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 カーテンの隙間から差し込む太陽の光で目を覚ました。眩しい。太陽の光は嫌いだ。朝なんてやって来ないでくれと、何度思ったことだろう。


 スマホを見ると、まだ朝の六時になったばかりだ。もう少し寝てても良いだろう。どうせ今日も学校に行く気はないんだし。


 ベッドで仰向けになり、天井を仰ぐと、自然に涙が出てきてしまう。私の人生はクソみたいだ。このまま、この狭い部屋に閉じこもって生きて、お母さんに迷惑をかけて生きて、それで静かに死んでいくんだ。なんて惨め。なんて寂しい。


「こんなはずじゃなかったのになぁ……」


 弱々しい声が喉から漏れたと思ったら、次には嗚咽が漏れ始めた。喉奥が痛い。目が痛い。胸が痛い。最近の朝は毎日これだ。そうして最後には、死んでしまおうかを真剣に悩む。死ぬ勇気は結局出ないのだけど、でも最近、勇気が溜まってきているような気がしている。


 たっぷり泣いて、私はベッドから起きた。時刻は六時十五分。そろそろお母さんが起きる頃だ。お母さんに朝ごはんを作らないと。学校に行かない、出来損ないの私はせめて家事をすることで存在価値を生み、この家に居させてもらっているのだから。


 部屋を出ようとして歩を進めると、ふと、部屋の中の姿見が目に入った。大嫌いな自分の姿を目に入れまいと急いで目を背けるが、私はある違和感を覚えて、もう一度姿見に映る自分の姿を見直した。何が変なのだろう。考えながら鏡を見て、数秒後、違和感の正体が分かった。着ている服が変わっているんだ。私は昨日、こんな服を着て寝てはいない。なぜ、服が変わっているのか。考えるけれど答えは出ない。怖いなぁ、と思って顔をしかめる。でもきっと、寝ぼけているうちに着替えたんだろう。それしか考えられない。


 リビングに行くと、お母さんはもう既に起きていた。おはよう、と挨拶をすると、おはようと返ってくる。


「今日も学校に行けるの?」


 にこにこ嬉しそうな表情でお母さんが私に訊いてくる。え? と思わず私は聞き返した。


「今日も学校に行くんでしょ?」


「今日も……って、なに……?」


「何言ってんの。昨日学校行ったじゃん」


 お母さんがくすくすと笑った。お母さんは冗談で言っているわけではなさそうだった。だからこそ、私は恐ろしくなった。だって私は昨日もいつもと同じように家に閉じこもっていたのだから。私が学校になんて、行くわけがないのだから。


「そんなはずないよ……」


 私が恐る恐る口を開いた、その瞬間だった。ピンポーン。間抜けなチャイムの音がリビングに鳴り響いた。お母さんが「こんな時間になんだろう」と首を傾げて玄関に駆けて行く。


 玄関からお母さんの声と、もう一人、若い女性の声が聞こえる。直後、お母さんがリビングに戻って来て、


「陽菜乃の同じクラスの音無優衣ちゃんっていう子が来てくれたよ」


 と言った。同じクラスと言うが、音無優衣という名前には聞き覚えがない。お母さんは玄関まで出て来なと言うが、私は大きく首を横に振って嫌がる。


「い、嫌だよぉ。クラスの人に会うなんて」


「え、でも、これ返さないとダメでしょ?」


 するとお母さんはそう言って、紙袋を私に渡してきた。見ると、中身は体操服だ。ズボンに音無という白色の刺繍が入っている。


「これは……?」


「陽菜乃が昨日、その子から借りたって言ってた体操服でしょ? 洗っといたよ」


 何が起きているのか理解できない。私は怖くなって閉口した。昨日? 私が借りた? だって私は昨日家にいたのに。そんなこと起きるはずないのに。


 ただ、ここに本当に体操服がある限り、私が間違っているということになってしまう。私の頭から、昨日の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっているとでも言うのか。そんなことが本当にあり得るの? 思って、私はスマホを見た。日付を確認する。四月十三日の木曜日。私は息を呑んだ。四月十二日が消えている。私の人生から昨日が消えてしまっている。


 お母さんを見る。今、自分に起きていることを訴えようとしたが、おかしいのは私だということは明らかだった。「昨日の記憶がない」なんて言っても、お母さんに心配を掛けるだけだ。これ以上、お母さんを苦しめたくはない。


 私は観念してお母さんの言う通りに玄関に向かった。体操服を返して、そのクラスの子には早々に帰ってもらおう。そしてお母さんが仕事に行ったら、ネットで私の症状について調べてみよう。危ない病気だったら、病院に行った方が良いかもしれない。


 玄関に行くと、私より背の高い、ショートカットの女の子が立っていた。その子の身体の後ろ側から太陽の光が差していて、後光が差しているような絵面になっている。彼女は私を見るとにこりと笑った。彼女には見覚えがある。確か、私の隣の席に座っていた子だ。音無優衣というのか。そういえば、そんな名前だったかもしれない。


「おはよー陽菜乃! 早く起きすぎちゃったから家まで来ちゃったよ」


「お、おはよう……」


 妙に馴れ馴れしい態度に違和感を覚えながら、私は早く目的を果たしてしまおうと思って、手に持っていた体操服入りの紙袋を彼女に差し出した。


「これ、ありがとう」


 思いもよらず、ぶっきらぼうな言い方になってしまった。


「あ、体操着? どういたしまして!」


 音無さんが紙袋を受け取る。それを確認して、「それじゃあ、ばいばい」と私は玄関をゆっくり閉めようとした。しかし音無さんが閉まる玄関の隙間に自分の身体を挟み込んでそれを防ぐ。音無さんは慌てた様子で抗議する。


「なんで閉めるの! ひどくない!?」


「え? だ、だって……体操服は返したから」


「いやいや! 昨日約束したじゃん! グラウンドで野球しよーって!」


 そんな約束をした覚えはないけれど、その記憶も消えてしまっているのだろう。昨日の私がどんな行動をしていたのかとても気になる……というか、不安だ。そもそも、なぜ学校に行こうなんて思ったのだろうか。


「そうだっけ、あはは……」


「そうだっけって! ひどいよ陽菜乃! もー、早く着替えて行こーよ」


 着替えて行くって……まさか学校に? あんな地獄に行くなんて絶対に嫌だ。昨日の私がどんな風に過ごし、どんな行動をしたかは知らないが、それだけはダメだ。適当な理由をつけて断ろう。


「あの……娘をお願いします」


 口を開こうとしたら、突然に背後から声がした。振り返ると、なんとお母さんが私の後ろで深々と頭を下げていた。お願いします、お願いします。繰り返しながら、何度も頭を下げるお母さんに、私は下唇を噛み締めた。


「い、いやいや! もちろんですよ、友達ですから!」


 音無さんは大いに戸惑っている。当然だ。大の大人に急に頭を下げられたら何事かと思うよね。


「音無さん、ちょっと待っててね」


 私は音無さんに断って、一旦玄関を閉めた。これ以上、同級生に頭を下げるお母さんを見たくはなかった。玄関を閉めて、お母さんの方を振り向く。お母さんは顔を上げて、にこりと笑った。


「とても元気な良い子だね」


 とお母さんは音無さんを称する。安心したような笑顔に私は胸の引き締められるような感覚がした。


 昨日、何の気まぐれがあってか知らないし記憶もないのだけど、私は学校に行ったみたいだ。私が学校に行くと言った時、お母さんはどんなに喜んだだろう。引きこもりだった中学時代。お母さんは決して私を責めず、見守ってくれた。優しく接してくれた。高校に入って、環境が変われば、また登校できるようになるはずだと励ましてくれた。私もそう信じて頑張った。そうしてやっと高校生になれて、中学校から脱出できて、普通の高校生になれると思ったのに、またダメになった。決して怒らずに、また励ましてくれたけれど、その時のお母さんの失望はどれ程だっただろう。


「学校、行ってくるよ」


 私は小さな声で言った。言った後に、ものすごい倦怠感に襲われる。呼吸が速くなり、心臓はドクドクとうるさい。身体も心も拒絶しているようだった。苦しい。けれど、お母さんの方がもっと苦しいんだ。


 自室に戻り、制服に着替える。時間割を合わせて、歯磨きなどの支度を急いで済ませてから玄関に戻った。玄関に戻ると、お母さんが両手に弁当箱を持って立っていた。


「行ってらっしゃい!」


 弁当箱が手渡される。そうか、今日お母さんがいつもより早く起きていたのは、このためか。そう分かって、目頭が熱くなるのを感じた。


 いいさ。良い機会だ。私だって、このままずっと部屋に閉じこもる生活じゃ嫌だと思ってたんだ。やってやる。登校してやる。普通の学校生活に戻ってやる。


「ありがとう。美味しくいただくね」


 思いがけず、意気込んだ声が出た。弁当箱を受け取ってカバンに詰める。ずっしりと重い弁当箱にはお母さんの愛情が詰まっている。


「行ってきます」


 お母さんに笑いかけて玄関を開けた。太陽が眩しい。私の嫌いな朝の光だ。


「お、お待たせ、音無さん」


「おかえり!」


 玄関の向こうで待っていてくれたクラスメイトは私が出てくると、満面の笑みで迎えてくれた。十五分ほど待たせてしまったのにも関わらず何も嫌な顔をしていない。クラスで喋った時も思ったが、この子は本当に性格が良さそうだ。


「じゃあ早速、グラウンドにレッツゴー!」


 音無さんは元気よく言って、握った右手の拳を空に向かって突き上げた。私もそれに倣って同様に拳を高く上げる。


「ねぇ、何で私の家を知ってたの……?」


 純粋な疑問を投げかけると、音無さんは何かを思い出すような間を置いてから、


「教科書のセットを届けに来たことがあるんだよ」


 と答えた。なるほど、たしかに先週、お母さんがクラスメイトから受け取ったと言っていた気がする。


「そうだったんだ。ありがとうね」


「いえいえ。学校通えるようになって本当に良かった!」


「……わ、私の学校休んでた理由知ってるの?」


 もしかして、昨日の自分が勝手に喋ったのではないだろうか。冷や汗が背中を伝う。もし知られていたら大変な事態だ。


「え? 風邪がひどかったって聞いたけど」


「あ……そうそう、そうです、そうです」


 良かった。全然知らないみたいだ。


 久しぶりの通学路。久しぶりの同学年との会話。狭い部屋の中で、私がひたすら憧れた光景が今ここにある。


 見上げた空はよく晴れている。しかし、よく見ると、所々に灰色の大きな雲があり、どうも晴天とは言えないようだった。


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