俺は自分で少し馬鹿にする。
「………………」
俺は腕時計を確認して、海を後にすることにした。時間はいつの間にか十二時。
蝉樹という考えもあった。だけど、あの純粋な少女は今の時間帯ならば行くべきところは一つだけだろう。
くるりと方向を変えて、向かった先は――コンビニだった。
…
「はぁ、はぁ、はぁ、っ、はぁ、はぁ」
息が荒い。さすがにノンストップで走り続けたからだろう。さすがに傘をさしていても俺の身体は暴風と大雨によってびしょ濡れになっている。
海から走り続けて約十五分――着いたコンビニには一人の少女が元気そうにはしゃいでいた。
俺を見つけるとその少女は俺に手を振る。何か行っているようだが、雨の音にかきけされて聞こえない。
その姿を確認して、歩いてその少女、夏樹のもとへと歩く。
「ワタルおにいちゃん! いじょうきしょうだって! いじょうきしょう!」
「そうだな」
「これが、ワタルおにいちゃんがいってた“ゆき”っていうものなの?」
「………………」
俺は怒っていはずなのだが、そんな純粋で馬鹿らしい言葉に俺の怒りは収まってしまった。
そうか。夏樹はこれが雪だと思ってしまったのか。普通の人ならそれぐらいの違いは一目瞭然であるはずなのに。
「ワタルおにいちゃん……?」
「……これは雪じゃない。ただの雨だ」
「えっ!? そうだったの!? わたしてっきりいじょうきしょうだ、っていうからこれがゆきなのかなって思ってたのに〜」
夏樹は本当に残念そうにうなだれる。
夏樹はまるで海からあがってきたかのようにびしょ濡れだった。濡れていないところなどないだろう。
「残念だな……っ」
そう呟いて夏樹は突然俺のほうに倒れ掛かってきた。
「な、夏樹? どうしたんだよ、おい」
心配になって顔をあげさせると、夏樹は顔が真っ赤で、額に触ってみるとかなりの熱を出していた。
「っ! この馬鹿! なんでこんなになるまでうろついてたんだよ!?」
「あはは……だって……これがゆきだと、思ったんだもん……」
その喋る姿はとても見ていられなかった。
「俺の家まで連れてく! それまで辛抱しろよ!」
俺は夏樹の身体をおんぶすると、なにかぶつぶつと弱々しい声でつぶやく夏樹を自分の家までつれていくことにした。
一応傘をさしていたが、どちらもびしょ濡れでもはや意味などなかったが、これ以上濡れるよりかはましだと思って。
…
「おかえりー、って! ワタルどうしたのよ!?」
「俺はいいから、とりあえずタオルとか持ってきてくれ!」
びしょ濡れになって帰ってきた俺を見て母さんは驚き、俺の言葉にそそくさとタオルを取りに行く。
「はい、どうぞ。やっぱりこの大雨の中じゃダメだったかしらね……で、そちらの女の子は?」
「途中で倒れてたんだ」
俺は夏樹の頭を軽く拭いてやりながら、少し嘘まじりにそういった。
「あ、母さん。ごめんけど、ちょっとこの子の着替えとか用意してくれねえか? 俺じゃさすがにそこまでは世話できないし」
「うーん、よくわからないけどわかったわ」
母さんに夏樹を預けて、俺はタオルで身体を拭いて自室へと入った。着替えを出してびしょ濡れの服を脱ぐ。
やっと雨風をしのげる場所に入ったことによって、俺は息をつく。もしも母さんが俺に買出しを頼まなかったら、今頃夏樹は……。
「とりあえず、よかった……」
少し母さんに感謝しながらも、あの魚屋のおっちゃんにも感謝した。あの時おっちゃんが何も教えてくれなければ、俺は家に帰っていただろう。
本来の目的であった雑誌のほうはなるべく濡れないようにはしたが、やはり少し濡れたところが目立ってしまう程度には濡れてしまった。母さんもこれぐらいなら許してくれるだろうか、なんて思って渡しにいくのもだるくなってそこらへんにおいておく。
「ワタルー、着替えさせたわよー」
その声に自室から出て一階に下りる。
「子供用の女の子用のなんてなかったから、ちょっとあんたの着せちゃったけど大丈夫よね?」
見ると、夏樹は少し大きめの俺の服を着ていた。
ズボンは半ズボンを穿いて、上は冷えないようにということなのか長袖だった。手はほとんど隠れていて、指先だけがちょこんと出ている。
「別に問題はないけど、なんで母さんのじゃないんだ」
「今ちょっと洗濯しちゃってて……」
「……まあいいや。とりあえず寝かしてやらないと。かなりの熱出してるんだよ」
わかってるわよ、と母さんはすでに濡れタオルなんかを準備していた。最近の冷えたシールみたいなのを額に貼るやつはないのかと聞いてみたが、あればもう出してるわよ、なんていわれてしまった。
「とりあえずなんか粥-カユ-みたいなものを食わせるか……。母さん作ってくれるか?」
「いいわよ。だけど、作ったら仕事にいかなきゃいけないから、そのあとは頼んだわよ」
しばし、思考が停止した。
「……仕事?」
「そうよ」
「こんな大雨なのにか?」
「大人に休みなんてものはないのよ」
はあ、なんてため息まじりに母さんは言う。
確かに、夏休みや警報が出て休みなんていうのは子供の特権といってもいいものだ。
なら仕方のないことなのだろう。
……って、ちょっと待て!?
「俺が一人で看病するのか!?」
「あったりまえじゃない? だいたいあんたが連れてきたんだから、しっかり看病してあげなさいよ」
そういって母さんは台所へとお粥を作りにいってしまった。
それにしても俺が一人で夏樹を看病? しかも相手は異性だ。多少なりとも抵抗はあった。こんな俺なのに、なんで夏樹を自分の家に連れてくるなんてことを考えたのだろうか。
「やるしかないよな」
別に気合を入れるようなことでもない。ただ夏樹を見守ってやっていればいいんだ。
一つ屋根の下で男と女がいるとか、そういうやましいことなんて全然考えない。俺がここへ夏樹を連れてきた理由は、ただ単に夏樹のことを本気で心配したからなんだから。
「いってきまーす」
「いってらっしゃーい」
お粥を作ってくれた後、すぐに母さんは仕事に行く準備をなにやらぶつぶつと文句をいいながらし始めた。
そして、今さっき出て行って今家には俺と夏樹の二人だけとなった。
そこに他意はない。俺はただ夏樹を看病してやるだけだ。
まだ布団もなにも引いてない。俺は一番管理下におきやすい場所に夏樹を移動することにした。
自分の管理下、つまりは俺の部屋だ。
少しこの考えは自分でもどうかと思うが、そのほうが俺には都合がよかった。
「ん、うぅん……」
「大丈夫か? 夏樹」
「う……ん……大丈夫……?」
少し目を開いて見たこともない場所を力なくきょろきょろと見る。
「ここ、どこ……?」
「俺の家だ」
「ワタルおにいちゃんの……? どうして?」
「お前が高熱出して倒れてきたからだろ。お前の家もわからなかったし、とりあえず俺の家で看病することにしたから、安静にしてろよ?」
「……うん」
夏樹は少しだけ微笑んで見せると、また目を閉じて眠った。
母さんが作ってくれた粥を食べさせるのはもうすこし後になりそうだ。
夏樹を抱えあげて自室へ運ぶ。見た目どおりというべきなのか、夏樹は予想以上に軽かった。二階の部屋まで連れて行くのにそう苦労はしなかった。
「よいしょっと」
ベッドに寝かせて布団をかけてやる。
一旦一階におりて、粥や水分補給用の飲み物、タオルなんかを持ってきてまた自分の部屋へと戻る。
とりあえずはこれで大丈夫だろう。
「それにしても、どうすりゃいいんだよ……」
看病、といってもそんなのはいつもされる側に回っていたりすることが多い。うちの親は風邪を全くというほどひかないし、看病したことはない。
だというのに、俺は年に一回か二回ぐらい風邪を引いて看病されていることが多い。
そのときに用意されていたものなんかを思い出せば、なんとかできそうだが、問題はその後だ。
夏樹の家を俺は全く知らないし、親にもあったことがない。
それは後で夏樹に聞くとして、顔も知らなかった男子が突然高熱を出したのでうちで少し看病させてもらいました、なんていわれたら親も娘の年頃を考えて少しは心配するだろう。
俺も見た目はそんなによくないし、何か疑われそうだが……まあそんなことはただの杞憂にすぎないか。
くだらない心配事を頭の隅っこに追いやって、すやすやと眠っている夏樹を見る。
その寝顔は風邪のためか、少し苦痛に歪んでいた。そりゃあの大雨の中でおおはしゃぎで遊んでいたっていうのなら当たり前かもしれないが。
「……ごめんな」
元を辿ってゆくならば、俺が異常気象がどうのこうのいいだしたから、夏樹はあらぬ勘違いをしてこうなってしまったんだ。原因は俺にあるといってもいい。俺は自分を責めて、夏樹に謝ることしかできなかった。
「悪くないよ……ワタルおにいちゃんは……」
夏樹の小さな声に夏樹を見てみると、夏樹は俺のほうを見てそういってくれていた。
「………………」
「わたしもね、最初は白くてふわふわしてないから違うのかなーって思ってたの。だけど、いじょうきしょうがおこったってテレビでやってたから、きっとわたしとワタルおにいちゃんの願いが叶ったんだ、って思っちゃって……ごほっ、ごほっ!」
「大丈夫か?」
平気平気、とはにかんで見せる夏樹。そこにはつい先日までの元気はなく、顔は少し青白くなっていた。
「とりあえず、安静にしてろ。あっ、腹減ったか?」
夏樹はこくりと小さくうなずいて、俺は持ってきた粥を食べさせることにした。
「これ、なに?」
「お粥っていうんだよ。まあ風邪をひいたときに食べる飯みたいなもんだな」
へえー、なんて夏樹は少し関心したようにいうと、のそのそと起き上がる。
「熱いから気をつけろよ」
俺は粥の入った茶碗とスプーンを渡しながら言い、夏樹はそれを少しだけスプーンですくうと軽く冷ましてから口の中に入れた。
「……あんまり味しないね」
「文句いうなよ? 今のお前みたいな状態にはこれが一番いいんだから。なんだったらにがーい薬を飲ましてやってもいいんだぞ?」
「そ、それはいやだ、かな。あはは」
夏樹は本気で薬を飲むのが嫌なのか、なにもいわずにぱくぱくと粥を少しずつではあるが口に運んでいく。
確かにお粥なんてほとんど味がついてないし、軽く塩をふった程度の食べ物だ。そこにおいしさをもとめるかどうかは少し贅沢な悩みというものか。
「ワタルおにいちゃんは何か食べたの?」
「……そういえば何も食ってないな」
言われて気がついた。母さんにキュンキュンを買ってこいといわれて買いにいって、その後夏樹を必死で探していたもんだから昼飯なんて二の次にしていた。
「俺も粥でも食うかな」
「風邪をひいたひと専用じゃなかったの……?」
「いや、まあそうともいいきれないけど、なにも食っちゃいけないわけじゃないし……。それに、目の前で粥よりうまそうなもん食われたらお前も嫌だろ?」
「うー……そうだね」
というわけで、俺は一階に残っていた粥を茶碗についで自室へ戻って夏樹と一緒に食うことにする。
久々に食べてみたが、やはり風邪でもないときにこれを食べるともっとうまいものを食べたくなる。
「……歌声、聴こえないね」
「?」
夏樹がぽつりともらした言葉に視線の先を見ると、窓の向こうに蝉樹がぼんやりと見えた。
確かに時間はもう来てるし、いつもなら蝉樹の大合唱が始まる頃だ。
「この大雨だからな。もしかしたらただ聴こえないだけかもな」
「ううん。歌ってないよ」
「? なんでわかるんだ?」
「………………」
なんだかよくわからないまま、夏樹は黙ってずっと窓の外を見ている。その視線の先には蝉樹。
たまに粥を口へと運んで、また蝉樹を見つめ続ける。
やがて軽く深呼吸をし始めて――
「―――――――――」
――夏樹は静かに歌い始めた。
それは昨日も聴いたなんの歌かもわからない唄-ウタ-。
風邪を引いていても、その歌声は綺麗だった。この唄は何処までも澄んでいる。
ミーンミンミン……。
「?」
今さっき蝉の鳴き声が聞こえたような……。
カナカナカナカナカナ……。
やっぱり聞こえる。
部屋の中に蝉がいるわけではない。その鳴き声は確実に外から聞こえていた。
ツクツクホーシツクツクホーシ……。
そしてそれは心なしか、蝉樹から聞こえているような気がした。
こんなに大雨だというのに、さすがに聞こえるはずがない。だが、最初は小さかった鳴き声も、次第にはっきりと聞こえてくるようになる。やがて雨の音なんて気にならなくなり、蝉の澄んだ鳴き声だけが頭に響いていた。
「――――――……ふぅ」
やがて夏樹が唄を歌い終わるのと同時に、さっきまで聞こえていた蝉の鳴き声はなかったかのように、一気に雨の音でかき消される。
幻聴……? いや、そんなはずはない。確かに俺は蝉の鳴き声を聴いたんだ。それは夏樹が歌っている間だけ。
「――夏樹、お前」
「ちょっと寝るね、ワタルおにいちゃん」
「え? あ、ああ。わかった。寝るのが一番だからな、うん」
自分でもよくわからないぐらい突然の夏樹の言葉に言おうとしていたことがいえなくなる。
ベッドに横になって数秒後、夏樹は静かに寝息をたてて寝てしまった。
結局、さっきの蝉の鳴き声が聴こえたことについて聞こうと思ったのだが、思えば何をどう聞けばいいのかが自分でも考えていなかった。
ただ、突発的に夏樹が歌っている間だけ蝉の鳴き声が確かに聴こえた、というだけでそれを夏樹にどう聞こうかなんて全く考えていなかったんだ。
それでも、さっきの鳴き声は確かだった。
あまりにも夏樹が蝉樹のほうを見るから、ついつい頭の中で勝手に蝉の鳴き声が再生されたのかと思ったが、それも違うだろう。もしも再生されるとしたら、それはきっとさっきのような澄んだ音ではなく、何か破壊力をもったようなパワフルな鳴き声だろう。
俺はしばらく考えてみたが、いくら考えたって答えは出なかった。
一応空になっていた夏樹の茶碗なんかを一階の台所にもって下りた。
その後は、ずっと夏樹を見ている、というのにもさすがに精神がもたないから漫画でも読んで、また夏樹が目を覚ますのを待つことにした。
雨が止むことはなく、じめじめとした部屋の中。
漫画を読み続けること数時間。その間、夏樹はずっと寝ていてときおり顔色をうかがってみると、さっきまで青白かった顔が少し回復していることがわかった。
濡れタオルを水につけて絞り、また夏樹の額にのせる。
こんな作業を何度か繰り返していた。もとはといえば、今日は夏樹と遊ぶ予定だったんだから、他のやることなんてなく、まだ全然手をつけていない夏休みの宿題でもしようかと思ったが、あまりの多さに絶望して一瞬であきらめた。
明日か明後日あたり、一哲らへんから宿題を借りて移させてもらわないと確実に間に合わないぐらい残っている夏休みの宿題。よくもまあ夏休みの間、全然手をつけていなかったものだ、といらない感心をしたりしていた。
「四時か」
ふと時計を見てぽつりとそんなことを言う。
夏樹を家に連れてきてからすでに約四時間。そのうち三時間ぐらいは、俺は漫画を読んだりして暇つぶし。夏樹は熟睡という時間を過ごしている。
外の雨は弱まるどころか強くなり、雷もよくなるようになっている。風も更に強くなってきて、家中の窓をがたがたと鳴らしているのがうるさくてたまらない。
プツンッ。
……と。雷鳴が鳴り響くと同時に、家が停電した。
窓から他の家を見てみると、どうやら停電はうちだけじゃないようだ。
「ってことは、ブレーカーが落ちたわけじゃないな」
昼だから窓からは鈍い光がまだ差し込むし、俺は慌てずにその場で電気がまたつくのを待つことにした。
その間は、漫画を読む気が失せて暇つぶしに一応ブレーカーが落ちたのじゃないということを確認するために一階に下りることにした。
やはりというべきか、ブレーカーは落ちてなくて停電だということを再確認したところで、冷凍庫から棒アイスを出して自室へ戻ることにする。
夏樹はすやすやと静かに寝息をたてて寝ていて、俺はアイスのビニールをはずしてぺろぺろと舐めながら食べた。味はソーダバニラで、外はしゃりっとソーダの味がするアイスの中にバニラアイスが入っているというシンプルなものだ。
「………………」
一向に直る気配のない停電を俺はアイスを舐めながら待つ。これが夜に起こったら俺は慌てているだろう。
ほの暗い部屋の中を見回して、最後にベッドに目がつく。そこにはだいぶ顔色もよくなってきた夏樹が寝ている。
…………………………………………………。
少し暗い部屋の中。一つ屋根の下で男と女がいるという、高校生としては少しやましいことを考えてしまうこのシチュエーション。
「――っ! 何考えてんだ、俺は!」
変なことを考え出した自分を激しく自己嫌悪する。
確かに夏樹は今無防備だ。こんなの、俺じゃなくて危ないそこらへんの野郎だったら夏樹は一生癒えない傷をもつことになるだろう。まだ俺でよかった……なんて考えも、さっき考えていたことを思えばそうも思えなかった。
「最低だ。俺」
アイスの棒を加えながら呟く。
「う、うぅうん……」
夏樹が寝返りをうって、額に落ちていたタオルが落ちる。
俺はさっきまでの自分をふりはらうようにして顔を少し強めに叩くと、夏樹の近くによって落ちたタオルを寝るのに邪魔にならない場所においてやった。そして、夏樹の額を触って熱を確かめてみることにする。
「……だいぶ、下がった……かな?」
案外こうやって額を触ってやって熱くなってみてもよくわからない。
もしかしたらそれが常温なのかもしれないし、まだ熱があるのかもしれない。体温計を使うのが手っ取り早いが、いちいち夏樹を起こして熱を測ってもらうのも気がひけた。
自分の看護能力がないことに軽く落ち込みながらタオルを近くの水の入った桶に入れて絞る。じゃばじゃば、というタオルから水が落ちて落ちる音がする。
「……うぅううん。おはよう、ワタルおにいちゃん……」
むにゃむにゃと瞼をこすりながら目を覚ました夏樹。
「おはよう。起こしちまったか?」
「いや、よく寝たから」
そっか、と俺は頷くと、とりあえず体温計を渡して熱を測るよう促す。
夏樹はなにもいわずに体温計を受け取ると、それを脇の下に入れて脇を引き締める。
「ねえ、ワタルおにいちゃん」
「なんだ?」
「なんで真っ暗なの……?」
「ああ、さっきていで」
「ま、まさか、わたしに変なことしようとしたの!?」
「んなわけあるかっ! 停電したんだよ、停電!」
勝手に妄想をし始めた夏樹の考えを訂正する。
「……ていでん?」
……まあ、なんというか。こういう一般的常識を疑問系で聞かれるのにも慣れてしまったあたり、俺はなにか対変人耐性が少しできてしまったのだろうか。
「ていでんってのは、今みたいに明かりが消えて暗くなることだ」
「へー、そうなんだ。わたしはてっきりワタルおにいちゃんが明かりを消してわたしの寝込みを襲おうとしたのかと思っちゃった」
こいつはなんで一般的常識がなくて、こういう変な知識は持っているのだろうか。
「ったく。変な妄想をふくらませるなっての」
俺があきれていると、体温計がぴぴぴっと音を鳴らして温度を測り終えたことを知らせる。
「何度だ?」
体温計を脇からはずして、夏樹は体温計を確認する。
「えっと……三六度七分、かな?」
「なんだ、もう治ってるじゃねえか。あれだけ熱があったのに、大したことなかったのか?」
「ううん、最初は苦しかったよ。きっとワタルおにいちゃんが変なことを考えずに看病してくれたからだよ」
あはは、と笑って背伸びをする夏樹。確かに元気になったようだが、俺が変なことを考えずに、っていうのは余計だ。
「まあ、治ったんならよかった。でも、薬もなんにも飲ませてないのによく治ったな、お前」
よく考えてみれば、俺は粥を与えて以降、薬もなにも与えないでいた。治ったのだからいいのだが、これが普通だったら俺は自分に嫌気がさしていたことだろう。
「わたしは元気だけがとりえだもん!」
「……まあな」
元気がない夏樹ってのは、確かに何かもの悲しかった。
なんにせよ、これで夏樹を家に帰らしても、夏樹の親に心配されることもないだろう。一件落着だ。
「それより、ワタルおにいちゃん」
「なんだ?」
「……アイスを一人で食べたでしょ?」
「………………」
別に隠していたわけじゃなかったが、なぜか心の中では、ばれたか! という思いがあった。
「わたしも食べたい!」
「お前な、いくら熱がひいたっつっても、いきなりアイス食べたら」
「うるうるうる」
「うっ!」
こ、この眼は、夏樹とはじめてあった日に向けられた眼差しと同じだ!
「うるうるうる」
「わ、わかった。食わせるからやめてくれ」
とはいっても、前とは違う状況だし、お預けにする必要もなかった。
いや、単にあのうるうるとした眼差しを向けられるのがどうも苦手、という俺の微妙な弱点めいたものがあるからなのだが。
一階に下りて冷凍庫からアイス棒を取り出す。そのアイス棒が最後の一本でなんとなく名残惜しかった。
ふと外を見てみると、いつの間に止んでいたのか雨がやんでいた。
空からは点々と日の光が差し込んでいる。さっきまでの雨は嘘のように晴れていた。
「台風、もう過ぎたのか?」
天気予報を見た限りでは、今日一日中は降ると思っていたのだが……。
だけど、止んで悪いことはない。俺はアイスが少しでも溶ける前に二階にあがった。
「夏樹、アイスとってきたぞ……?」
部屋のドアをあけてみると、そこには誰もいなかった。
「あれ………………?」
俺はきょろきょろと部屋中を見回すが、夏樹の姿は見当たらない。
クローゼットの中に隠れているのかと思ってあけて探してみたが見つからない。布団の中に隠れているわけでもない。
「どういうことだよ?」
俺はアイス棒の入ったビニールを落として、呆然とする。
目を落とすと、布団の枕元に一枚のメモ用紙があった。
俺はそれを手にとって読んでみる。
『ワタルおにいちゃんへ。
お外もはれたし、ちょっと用じを思いだしたので家にかえります。
今日はごしんぱいおかけしました。またあしたね♪
アイスはまたこんど食べさせてね☆
なつき』
女子っぽい字で、やけにひらがなが目立つ文章だった。
勝手に帰った夏樹に少しいらだったが、すぐに疑問が浮かぶ。
「――いつの間に出て行ったんだ、あいつ」
夏樹が一階に下りてきた気配はなかった。それに俺が二階に上がるまでの時間は一分とかからなかったはずだ。その間にどうやって……?
頬を軽く冷たい風がなでる。
……風?
ふと前を向くと、少しだけ窓が開いていた。夏樹が開けたのだろうか? ちょうど少し大きめの虫が一匹入れそうなぐらいに窓が開いている。
まさかとは思うが、夏樹は窓から出たのだろうか?
いや、そんなはずはない。というか、いくら非常識なやつでも、そこまで非常識じゃないはずだ。それに、窓から出たらすぐに屋根があるといっても、そこから下りるには時間がかかるだろうし、それなりに高い。
「そうだ、靴」
夏樹の履いていたサンダルを見ればわかるはずだ。俺は玄関に向かう。
だがしかし。
「……なんでだ?」
玄関にあるはずの夏樹の履いていたサンダルはなかった。よく考えれば、俺は夏樹を担いで家に戻ってきたんだ。
家に戻るまでに夏樹のサンダルはどこかに落ちてしまったとしてもおかしくはない。俺も家に戻ってきたときは、夏樹を早くどうにかしなければ、ということしか考えていなかったから、サンダルを脱がしたかどうかもわからない。
考えれば考えるほどわからなくなる。俺はもう一度部屋に戻ってみることにした。
部屋を改めて見てみるが、夏樹の姿は見当たらない。布団は夏樹がいた名残があるだけで、そこから夏樹が窓越しに見ていた蝉樹が見える窓が少し開いているだけ。
俺はわけもわからず立ち尽くして、明日あったときにいろいろと聞いてやろうという結論に至った。
普通なら、こういうことが起こったら、実はあいつは幽霊で、なんていう話が思い浮かんできそうなものだったが、そんなホラーチックなことはまったく考えていなかった。
フッと電気がついて停電が復旧したことを知らせる。部屋に明かりが戻った。
俺はそれに別に安心するわけでもなく床を見ると、アイス棒がビニール袋の中で少しとけていた。
数時間後に母さんが帰ってきて、あの女の子は? と聞いてきて、俺は、大丈夫。もう熱もひいて帰ってったよ、といった。
母さんはあんたねー、と少しあきれ気味にいっていたが、俺のいったことに嘘はなかった。
「そういえば、あの子なんていう子?」
「夏樹」
「夏樹? 聞かない子ね?」
「なんか最近引っ越してきたらしいぞ。どこに引っ越したのかは知らねえけど」
「ふーん。それにしても、大丈夫なの? 夏樹ちゃん」
「大丈夫だろ。熱もだいぶ引いてたし」
「ワタル、風邪っていうのはね治りかけが一番怖いんだから。油断してるとまた風邪ひいちゃうものなのよ?」
「そ、そうなのか?」
そういわれると少し不安になってきた。とはいっても、勝手に帰ったのだからどうしようもない、とはさすがにいえない。
「次からは気をつける」
「次って、いつの話よ、あんた」
「さあ?」
俺は適当に答えるとテレビを見る。天気予報がちょうどやっていて、その天気予報では台風が予定よりそれて、俺の住んでいる地域はあまり長引かなかった、ということがわかった。
「そういえばワタル」
「ん?」
「夏樹ちゃんの服、うちに残ってるんだけどどうするの?」
「………………」
完全に忘れてた。そうか、夏樹は俺の服をきたまんま家に帰ったのか。
……それって、つまり夏樹の親がそれを見たときに男物の服を着ているってことだよな?
……全然一件落着じゃなかった。
「乾かしといてくれ、明日返しておく」
もうどうしようもないから、俺はあきらめていさぎよく明日服を返すことにした。
ついでに、俺の服もそのときに帰してもらうことにしよう。俺は夏樹が親に変な目で見られていないことを。そして、井上家が夏樹家から変な目で見られないことを願うことにしよう。