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三打席勝負!

 キャッチボールが終わって、俺たち二人はグラウンドの土に座り込んで休憩を取ることにした。


「先輩たち来ないねー」


 スポーツドリンクを一口して、音無さんが言った。今日は暑い。キャッチボールをするだけでも汗が吹き出て来る。


「葛西ちゃん、水筒は持って来てないの?」


「あ、うん。忘れちゃったよ」


 元より野球ができるとは思ってなかったし、何より、勝手に金を使って物を買うのは如何なものかと思う。


「じゃあ、私のあげるよ!」


 飲みかけのペットボトルを俺に差し出しながら、音無さんが言った。え、と声を上げて、俺は動揺せざるを得ない。これを飲んだら間接キスになる。慌てて首を横に振る。


「だ、大丈夫だよ!」


「だめ! ちゃんと水分摂らなきゃ」


 音無さんが俺の右腕を掴み無理矢理にペットボトルを握らせる。さぁ、ぐいっと飲んで、と言わんばかりの目を向けられ、俺は言葉に詰まった。これは音無さんの厚意だ。無為にするわけにはいかないし、たしかに水分補給は大切だ。しかも、今の俺は葛西陽菜乃さんなのだから、間接キスくらい普通だ。俺が男友達の水筒を貰うのと何ら変わらない。


「じゃあ……ありがとう」


 覚悟を決めて、俺はペットボトルをごくり、ごくりと、二口ほど飲んだ。口を離すと、きらりと、ペットボトルの口が日光に反射して輝いている。俺の心の奥底から、ふつふつと、不純な感情が沸騰し始めるのが分かった。端的に言えばぺろぺろしたいという感情である。


「美味しい?」


 屈託無く笑う音無さんの純粋な笑顔を見て、俺は罪悪感から涙を流した。


「な、なんで泣いてるの!?」


「ごめん、ごめん……」


 純粋な厚意に対して、不純な感情で胸を膨らませてしまうとは。俺は人間失格だ。どこかの海に身を投げてしまいたい気分だ。いや、この身体は葛西陽菜乃さんのものだからダメだ。


「よ、よくわからないけど、何か辛いことがあるんなら、私にすぐに相談してね」


 俺の肩をぽんと叩き、音無さんが励ましてくれる。やめてくれ……。音無さんが良い子であればあるほど、俺への精神的ダメージが大きい。


「さて、先輩たち来ないし、どうしたもんかね」


 音無さんがぴょんと立ち上がりながら言う。たしかに、あまりにも来るのが遅すぎる。二、三年生だけで全体集会でも行われているのだろうか。まぁ、このまま音無さんと二人きりというのも、それはそれで俺にとっては嬉しいことなのだけれど。


 空を仰いで雲の流れを追って見た。風が吹き、汗が乾く。心地が良い。そういえば、高校三年間を振り返ると、地獄みたいな練習の合間に、スポーツドリンクを飲みながら見上げる空はいつだって綺麗で、風はいつも気持ち良かった。


「ねぇ、葛西ちゃん。勝負しない?」


 空を見上げる俺の視界に音無さんの笑顔が飛び込んで来る。


「勝負?」


「そう、私がピッチャーで、葛西ちゃんがバッターの三打席勝負」


「ふーん」


 面白い。ちょうどバットを振りたかったところだ。俺は立ち上がって、


「何か賭ける?」


 と笑ってみせた。


「へぇ、自信ありそうだね? じゃあバーゲンダッツのアイスはどう?」


 バーゲンダッツと言えば高級アイスクリームだ。ちょうど暑いし、帰りに買い食いしたら最高だろうな。しかも人の金だから美味しさも倍増だ。


「よーし乗った!」


 親指を立てて俺が意気込むと、音無さんは首を傾げた。


「あれ、葛西ちゃんバッティングはしたことあるの?」


 指摘されて、俺は固まる。たしかに、言われてみれば、その疑問は当然だ。葛西陽菜乃さんは兄とキャッチボールをしてきたから、キャッチボールが得意という設定でやってきたが、それに加えて、「実はバッティングも教わっていました。だから音無さんの速球も打ち返せます」というのは、あまりにも無理がある。それなら何で野球をやっていなかったのだ、という話になる。


 俺は数秒で頭をフル回転させて、口を開く。


「ええと、バッティングは、バッティングセンターで少しやったくらいかな」


 こう答えるのが最適解だろう。すると音無さんはにやりと笑って、


「それくらいじゃあ、私の球は打てないと思うなぁ」


 と言う。たしかに、音無さんの球はちょっとバッティングセンターに通ったくらいで打てるような代物ではない。


「や、やっぱアイスじゃなくて、ジュースにしない?」


 このままじゃ俺が確定でアイスを奢る羽目になる。俺は急に弱気になって音無さんに懇願した。あはは、と音無さんが愉快そうに笑う。


「じゃあさ、前に転がったら葛西ちゃんの勝ちでいいよ!」


「ま、まじ!?」


 それは破格の条件だ。普通はヒットを打ったらバッターの勝ちという条件で行われるものだが、前に転んだら勝ちという条件になるのなら、素人の葛西陽菜乃さんが勝っても不自然だとはならない。偶然を装ってバットに当ててしまえば俺の勝ちだ。


「じゃあアイスね!」


「あはは! いいよ? バットに当てさせないから」


 音無さんが自信満々に頷く。ボールを持って、マウンドへ向かって行った。


「バットはそれを使って良いよ」


 音無さんの指差す方を見ると、音無さんのグローブケースの近くにバットケースが置いてある。俺はありがたくそれを使わせて貰うことにした。バットケースからバットを取り出すと、黄色の金属バットが出てきた。重さは800グラムと言ったところか。高校男子が使うものと比べたら少し軽いが、女子と男子の筋力の差を考えれば妥当だ。現に、葛西陽菜乃さんの身体で持つと、このバットはとても重く感じる。


 ブン、と一度振ってみる。やはり葛西さんと俺との筋肉の差からスイングのスピードは落ちるらしい。これだけスピードが落ちると、やはりスイングのエネルギーも低下するし、速い球にもついていけなくなる。が、俺にはそれを補うための技術がある。何度か振って、スイングを身体に馴染ませてから、俺は音無さんの待つ決戦の舞台に足を向けた。


 音無さんはマウンドに、俺はバッターボックスに、両者並び立つ。ピッチャーマウンドからバッターボックスまでの距離は約18mだ。この短い距離の中で、ピッチャーは渾身の球を投げ、バッターは最高のスイングで迎え撃つ。そういう闘いが起きる。


「葛西ちゃん、左バッターなんだ?」


 左打席に立つ俺を見て、音無さんが目を丸くする。野球には人間の日常に右利き、左利きがあるのと同じように、右投げ、左投げ、右打ち、左打ちがある。やはり左は珍しく、右に比べて有利な点も多く存在する。特に、左打ちは非常に重宝され、わざわざ右打ちを左打ちに矯正する人間もいるほどだ。何を隠そう、俺も矯正した左打ちだ。


「そうだよ、びっくりした?」


「うん。でも、ますます燃えてきたよ!」


「……本気で来てよ」


 俺が言うと、音無さんは「もちろん!」と不敵な笑みを浮かべた。マウンドに立った音無さんの笑みは日常で見せるそれとは違う。目元は笑っているが、その実、口元の歯は今にも俺に噛み付いて来そうな、そんな顔をしている。


 彼女は立派なマウンドの闘士だ。俺はそう感じた。じりじりと、俺の神経を焼き付けて来るような威圧感は俺の高校時代に対戦して来たエースたちのそれと相違ない。俺はバットを静かに構え、音無さんの動きを待った。音無さんは俺の構えたのを確認すると、ゆったりとした動きで、グローブを高々と掲げて振りかぶった。


 一球目。音無さんが腕を振り下ろし、球が発射される。ど真ん中に、勢いのあるストレート。俺は見逃した。バシン、と俺の後方でボールが防球のクッションに激しく衝突する音がした。


 キャッチャーの目線から見るのと、バッターの目線から見るのでは全然違う。バッターの目線から見ると、ますますボールの迫力を感じた。この球を投げるために果たしてどれだけの才能と努力が必要だったろう。一人の野球人として、彼女は強く尊敬できる。


「ストライク! で良いよね?」


 音無さんが訊くので、俺は頷いた。


 バッターにはストライクゾーンというものがある。大雑把に言ってしまえば、ストライクゾーンは長方形になっていて、高さはバッターの肩と腰(厳密にはユニホームのズボンの上部の高さ)の中間に引かれた水平線の高さを上限とし、膝の高さを下限としている。横はホームベースの幅(約43㎝)がその範囲にそのまま適用される。今の音無さんの球は、その長方形のちょうど真ん中を通ったので、誰も文句の言わないレベルのストライクだ。


 球は一球しかないので、俺は後ろに転がっているボールを拾って、音無さんに投げ返した。これでワンストライク。ストライクが三つで三振となり、基本的にバッターはその時点でアウトになってしまう。また、ストライクゾーンから外れたものをボールと言う(球を英語で言った時のボールと同じ字を書くので紛らわしいが)。ボールが四回判定されるとフォアボールとなり、バッターは一塁へ行くことができる。一塁に行ったバッターはランナーと呼ばれ、このランナーが一塁から二塁、三塁と順番に回り、最後にホームベース(バッターのいるところ)を踏めば、そのチームに一点が入る。これが野球おける得点の絶対条件だ。まぁ、この音無さんとの勝負に関して言えば、まったく関係ないのだけれど。


「それじゃあ、どんどん行くからね!」


 大声でそう言って、音無さんの投じる二球目。またも、力のあるストレートがストライクゾーンのど真ん中を通過する。俺はそれを見逃し、これでツーストライクとなった。


「まじで速いね、これは打てそうにないなぁ」


「ふふふ、でも振らなきゃ当たらないよ? 前に転がせば葛西ちゃんの勝ちだからね!」


 俺の弱気な発言に対して、音無さんは励ますようにそう言った。


 三球目。同じくストレート。しかし、コースはストライクゾーンから外れて少し低い。俺はそれをへなちょこなスイングでわざと空振った。たとえボール自体がストライクゾーンの外だったとしても、バッターがスイングすれば、それはボールではなくてストライクと判定される。だから、バッターはピッチャーの投げた球がストライクかボールかを一瞬(ピッチャーが投げた球がバッターに届くまで一秒未満のわずかな時間しかない)で判断して、ストライクを振り、ボールは見逃すという、いかに正しい対応ができるかというのがポイントとなる。


「ストライク! バッターアウト!」


 音無さんがガッツポーズをする。今のでスリーストライク、三振だ。これで一人目の俺は死に(アウトになり)、一打席目は終了した。


「じゃあ、二打席目、いくよ! 次は打つ!」


 俺はさもやる気にみなぎっているような気合いを入れるが、その頭の中では、何打席目の何球目でバットに当てようかと考えていた。いくら音無さんの球が速くても「前に転がれば勝ち」というルールでやる以上、音無さんに勝機はない。120㎞そこそこの球を前に飛ばすくらい、俺には造作もないことだ。「まぐれで当たっちゃった!」という風で勝負に勝ち、葛西陽菜乃さんの野球ができる設定を盛りすぎることなく、アイスクリームもゲットだ。


 二打席目の一球目。ストレートが少し外(野球では、バッターに近い側を中や内と言い、バッターから離れた側を外と言うことがある)に外れる。このまま見逃せばボールだが、俺はまた、わざとそれを空振りストライクにした。


「ナイススイング!」


 俺のへなちょこスイングを音無さんは褒めてくれた。さらに、マウンドから小走りでこちらに走って来て、俺の後ろに転がるボールを自分で拾ってくれる。


「もうちょっと、ほら、こういう風にバットを上から振るイメージで振ると良いよ」


 その上、身振り手振りを使って俺に簡単なレクチャーをしてくれた。その顔は紅潮し、少し息が荒い。たとえ数球でも、投手が全力でボールを投げれば呼吸が乱れるのは当然だ。それだけ音無さんが俺に向かってフルパワーで相手をしてくれることの証明でもある。


 一方の俺は? 俺は全力を出さずに、実力を隠しながら、あつかましくも勝負にだけは勝とうとしている。たしかに、葛西陽菜乃さんの身体を借りている身であるから、あまり活躍してしまうと、もし葛西さんがこの身体に戻って来た時、誤解が生じてしまうという理由はある。しかし、それが音無さんの全力投球に応じない十分たる理由になりうるだろうか。いや、ならない。なんて失礼なプレーをしていたのだろう、俺は。


 二球目。ストレートが真ん中付近に来る。それを見逃し、ストライクとなる。転々と後ろに転がるボールを音無さんに投げ返し、俺は覚悟を決めた。


「音無さん……次で打つよ」


 バットの先を音無さんに向けて、堂々と宣言をする。野球人と野球人の真剣勝負に男も女も年齢も、俺の身体が他人のものだとかいう諸々の事情も一切関係ない。そこにあるのは、魂と魂のぶつかり合いだ。


「へぇ……」


 俺の雰囲気の変化を感じ取ったのか、音無さんの眼光が鋭く光る。打たせない、空振りを奪ってやる、そういう意思がひしひしと伝わって来る。血が沸き立つような緊張感が俺の身体中を巡った。やっぱ勝負はこうじゃなくちゃ。


 息を小さく吸い込んで、俺はバットを構えた。たしかに音無さんの球は驚異的だ。打席で何球か見て、余計に実感できた。でも、俺なら打てる。一振りで粉砕してやる。


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[一言] 面白い!!!!! 主人公含め女の子がかわいい。 野球ファンとしても最高です。 主人公のクラスでの立ち位置とか、主人公くんが入る(?)前の主人公ちゃんに何があったのかとかもとても気になります。…
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