風呂場の鏡が映すもの
「楽しそうな先輩たちだったね」
先輩たちが出て行った部室で、俺と音無さんは下校のために制服へ着替えていた。
「うん、本当に! 雰囲気の良さそうな部で良かったよ!」
俺の言葉に、音無さんは大きく頷いた。練習着を脱ぎ始めたので、俺は大慌てで背中を向ける。例によって目を瞑り、音無さんの肌も葛西陽菜乃さんの肌もなるべく見ないように着替えをする。
着替えが終わり、俺は目を開けた。ただし、音無さんの着替えは終わっていないので音無さんには背中を向けておく。ちらっと見たい気持ちはもちろんあるが、それをしたら、俺の自己嫌悪が始まるのでやめておく。
「体操服、洗って返すね」
汗に濡れた体操服を、偶然カバンの中に発見したビニール袋に詰める。そしてビニールできちんと隔離してから、カバンの中に入れた。筆箱などに汗が付いたら大変だ。
「別に洗わなくて良いのに」
音無さんは言うが、そういうわけにもいかないだろう。俺は「次の体育までに返すね」と返して、時間割表を見た。今週の金曜までか。
音無さんの着替えが終わったので、俺たちは部室から一緒に出て、校門に向かって歩みを進めた。校内はやはり広く、音無さんの案内がないと迷ってしまいそうになる。こればかりは、時間をかけて慣れていくしかなさそうだ。たしか、キャプテンの言っていた、仮入部開始日も今週の金曜日だ。
「葛西ちゃん、野球部入るんだよね?」
校門まで行く道の途中、音無さんが俺に訊いてきた。俺は即答しようと思ったが、後々のことを考えれば、ここは慎重に答えるべきじゃないかと思い直した。これは俺の身体ではないし、俺の人生でもない。俺はいつかは、いや、すぐにでも元の身体に戻りたいと思っているのだ。そう考えれば、葛西さんがこの身体に戻った時に面倒に陥るような言動は避けるべきだろう。散々野球を楽しんでおいて、何を言ってるんだという感じだが。
「うーん、ごめん。少し考えるよ」
「え! 野球、楽しくなかった?」
音無さんは俺の返答に目を丸くした。楽しくないわけがない。しかし、今の俺にはこう言う他に手がないのだ。
「もちろん楽しかったけど……もうちょっと考えさせて」
「そ、そっかぁ」
明らかに残念そうに、音無さんは肩を落とした。とても仲良くしてくれた音無さんに対して申し訳ない気持ちになる。何て言ったら良いか分からず、口をぱくぱくさせて沈黙していると、音無さんは俺を見て、にっこりと笑った。
「うん! 大切な部活だもん、ゆっくり考えてね」
なんて良い子だろう。俺は思った。今のは俺のことを心から思いやってくれている発言だ。本当は、一緒に入って欲しいはずなのに。
ますます申し訳なくなって、俺は閉口した。こうなるんだったら、下手に音無さんに関わるべきではなかった。
「変な期待させてごめんね」
心の底から謝罪をする。すると、音無さんは俺の右手を、彼女の両手で包み込むようにして握った。突然の体温と人の手のひらの感触に、俺の身体は驚き戸惑う。俺の目をまっすぐに見つめて、音無さんは優しく微笑んだ。
「ううん。野球部じゃなくても、私と葛西ちゃんは友達だよ。これからもよろしくね!」
天使だ。掛け値無しの表現で、彼女はそう見えた。俺は何度も頷きながら、「ありがとう、ありがとう」と涙目になって繰り返した。
「ねぇ、陽菜乃って呼んで良い?」
「もちろん! じゃあ、お、私は優衣って呼ぶね」
俺は大きく頷く。ファーストネームで呼ぶ異性なんて小学生以来だから緊張する。
校門まで到着して、俺と優衣は帰る方向が逆だということになり、そこで解散した。もうすっかり日の沈んだ薄暗い空の下で、俺は来た道を辿るようにして葛西さんの家に帰り着いた。
外から見れば、葛西さんの家はずいぶんボロボロなアパートである。その分家賃は安そうで、葛西さんの家は少し貧乏なのかもしれないと思った。
二階の、葛西という表札の部屋の前にたどり着く。自分じゃない人の家に帰るなんて、何か変な感じだ。そう思うと同時に、俺は重大な失態を犯していることを思い出した。
「鍵掛けてなくね……?」
呟き、絶望する。今朝、俺は間違いなく鍵を掛けずに学校に行った。もし、これで空き巣にでも入られていたら、葛西さんと葛西さんの家族に顔向けできない。
そうっと玄関を開け、中に入る。そそくさと靴を脱いで、家の中を探索した。寝室、リビング、お風呂場やトイレまで。じっくり見回して、荒らされた形跡のないことを確認し、俺はほっと息をついた。自分の悪運の強さと日本の治安の良さに感謝する。本当に良かった。
どうやら、まだ葛西陽菜乃さんの家族は帰ってきていないようだった。先に帰られていたら、鍵を閉めずに家を出たことがバレるから俺が一番で良かった。
問題のないことがわかり、俺は洗面所に向かった。運動をして、どうしても汗をかいている。グラウンドに立っていたから、顔に多少の砂埃もついている。これらを流さなくては不衛生だし、何より気持ちが悪い。
ただ、シャワーを浴びるには重大な問題がつきまとう。シャワーを浴びると言うことは、すなわち、全裸になるというわけで、すると、どうしても見えてしまうのだ。全部が。
洗面台の前に立って、俺はたっぷり数分間、頭を悩ませた。不衛生と不道徳の間に立って考えるが、これは甲乙つけがたい問題だ。この汗まみれのまま寝てしまうなんて嫌だし、第一、俺がいつ俺の身体に戻れるかなんてわからないのだ。その間ずっとお風呂に入らないなんて、それこそ葛西さんに申し訳が立たない。
悩みに悩み抜いた結果、俺はうっすら目を開けてシャワーを浴びるという方法をとることにした。最低限の視界で浴室の情報を取得しつつ、シャワーを浴びよう。完全に目を閉じるのは、入り慣れた家の風呂場でもない限り無理だ。
その前に下着と部屋着を手に入れなくては。俺は思い立って、葛西陽菜乃さんの部屋に入った。タンスを漁って、下着と部屋着を探す。上から二段目の引き出しを開けると、パンツとブラジャーが綺麗に並べられて入っていた。生々しい光景に、俺は息を呑む。なんてことはない、ただの布のはずなのに、なぜ心を揺さぶられるのか。不思議で仕方ない。
思い切ってパンツとブラジャーを手に取り、まるで高価な宝石を持つように、両方の手のひらで包み込むようにしてお風呂場に運んだ。わかりやすい場所に置いて、次に、タンスから部屋着を持ってくる。これもわかりやすい場所に置いて、さて、準備完了だ。
俺は目を瞑り、意を決して、制服を脱いだ。ブレザーとスカートを何となく畳んで床に置いておく。ワイシャツ、肌着、そして、パンツとブラジャー。全部脱ぎ捨てて、一糸纏わぬ姿になった。空気が肌に直接触れて、スースーする。
いよいよここからだ。俺は真っ直ぐ前を向いて、薄く目を開けた。前を向いていれば、案外、自分の身体は見えない。最低限の視界を確保しながら進み、浴室のドアを開ける。
「うわ!?」
ドアを開けて目の前に鏡があった。自然、葛西さんの裸が目に入る。少しくらいは仕方がない。シャワーの水を出すまでの辛抱だ。俺は前に進んだ。前に進むと、余計に肌がはっきり見える。男の俺は嬉しいが、紳士の俺は苦しんだ。
「あれ……?」
ふと、俺は葛西さんの肌に、何か不自然なものを発見した。腹部の辺りである。ごめん、と葛西さんの身体に謝って、直接、腹部を見た。見て、俺は顔を歪めた。
腹部に何箇所かの痣。それから、丸い、小さい円の火傷痕が二つある。火傷痕は見るからに、タバコを押し付けられたことによる火傷だ。
「なんだよ、これ……」
俺は唖然とした。これらは明らかに自然にできたものじゃない。人為的なものだ。誰かが葛西さんの腹に痣や火傷痕を作ったのだ。生々しいそれに、俺は大いにショックを受けた。葛西さんの胸だとか、素肌だとか諸々に目が行かなくなるほど。
シャワーを流しながら、俺は痣と火傷痕の真相について懸命に考えた。一体、誰がこんな酷いことをしたのだろうか。真っ先に考えられるのは、虐待といじめだが、犯人の目星はつかない。もし仮に日常的に行われているのだとしたら、俺が葛西さんの身体に入っている間に接触してくるかもしれない。そうしたら、俺はどうするべきか。解決に導けるなら、解決に導くのが良いか。それとも、葛西さん自身の問題だと保留すべきか。いや、こんなひどい仕打ちは放っておけない。俺がこの子を守るんだ。
そう思い立つと、俺が葛西さんの身体に入った理由がわかったような気がした。きっと俺は、この子に呼ばれたのだ。こんなひどい暴力に悩まされる彼女の心の叫びが、距離を超え時空を超え、俺の心をこの身体に呼んだのだ。なぜ、俺が選ばれたのかはわからない。けれど、これも運命だ。俺は自分にできる精一杯を尽くそう。
シャワーを止める。鏡が水蒸気で曇って自分の姿が見えなくなっていた。浴室から出て、俺は急いで下着をつけ、部屋着を身に纏った。ブラジャーは慣れないから、少しズレてしまったが、もともと葛西さんは胸の慎ましい方なので、特に問題はないだろうと思った。
「ただいまー」
ドライヤーで髪を乾かしていると、葛西さんのお母さんが帰ってきた。「早く帰れたわ」とくたびれた顔で笑っている。
「学校、どうだった?」
葛西さんのお母さんが俺を見るや否やそう訊いてくる。その目はとても心配そうに俺を捉えていた。
「楽しかったよ」
俺は即答する。すると、葛西さんのお母さんは、洗面所の床に置かれた俺の制服を拾い上げて、
「今、帰ったの? 遅かったね?」と首を傾げた。
「うん、ちょっと友達と遊んでて」
「へぇ、友達! どんな子?」
妙に食いつきが強い。それに、驚いているようにも見えた。葛西さんのお母さんは間違いなく、俺より葛西陽菜乃さんについて知っているんだ。葛西陽菜乃さんの傷の犯人について、真実を知っているかもしれないし、実行犯だという可能性も捨てきれはしない。雰囲気的に、そういうことはしなさそうな人だが。
「とても良い子だよ。……私に友達できるのって珍しい?」
「え、え? そうだね……でも、友達は数じゃないからね、陽菜乃」
葛西さんは友達が少ない。一つ、情報を入手した。俺はこの調子でさらに葛西さんについて知ろうと思い、さらに質問を重ねる。
「お父さんと私って、仲良いよね?」
訊いた瞬間、葛西さんのお母さんは絶句した。俺を何か恐ろしいものでも見るかような顔で見てくる。俺は異常を感知して、
「じょ、冗談! 冗談!」
と取り繕うが、葛西さんのお母さんの顔は晴れない。
「笑えない冗談はやめて」
吐き捨てるように言って、リビングの方へ歩いて行ってしまった。笑えない冗談? どういう意味だ? 俺はしばらく考える。ふと、洗面台の歯ブラシが目に留まった。三本の歯ブラシが並んでいる。一本は俺が今朝、新しく引っ張り出したものだ。もう一本は元々葛西陽菜乃さんが使っていたものだろう。最後の一本は? それはもちろん、葛西さんのお母さんのものだろう。
葛西さんに虐待があるか調べようという質問だったのだが、結果的に、俺はどうやら葛西さんのお母さんの傷をえぐるような質問をしてしまったらしい。詳細はわからないが、今、この家に葛西さんのお父さんはいないのだ。ただし、葛西さんのお母さんの反応からすると、単身赴任だとか、そういう平和的な理由ではなさそうだ。俺はリビングに早足で向かった。
「ごめんなさい、お母さん」
葛西さんのお母さんを見つけて、俺は頭を下げた。
「あはは、良いんだよ。さ、ご飯にするから座って」
葛西さんのお母さんは笑って済ましてくれる。俺は申し訳なく思いながらもテーブルに座った。
こんな優しい人が虐待をするとは考えられない。そして、家庭にお父さんはいないとくれば、葛西さんが虐待を受けているという可能性は消えた。そうなると、あとはクラス内のいじめか。
美味しいご飯を頂き、俺は掃除や洗濯などの家事を手伝った。洗濯物の畳み方がいつもより下手だと言われたから、どうやら葛西さん本人は家事が得意らしかった。一通りの手伝いが終わり、部屋に戻ると、身体に疲れがやってきた。時刻は午後九時を回ったところだ。健康的である。本来なら、ここから軽いトレーニングをするところだが、人の身体だし、疲れが残らないように寝てしまおう。
ベッドに入る前に、俺にはやっておきたいことがあった。スマホを出して、電話帳から音無優衣という項目をタップする。夜中、女子に電話をかけるなんて人生初の試みだ。ちょっと緊張しつつ、発信をした。
プルルルル、プルルルル。二回目のコールで優衣が電話口に出る。
『はーい! もしもし!』
無駄にハイテンションな声が返ってきて、俺は思わず笑った。
「もしもし。今、大丈夫?」
『うん。大丈夫だよー』
今の俺の頭には、葛西さんを救いたいという気持ちがいっぱいだ。とりあえず、いじめが最も疑わしいと分かった以上は、目を向けるべきはクラスメイトだろう。優衣を疑っているわけではないが、優衣はクラスメイトであり、何らかの情報をもっている可能性がある。
「あの、訊きたいことがあるんだけど」
『うん?』
「私のことを嫌ってるクラスメイトっているかな?」
我ながら直球な質問だ。それでも、「私のこといじめている人っているかな」と訊くよりは随分マシだろう。
『そんな人いないと思うけど……だって、クラスは始まったばかりだし、陽菜乃はずっと休んでたでしょ?』
優衣はすぐにそう答えた。言われてみれば、確かにその通りだ。そんなに短い期間でいじめのターゲットになるとは考えにくい。————いや、短い期間であるからこそ、犯人は絞られるのではないか? その短い期間で葛西陽菜乃と接触している人間が犯人の候補だ。
「じゃ、じゃあ! 私が学校にいるときに、私と話していた人は誰?」
どういう質問だよ。言っていて、自分で突っ込みたくなる。しかしながら、なり振り構ってはいられない。とにかく犯人の目星はつけておきたい。そして、明日そいつを懲らしめて、葛西さんを救い出す。
『それは……私かな』
変な質問でも、優衣は真面目なトーンで答えてくれる。真面目に答えてくれただけに、俺は困った。葛西さんが隣に座っていた優衣としか喋っていないのなら、犯人は優衣ということになる。それはないだろうから、犯人はクラスメイトでないのか。他クラスの人間なのか。そもそも、いじめという前提が間違っているのか。
『陽菜乃? どうしたの、何かあった?』
押し黙る俺を心配してくれる優衣。俺はこれ以上優衣に心配をかけないように、この話をここで打ち切ってしまうことに決めた。
「ううん、何でもない! 色々教えてくれてありがとう!」
『……何か隠してる』
俺が電話を終わらせようとするが、しかし、優衣が鋭い声音でそれを制す。
「え?」
『何か心配ごとがあるなら、隠さないで言って欲しいな』
優衣が優しい口調になって言う。俺は告白してしまおうか悩んだ。葛西さんを救うということを一番優先するならば、優衣に葛西さんがいじめられているという事実を伝えることは非常に有効だ。優衣を仲間につけ、いざというときに助けてもらえるならば、それは心強い。ただ、優衣をトラブルに巻き込むというリスクも伴う。まだ犯人がどんな奴かも分かっていないのだ。
「何でもないから」
俺は答えた。優衣は良い子だ。こんな人間のドロドロしたものに巻き込むわけにいかないだろう。
『そう? それならいいんだ。明日また、学校でね』
「うん、また明日」
『あ、待って! 明日さ、朝早くに学校行ってグラウンドでもう一打席だけ勝負してくれない?』
「いいよ、何時くらい?」
『明日、七時に学校で!』
「おっけー」
約束をして、電話が切れた。どうやら俺に負けたのが相当に悔しかったと見える。俺はにやにや笑いながらベッドに横たわった。
結局、優衣からは何も情報を得られなかった。仕方ない、明日学校で犯人探しをするしかないか。もしかしたら、犯人の方から接触してくるかもしれない。なんにせよ、俺はそいつを絶対に許さない。
優衣との約束もあるし、疲れたし、早く寝てしまおう。俺は電気を消し、ゆっくりと目を閉じた。意識がだんだんと沈んでいった。