女子高生としての一日はあっけなく
「いやー、葛西ちゃん入学式の次の日からずっと休んじゃうんだから、めっちゃ寂しかったよー」
「あ、あー、ごめんね」
適当に相槌を打ちながら、俺は彼女のセリフより二つの情報を手にした。葛西陽菜乃は何と最近入学した高校一年生であるということと、長い間学校を欠席していたらしいことだ。欠席の理由も、彼女が知っているのならば聞き出したいが、それを俺から訊くのは不自然なことだ。
ふと、彼女の背負っている大きめのリュックサックの他に、肩から見慣れた黒色の巾着袋が掛けられているのを発見した。俺は思わず声を上ずらせる。
「ね、ねぇ! それって、グローブケースだよね?」
ショートカットの彼女は髪を小さく揺らして振り返り、グローブケースを右手で掲げながら何やら意外そうに微笑んだ。
「そうだよ! よく知ってるね? グローブケースなんて」
「え、野球やってんの!?」
俺は若干食い気味になって彼女に訊いた。彼女は俺の食いつき具合に少し身体を引きながら、目を丸くして頷いた。
「う、うん……やってるというか、今日から部活解禁日だから」
「まじか! 女子校に野球部があるのか!」
俺は興奮せざるを得なかった。まさかこんな姿になっても野球をやるチャンスがあるとは思ってもみなかったからだ。
「葛西ちゃん? なんか口調が変になってない? 大丈夫?」
「あ……、大丈夫、大丈夫だよ。ねぇ、それって私も入れる?」
男っぽい口調になってしまったのを取り直してから、しかし、なおも興奮を隠せずに、彼女に詰め寄る形で問う。
「え! 入ってくれるの! ほんと!?」
俺の言葉に、彼女は目を輝かせた。まるで俺の興奮が伝染したみたいに。
「うん! 野球好きなんだ、私」
「そうなんだ! 歓迎だよ! じゃあ放課後一緒に行こ!」
葛西陽菜乃さんに野球好きと言う性格を勝手に付け加えてしまったことに対して罪悪感を覚えつつ、それよりも放課後に野球ができるのを心底楽しみに思った。
「野球強かったりするの? この高校」
教室へ移動中、ワクワクしながらショートカットの背中に話しかけると、彼女は小首を傾げる。
「いやー、そんなに有名じゃないと思うな。大会も、最近は出てないみたいだし。でも、私が入ったからには関東リーグで優勝させてみせるよ」
「おっ、いいねぇ。自信満々じゃん」
「ふっふっふ。あとでキャッチボールしようか、葛西ちゃん」
彼女はにやりと笑って、手首をクイクイッと、あたかもボールを持っているかのような手の格好で動かした。どうやら、この子は野球に心得があるようだ。楽しみだ。女子プレーヤーのレベルがどんなものか気になる。
なんていう会話をしているうちに、どうやら俺たちの教室に辿り着いたようだった。1年G組。二階の、東棟の端に位置しているようだ。さすがに私立なだけあって広いから、彼女に会えて良かった。自分一人では迷っていただろう。
がらら、と案内人が教室のドアを開けてくれる。少し胸が高まる。全くの未知の世界に、自分じゃない自分で飛び込むのだから当然か。
教室の中は自分の高校と変わらない内装である。きっと、どこの高校も同じようなものなのだろう。しかし、生徒は男子校だった俺の高校と打って変わって、女子だけだ。なんて絶景なのだろう。心なしか、良い匂いもする。
「どうしたの、固まっちゃって」
野球少女がきょとんとした顔で、教室のドア付近で動きを停止した俺の顔を覗き込んでくる。さすがに中学校以来に教室に女子がいるのを見て感動しましたと告白するのは、色々な意味でまずいので、俺は何でもないよと曖昧に笑っておいた。
「あはは。久々の学校で緊張しちゃった? というか、なんで一週間近くも休んでたわけ?」
「あ、えっと、ちょっと風邪をこじらせちゃって……」
「そうなの? それは災難だったねー。……じゃあ、はい。これ飲みなよ」
と言って、彼女が差し出したのはビタミン入りのゼリー飲料である。これ飲んで、元気出しなよ、と彼女はにっこり笑った。なんて優しいのだろうか。好きになりそう。
「……あ、ありがとう」
「いーよ。さぁさ、席座って飲みなよ」
促されるが、俺は自分の席がどこにあるのか分からない。席の場所忘れちゃった、と言うのは怪しまれないだろうか。
「あ、あれ……席の場所ってどこだっけ……」
案ずるより産むが易し、と決心し、とぼけた声で言ってみる。すると、それを聞いた彼女は、あははと大きな声で笑った。
「熱で記憶も飛んじゃったの? 葛西ちゃんの席はこっちだよ、ほら」
記憶どころか人格が飛んでるんだよ、とは言えずに案内してくれる彼女の後に付いて行く。途中、何度か教室内の女子と目が合ったが、どれも知らない顔だ。きっと葛西陽菜乃が久しぶりに登校してきたから珍しく感じているのだろう。しかしながら、この子は何故学校を休んでいたのだろうか、いまだに判然としない。
案内されたのは黒板を向いて左側の、前から二列目の席である。ありがとうと述べてから座り、カバンを机の横に付随したフックにかける。すると、案内してくれた野球少女が横の席に座り、教科書やらを机の中に仕舞い始めた。あ、隣の席なんだ。と思わず声を出しそうになったが、直前でセーブした。
「いやー、しかし、葛西ちゃんが野球部入ってくれるとは! 嬉しいなぁ」
教科書やらを仕舞い終えると、彼女は、今度はカバンからメロンパンを一個取り出して、袋を開ける。その動作の最中に、俺は彼女の教科書に書いてある名前を盗み見た。————音無 優衣。確かに、そう書いてあった。
「音無さん?」
「うん? なぁに?」
確認のために名前を呼んでみると、音無さんは小首を傾けて返事をした。よかった、合っていた。
「私も、音無さんと野球するの楽しみだよー」
「ね! 葛西ちゃん、ポジションは?」
ポジションは……外野手なのだが、それは俺の話であり、葛西陽菜乃さんは野球未経験者だ。あまり嘘を重ねるのはよくないだろう。
「や、野球はやったことなくて……観るのは好きなんだけど」
「へぇ、そうなんだね。じゃあ、硬球でキャッチボールするのは危ないかな?」
「あ、あ! キャッチボールはお兄ちゃんとよくやってたから、硬式球で」
あまり嘘を重ねるのは良くないが、可愛い女の子とキャッチボールをするという野球男児の夢は諦められないので、お兄ちゃんがいるという設定を追加してしまった。誠に申し訳ない。
「なら平気だね。放課後、仮入部の時に一緒にやろうよ!」と、音無さんは親指を立てる。
「うん! あー、楽しみだぁ……あ、でもグローブとか、スパイクとか、持ってきてないや」
すっかり忘れていた。そもそも野球道具が葛西陽菜乃さんの家にあるとは思えない。これじゃあ流石に野球はできないか。素手でキャッチボールするわけにもいかないし。俺が肩を落とすと、音無さんは再び親指を立てた。
「それなら大丈夫。私、グローブ二つあるし、トレーニングシューズで良ければ貸すよ」
「マジ!? いいの!」
「いいの、いいの。一緒に仮入部したいじゃん?」
「ありがとう!」
まずいな、良い子過ぎて本当に好きになってきた。三年間女子と接してこなかった心に音無さんの優しさが沁みる。そんなチョロい男じゃあダメだ。と俺は顔を両の手のひらで叩いて正気を取り戻した。
「優衣。おはよう」
ふと、頭上から声がしたので顔を上げると、見知らぬ女子生徒二人が音無さんの机の前に笑顔で立っていた。二人のうち、背の高いすらりとした子がちらりと、こちらに目をやると、一瞬顔を顰めた……気がした。
「おはよー。今日も良い朝だねぇ」
音無さんがあっけらかんとした笑顔を彼女たちに向けながら、メロンパンを片手に持って、今にも食いつきたそうに目線を送っている。どうやら音無さんは食いしん坊らしい。そういえば、俺も朝から何も口にしていなかったのだった。急に腹が減った気がしたので、音無さんにもらったゼリー飲料を飲むことにした。この子たちは音無さんの友人みたいだし、話に加わる必要もあるまい。
「あ、そうだ。ほら、入学式から風邪でずっと休んでたんだけど、今日から隣の席の葛西ちゃんが復活したんだよ」
関係ないと思っていたら音無さんによって俺に話が振られた。俺はちょっと驚きながら、ゼリー飲料の蓋に掛けた手を止めて顔を上げる。
「ひ、久しぶりー。よろしくね」
音無さん一人ならなんとか話せたが、さすがに免疫のない女子高生を数人相手にして話すのは少し緊張する。少し声音が曇るのを感じながら、俺は挨拶として右手を挙げた。
「……う、うん」
音無さんの友達の二人は、俺の挨拶に対して、揃って首を小さく動かすのみだった。その反応の悪さに俺はきまりが悪くなって閉口する。馴れ馴れしくしすぎただろうか。
不意に音無さんの方を見やると音無さんは首を傾げて、二人に顔を向ける。
「どうしたの?」
「な、なんでもないよ! よろしくね。ってかさ、優衣、スマホ買った?」
「あー。今、お母さんに頼んでるとこ」
「今時ガラケーとか、マジありえんから。早く買ってもらいなよ」
「別に困らないんだけどなぁ」
たははと笑って音無さんがガラケーを取り出す。おぉ、久しぶりに実物を見た。偉大な科学者たちの発明であるから悪く言うつもりはないのだが、スマホが台頭した現代社会においては、これは前時代の遺物と言える。
「そうだ、葛西ちゃん。スマホ持ってるなら、みんなとRINE交換しなよ」
RINEは日本で一番ポピュラーな通信アプリである。今や人との連絡はこのアプリ一つで十分だという優れものだ。もはや電話番号もメールアドレスも連絡という面において不必要と言っても過言ではない、そんな時代になっているのだ。
「そうだね、じゃあ……」
女子とRINEを交換するなんて俺の高校にはなかったイベントだ。興奮して来たな。おそらくクラス専用のチャットルームもあるだろうし、それにも入れてもらっておきたい。俺がスマホを取り出すと、しかし、彼女らは顔を見合わせて、
「……ごめん、あたしら、今電源切れちゃってて、またの機会で」
片方の、背の高いセミロングの子がそう言うと、もう片方の大人しそうな子も強く頷いた。そんなことあるのか、と思いながらも、そう言われてしまえば、俺は自分のスマホを引っ込める他になかった。
「そっかー。また今度だね。じゃあ、葛西ちゃんには私のメアドと電話番号教えとくね」
音無さんが残念そうに眉根を下げると、カチャ、と懐かしい音を立てて携帯を開いたので、俺は慌てて仕舞い掛けたスマホを机の上に出す。お互いの電話番号とメールアドレスを交換する。交換した後、勝手に葛西陽菜乃さんの個人情報を教えて良かったのだろうかと思い直すが、高校のクラスメイトなら大丈夫だろうと考えることにする。
「じゃ、じゃあ……あたしたち席戻るね」
やけに深刻そうな顔をした二人がそう切り出したので、俺はスマホの時計を見た。意外に時間が経っていて、もうすぐで八時半になりそうだ。この学校のホームルームは何分からなのだろう。
「うん、ばいばい! また後で」
「バイバイ」
手を振って、自分の席に戻ろうとする二人を見送る音無さんに倣い、俺も手を振る。すると、突如として、音無さんが自身の左手に持っていたメロンパンにかぶり付く。すさまじい勢いでパンを喰らう音無さんを見て、あぁ、我慢してたんだなと俺は苦笑いした。
チャイムが鳴ると先生が教室に入ってきた。若々しい女の先生だ。教壇に立ち、形式的な挨拶を済ませると、先生は緊張気味な笑みを浮かべながら出席を取り始めた。不慣れな感じからして、もしかしたら新任かもしれない。その先生に呼ばれて、一人一人が返事をしていく、この光景がどこか懐かしかった。点呼中、席の並びが出席番号順であることがわかった。なるほど、だから音無さんと隣同士なのか。それは奇跡的だ。
高校一年の授業というだけあって、内容は簡単だった。一応、俺の高校はそこそこの進学校であったので、勉強に困ることはなさそうだなと思った。音無さんに教科書を借りつつ、六時間の授業を乗り越えると、いよいよ放課後になる。
学校生活を一日終えてみて、わかったことが二つある。一つは、音無さんがこのクラスの中心人物であるということ。言ってしまえば、彼女はクラスの人気者だ。今日はずっと音無さんの隣にいたから分かるが、色々な子が彼女の席に来ては雑談をしていた。もう一つは、音無さんと違って、葛西陽菜乃さんはクラスに仲の良い子がいないということ。俺が話しかけても、心なしか、みんな素っ気ない反応をしてくる。ずっと休んでいたのなら仕方ないか。