天才野球少女
「はやく、はやくグラウンド行こ!」
音無さんがはしゃぐ。俺もそれに呼応するようにテンションが高まっていた。やっと野球ができるのか、という喜びで全身の筋肉が震えているようだった。
「あ。グラウンドに行く前に、部室で着替えよ!」
「ぶ、部室? 一年生が勝手に入れるの?」
俺が戸惑いながら訊くと、音無さんは得意げな顔で小さな鍵を取り出して見せてくれる。
「ふふふ、実は野球部のキャプテンと知り合いでね。合鍵をもらってるんだ!」
「す、すごい!」
「よぅし、部室に一番乗りしよう!」
走り出す音無さんについて行く。廊下を小走りする音無さんの後ろ姿は心底楽しそうで、本当に野球が好きなのだとわかった。
星の丘高校の敷地はかなり大きいらしく、校舎から外に出ると壮大なグラウンドが広がっていた。グラウンドは二面に大別されており、片方は人工芝のグラウンドで両端にサッカーゴールと、周りには陸上用のトラックがある。もう片方は土のグラウンドで、ベースとマウンド(投手が投球をするための立ち位置。小さな盛り土となっている)が設置された球場となっている。
「すっげー!」
俺は思わず叫んだ。こんなに豪勢なグランウドは珍しい。俺の高校のグラウンドなんか小さすぎて外野練習も満足にできなかったのに。
「すごいよね! 今日からこんなに広いグラウンドで練習できるなんて最高だよ! あ、部室棟はあれだよ!」
音無さんの指差す方を見ると、校舎よりも小規模の建築物があった。多数の小部屋がつくられた、いかにも部室用の建物といった感じだ。
部室棟の階段を上る。ずらりと並ぶ各部屋の表札を見ていると、バスケットボール部、サッカー部、天文部やインターアクト部なんてものもあり、部活の盛んさが伺えた。
「やった! 一番乗りだよ!」
野球部の部室の前に到着し、ドアノブをカチャカチャと鳴らして鍵の掛かっているのを確認すると、音無さんはこちらに振り返ってそう言った。かちゃり、と合鍵を回すと、音無さんは嬉々としてドアを開け放つ。
目に飛び込んで来たのは俺の高校の野球部部室とは比べものにならないくらい小綺麗な室内だった。普通の野球部部室は物置と化すものだと思っていたが、この部屋には野球道具はあまり見られず、代わりに青色のソファーが白色の大きな四角テーブルを囲むという、ある種のくつろぎ空間となっていた。床にはカラフルなスポンジマットが敷かれ、奥にはテレビまである。これは高校生の部室としていかがなものなのだろうか、とさえ思った。
「ずいぶん綺麗な部室だね」
言うと、音無さんも「ね!」と同意してくれた。どうやらマット部分は土足禁止らしく、俺たちは靴を脱いで、用意されていた下駄箱に入れた。
「あれ、葛西ちゃん、着替えどうするの?」
音無さんがカバンから野球用のユニホームを出しながら俺に訊いてくる。そういえば、俺は着替えを持っていない。制服で野球をするわけにはいかないし、どうしよう。
「何も持ってないよ、どうしよう……」
「うーん……あ、私、体操服持ってるよ! 貸してあげる」
「え、ほんと! 何から何までありがとう!」
カバンから取り出した半袖半ズボンの体操服を渡してもらいながら俺はお礼を言った。すると、貸してもらった体操服を見て、俺の脳に電撃が走った。
「こ、これって音無さんの体操服だよね? 実際に着てるやつ?」
「そーだよ? 当たり前じゃん」
あははと、俺の問いに対して音無さんが笑う。
「そうだよね……」
現役女子高生の体操服を? 俺が着るのか? 素肌で。これって相当な変態行為に値するのではなかろうか。そう思うと急に体操服がキラキラ輝いているように見え始める。いや、ダメだ。こんな不純な気持ちでこんな良い子の体操服を着るわけにはいかない。
「やっぱ返すよ!」
「え!? なんで!?」
音無さんは目を丸くして驚いた。あなたの体操服を着ると性的な興奮を感じてしまい、それは失礼だと思うのでお返しします。とは言えない。何て理由をつけようか、悩んでいると音無さんが不安そうな顔になる。
「もしかして……臭かった?」
「い、いや、そういうわけじゃ……」
俺は否定したが、音無さんの顔色は曇ったままだ。確かに、一度借りておいて返すのは、それもまた失礼だし不自然だ。
「ええと、やっぱ着る! ありがとう!」
音無さんに渡そうと差し出していた体操服を引き戻しながら、俺は言う。嘘だとしても、臭いですとは言えない。すると、音無さんは笑顔になって、よかった、と胸を撫で下ろした。俺も、ほっと胸を撫で下ろした。
そもそもに、体操服を借りるくらいでそういう風に想起してしまう俺の邪悪さが問題だ。俺は毅然とした態度で着替えることにし、しかしながら、音無さんが妙にこちらを凝視しているので、
「あの、見られてると着替えにくいんだけど……」
と指摘した。するとすぐに、
「あ、あ! ごめんね!」
慌てた様子で音無さんは俺に背中を向ける。その隙に、俺は自分も葛西陽菜乃さんの肌を見ないように目を瞑って、制服から体操服に着替えた。音無さんの方が身体が大きいこともあって、少しぶかぶかだが、着られないことはない。
俺が着替えると、音無さんも制服を脱ぎ始めたので、俺は慌てて彼女に背を向けて、彼女の着替えている間は部室の中を散策することにした。
ふと、テーブルの上に『女子硬式野球特集』と銘打たれた雑誌が置いてあった。手に取り、ページをめくって見ると、興味深いページを発見した。『次世代を担う中学女子選手たち』という記事だ。なるほど、今年高校一年生になる新人選手の中で注目株を取り上げているのだろう。俺はシニア(中学硬式野球チームのことを指す)時代は全く芽が出てなかったから、こういった記事に載ったことはない。羨ましい。
「ん?」
記事を読んでいて、俺は驚いた。なんと、音無優衣という名前が記事内に登場したのである。びっくりして、思わず音無さんの方を見ると、音無さんはちょうどスカートを下ろすというところで、これまたびっくり。
「うわぁ!?」
半ば悲鳴のように叫んで、記事に目を戻す。一瞬、水色の薄い布が見えてしまった気がするが、頭を振り回して記憶情報から消した。気を取り直して、パンツ……じゃなくて記事を読み進めると、記事にはこう書いてある。
『投手で注目すべきは音無優衣だ。中学女子にして最速127kmを記録する天才が今後どのように活躍するのか。さらに彼女は野手としても優秀で、遊撃手の守備には男子にも負けないものがある。もちろん打撃も超一級品。名門中央シニアで男子を押しのけて3番バッターを任されていたことがその証明である』
丁寧に写真もプリントされていて、見ると、まさしく、今、そこで着替えている音無さんが豪快なフォームでピッチングをしている写真が大きく載っていた。中学女子で球速127kmは凄まじいを通り越して超次元だ。どうやら音無さんが今朝見せた野球に対する自信は本物らしい。
「何読んでるの?」
不意に、音無さんが俺の肩口から顔を覗かせて雑誌を見下ろす。俺はぎょっとしつつも、音無さんがすっかりユニホームに着替えていたことを確認して、安堵した。
「見て見て! 音無さん載ってるんだよ」
雑誌の記事を指差しながら言うと、音無さんは得意げな顔になる。
「ふふん、そうなの! 載せてもらったんだ。すごいでしょ!」
「うん! すごいよ! 天才だってよ!」
「い、いや……そこまでじゃないよ……照れるな」
俺が興奮気味に詰め寄ると、音無さんは少し顔を赤くしてはにかんだ。可愛らしいその表情に俺が一瞬息を忘れたのは秘密にしておこう。
しばらく待っても先輩たちが来なかったので、俺たちは先にグラウンドに向かうことした。
「どう? 体操服、サイズ大丈夫?」
グラウンドに行く途中、音無さんは俺の服を上から下まで見回して、心配そうにそう言った。
「大丈夫だよ、ありがとうね」
答えつつ、音無さんのユニホーム姿を見て、俺は感心した。大きなお尻に太い太もも。これは野球人にとってのステータスだ。相当に鍛えてあることが伺える。男相手なら、「良い下半身してるな!」と称賛するところだが、さすがに自重した方が良いだろう。そこら辺の常識というか配慮は、さすがに俺でもできる。
「うわー! すごいグラウンド!」
グラウンドに一礼をして入ると、音無さんが興奮して声を上げた。両翼98メートル、中堅120メートルの土の球場はきちんと整備されていて、小高いマウンドが心をくすぐる。バックフェンスもベンチもきちんと設置されていて、この高校は野球やソフトボールが盛んなのだと思った。
「じゃ、早速アップして、キャッチボールしようか!」
音無さんは言いながら、まるで散歩に行く前の犬のようにはしゃいでいる。俺はそれが面白くて笑いながら、グラウンドをランニングし始める音無さんの後ろに付いて、ウォーミングアップを始めた。
さっきからずっと思っていたのだが、この身体になってから足の運びがずいぶん軽く感じる。体重が軽いからなのかもしれないが、それだけでは説明のつかないくらいに、身体が走ることへ適応している感じがする。
試しに、俺はランニングの最後で全力でダッシュをした。腕を思い切り振り、足の回転を加速させる。そして、俺は驚愕した。走り始めた瞬間、一気にトップスピードに乗った身体は風と一体化したように駆け抜けて行く。こんな感覚は、俺の身体の時には全然なかった。
「足、めっちゃ速いじゃん!」
俺に抜かれて、後からゴールに到着した音無さんが驚いたように言った。だが、一番驚いているのは俺自身だ。これが黄金の足というやつなのだろうか。
この葛西陽菜乃さんという女子は、一体どんな人なのだろう。顔も身体も小動物を思わせる頼りなさだが、足の速さからして運動神経は良さそうだ。彼女の魂は今、どこにあるのか。そして、俺が彼女の身体に入っている理由は何なのか。晴天を見上げながら、思いを馳せる。
「はい、これ使って!」
ウォーミングアップが終わったので、音無さんからグローブを借りて、それを左手にはめた。幸いにも、右利き用の、しかも俺のポジションである外野手用のグローブだった。手入れが行き届いていて状態もいい。彼女が道具を大切にする人なのだとすぐに分かるグローブだ。
「大丈夫かな、私が使って型が崩れたりしない?」
グローブには使用者それぞれの「型」と言われる形のクセのようなものがある。他人が使ってその形を壊してしまうのは問題だ。
「あ、大丈夫、大丈夫!」
しかし、音無さんは胸元で手を振りながらそう答えた。
「そう? なら良いけど」
「うん! じゃあ、早速キャッチボール始めー!」
グローブケースから硬式ボールを取り出して、音無さんが俺にボールを投げる。俺はそれをキャッチして、ボールを握った。硬い、革の球体をぎゅっと握りしめると、記憶で言えば昨日も握っていたはずなのに、なぜかひどく懐かしい感じがして、俺はしばらくの間、目を瞑り感慨に耽っていた。
音無さんがある程度の距離をとったのを確認してから、音無さんの胸元を目掛けてボールを投げ返す。また、音無さんからボールが返ってきて、それを受け取り、投げ返す。まずは軽く、肩が温まってきたら、段々と強めに投げる。これがキャッチボールだ。キャッチボールはただ単に捕って投げるだけの簡単な動作に見えるから軽視されがちだが、捕って投げるというのは野球において基本中の基本の動作であり、キャッチボールは決して怠ることのできない、一番の練習であると言える。キャッチボールをするときは、どれだけ相手のキャッチしやすい胸元にボールを投げることができるかという正確性、投げるボールの強さ、投げるときのフォームなどを意識すべきだ。更に言えば、ただ投げるだけでなく、野手(ピッチャーの後ろで守る人たち)であるならば、投げる時の腕の振りの角度も注意して、時には上投げで強く、時には横投げで軽く投げるなど、試合を想定した動作をするべきである。
とにもかくにも、キャッチボールには野球の大切な要素が詰まっていて、キャッチボールを見ればそのチームの強さがわかると言われるほどなのだ。
「葛西ちゃん、コントロールいいねー。全部胸に来るよ!」
音無さんに褒められて、俺は照れ笑いした。野球における大切さ云々は置いておいても、キャッチボールはただただ楽しい。しかも女子とキャッチボールなんて初めてだから新鮮だ。
近い距離で軽く投げ合って、しばらくしてから、音無さんが段々と距離を取り始めた。距離が離れるにつれて、投げるボールも当然強くなる。葛西陽菜乃さんの身体は俺のものじゃない。にもかかわらず、俺の心が覚えているのだろう、野球の動作が不自由なくできる。俺のフォームでボールが投げられる。さすがに筋力の違いから、ボールの力は俺の身体の時よりも劣るが、フォームが正しければ投げるボールの正確性は保証される。
「よーし、じゃあ、そろそろ強めに投げようかな。速すぎたら言ってね」
肩をぐるぐると大きく回して、音無さんはそう宣言する。速すぎると言ったが、確かに時速120㎞を超える球は普通の女子にとって驚異的な速さだろう。普段野球をやっている者からしても速いと感じるくらいだ。だが、俺は違う。俺は野球の強豪校で日々140㎞近い球を見て、打ち、捕ってきたのだ。120㎞くらいの球は集中すれば十分に捕球できる。
音無さんが勢いよく腕を振り下ろす。指先から放たれた球がぴゅーっと真っ直ぐ綺麗な軌道を描いて俺のグローブに収まった。瞬間、パァン、とグローブの革が歯切れの良い音を鳴らす。
良いフォームだ。素直にそう思った。音無さんにとって、今のは全力でないだろうが、それでもフォームの綺麗さは十分にわかった。やっぱり、彼女は相当のレベルに達した良いピッチャーらしい。
「ナイスボール!」
俺は最大の称賛を込めて叫ぶ。音無さんは少し驚いたような顔をしていた。
「キャッチするの上手いね、葛西ちゃん。本当に野球未経験?」
「あ……あー、ほら、お兄ちゃんと、よくキャッチボールしてたから」
「そういえばそうだったね!」
歯切れ悪く言う俺に対して、音無さんはにっこり笑って頷いた。どうやら人の言葉を疑うということを知らないらしい。あとで詐欺を仕掛けて見るのも良いかもしれない。
「じゃあさ……もっと速い球投げても大丈夫?」
挑戦気味の視線を向けて来る音無さん。なるほどね、俺の実力を測ろうってわけ。面白いじゃん。
「全力で来なよ」
こちらも挑戦的な目で笑い返すと、音無さんは楽しそうに笑った。「いくよ」小さく叫んで音無さんは大きく振りかぶる。
左脚を高々と上げる迫力のあるフォームで指先より放たれたボールはまるでミサイル。轟く回転の音。迫る剛球。パシィン! 絶好の球にグラブが鳴いた。
これが音無優衣の球か。ストレート(一般に、変化せず真っ直ぐに来る球種)の格を決めるのは速さだけではない。回転の量や回転の軸、球の重さなども重要なステータスと言える。その点で言っても、音無さんのストレートは高品質な素晴らしいものだ。
「最高のストレートだよ!」
俺の称賛の言葉に、音無さんは親指をグッと立てる。
「葛西ちゃんも、ナイスキャッチ!」
あぁ、楽しい。やっぱり野球は良いものだ。思いながら、音無さんにボールを投げ返す。白球が宙を舞い、二人の声がグラウンドに響いていた。
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