負けたくない!
ウォーミングアップとして、ランニングと動的ストレッチを終える。終えた頃、陽菜乃はずいぶんと息を切らせていた。
(はぁ、はぁ……。久々に運動したから、こ、腰が……)
グラウンドに汗が一滴落ちた。もちろん、感覚は共有であるから、俺も辛い。
(あーキツ……運動不足だな、これは)
「次はキャッチボールね、陽菜乃ちゃん」
赤井キャプテンが陽菜乃に声を掛ける。ユニホーム姿の赤井キャプテンはますます身体の小ささが強調されていて、可愛らしかった。
(キャッチボールは知ってる! ボールの投げ合いでしょ?)
赤井キャプテンに「はい」と返事をしつつ、陽菜乃は心の中で、俺にそう言った。
(浅いな。投げ合い? 浅い浅い。キャッチボールは野球の基礎が詰まった究極の動作トレーニングだぜ)
(え!? な、なんかすごそう……!)
ごくりと唾を飲み込む陽菜乃。よし、語ろう。キャッチボールの重要さについて、この無知な少女に語り尽くしてやろう。面倒臭い、語りたがりのマニアのような思考になりつつ、俺は心の中でにやりと笑った。
「陽菜乃ちゃんゲットー!」
俺が心の中でコホンと咳払いをかまし、いざ語り始めようとした、その時だった。突然に何者かに陽菜乃の腕が掴まれて持ち上げられたのだ。
「あ、小野先輩!」
陽菜乃が振り向くと、そこには小野先輩が立っていた。
「紬って呼んでほしいなー。ねぇ、私とキャッチボールしよー」
間延びした特徴的な語尾で、小野先輩あらため、紬先輩は言う。なるほど、「ゲット」とはそういう意味か。
「は、はい! ぜひ、お願いします。紬先輩」
緊張した口調で陽菜乃が答えた。くそう。キャッチボールについて語るタイミングを、完全に逃してしまった。俺は心の中でひそかに肩を落とす。
「くっそー。陽菜乃ちゃんはブスに取られたか。じゃあ優衣ちゃん! あたしとキャッチボールしよう!」
少し離れたところでは大原先輩が優衣に声を掛けていた。一年生とキャッチボールがしたくて堪らないのだろう。その気持ちは大いに共感できる。
「誰がブスじゃ、あのデカ女」
紬先輩が大原先輩(もう真里奈先輩と呼んだ方が良いだろうか?)を睨みつける。この二人は間違いなく仲が良いなと、俺は初めて見た時から思っていたが、これだけの軽口を叩き合えるなら、やはり俺の予想は間違っていなかったらしい。
「はい! よろしくお願いします!」
「やった! よぉし、天才投手とキャッチボールかぁ! ワクワクすんなぁ!」
大原先輩あらため真里奈先輩と優衣が盛り上がっている。優衣の球は速いから気をつけてくだされ、と真里奈先輩に念を送っておこう。
「あれ、ボクはボクは?」
キャッチボールは基本的に二人組で行われるものであり、今、グラウンドにいるのは五人だ。だから、必然的に一人余る。
ぽつんと立ち尽くしながら、自分のことを指差してアピールする赤井キャプテン。それを見て、真里奈先輩と紬先輩の煽り二年生コンビは、にやりと笑う。
「コトさん、あっちに壁があるよ」と紬先輩。
「ほら、行って来なよ。壁が待ってるよ」と真里奈先輩。
ひでぇ。けれど笑ってしまう。
「ぎゃあああああ! ボクも入れて! 入れて入れて入れて!」
キャプテンが暴れ始めた。子供のように喚きながら地団駄を踏み始める。それを見て、陽菜乃も含め、四人は笑っていた。
「あ、じゃあ! ボクは陽菜乃ちゃんの横でキャッチボールを教える係をやるよ!」
思い付いたように、キャプテンが言う。それを聞いて、紬先輩は「仕方ないなぁ」と、未だに笑いながら、
「それで良い? 陽菜乃ちゃん」
と陽菜乃に話を振った。
「はい、お願いします!」
頷く陽菜乃。それを見て、キャプテンは飛び跳ねて喜んだ。
さて、五人はベンチに戻って、グローブを出したり、水筒を飲んだり、キャッチボールに向けて、各自準備をしている。
陽菜乃は初めての誕生日プレゼントをもらった子供のようなはしゃぎ様で、ピンク色の巾着袋を見つめていた。グローブケースを開けると、オレンジ色のグローブが顔を出した。曰く、このグローブは名前を「ウィン」という。「勝つ」という意味の、シンプルでバカっぽい名前である。
「嵌めてみていい?」
昂ぶった声で陽菜乃が隣に座る優衣に訊くと、優衣は笑って、
「もう陽菜乃のものなんだから。好きにすると良いよ」
と返答する。「それじゃあ」と陽菜乃は慎重に、グローブを左手に嵌めてみた。しなやかさの中に硬さのある、革の独特の感触に左手が包まれ、俺は不思議な安心感を覚えた。これはいいグローブだ。辛口で知られるグローブ評論家の俺も、さすがにこのグローブには満点をつけざるを得ない。
(どうだよ、つけてみた感じ)
(なんか……手がデカくなったみたい)
陽菜乃に感想を聞くと、小学生みたいな感想が帰ってきた。映画の感想を聞いたら、「怪獣が戦ってた」みたいな。事実を言ってどうするんだよ。
(あと……すごい縦に長い形をしてるね。なんか、高くのボールもグローブのおかげで届きそうな)
と思っていたら、素晴らしい感想が来た。得意な話題だ! と俺は興奮して語り始める。
(そうなんだよ、外野手のグローブっていうのはな、)
「外野手用だからさ、縦に長いでしょ?」
しかし優衣に割り込まれて、俺は黙った。せっかく気持ちよく喋ろうとしたのに。
「うん長い!」
陽菜乃は優衣の方に反応する。当然だろう、俺の方に反応したら、優衣を無視することになるのだから。それはかわいそうだ。
「外野手はね、高かったり、遠かったりする打球がいっぱい来るから、1㎝でも高く、遠くのボールをキャッチできるように、縦長の形をしてるんだよ。あと、空中に高く上がったボールが落ちて来るのを捕るときに、内野手みたいな小さいグローブだとボールを落とし易いんだけど、外野手みたいな縦に長くて大きいグローブを使うと、落としにくいの」
長々と丁寧に説明をしてくれた優衣は、見事に俺の言いたかったことを殆ど言い切ってしまった。俺は不満げに唇を尖らせたい気分だった。
「なるほど! 飛んで来る打球の種類に合わせた形をしてるんだね」
陽菜乃がよくわかったという風に何度も頷く。どうやら理解できたみたいで良かった。俺の出番なんてなくても、陽菜乃が野球を知ってくれればそれで良いのだ。俺はいわば、陽菜乃第一主義でやらせてもらっているのでね。
「そういうこと!」
陽菜乃に説明を理解してもらって、優衣は嬉しそうに笑った。
(え、あれ? ちょっと待って。タツベーさん要らなくない?)
すると、陽菜乃がとんでもないことを口走る。俺はブチ切れ、ここで、陽菜乃第一主義をやめることを宣言する。
(要らないって何だよ! 酷すぎだろ!)
俺は必死に抗議した。ふん、そういうこと言うなら、もう何も教えてやらないぞ、と拗ねそうになる。
(うそうそ。いざという時は、一番頼りにしてますから)
と、調子のいいことを言う陽菜乃。しかし、最終兵器という感じがして、悪い気はしなかった。まぁ、優衣や先輩たちには基本を担当してもらって、俺は野球の応用的部分、すなわち真髄を担当しましょうかね。と、俺は息巻いた。
「キャッチボール! はじめー!」
赤井キャプテンの掛け声によって、グラウンドでキャッチボールが開始された。まずは近い距離でボールを投げ合う。いきなり距離をとって強い球を投げると肩に負担がかかって怪我の恐れがあるから、まずはゆっくり、近距離で行なって、肩を慣らすのだ。
「陽菜乃ちゃん、ボールの握り方わかる?」
隣に立つキャプテンが陽菜乃に尋ねる。キャプテンの左手に装着されたグローブは薄い黄色のグローブで、その大きさから、キャプテンのポジションは内野手であることがわかった。
「いえ、全然……」
「そっか。じゃあまずは握り方から教えるね」
キャプテンがにこりと微笑む。そうしてグローブから野球ボールを取り出して、陽菜乃に手渡した。
「硬いし、重い……」
野球ボールを実際に持ってみて、陽菜乃は驚いたようにそう言った。たしかに、硬式の野球ボールというものは。言ってみれば巨大な石ころみたいな重さと硬さをしている。
「そう。だから練習中は十分に気をつけてね。危ないと思ったら、まず、頭を守ってね」
極めて真剣な表情でキャプテンが注意喚起してくれる。硬球がまともにぶつかったら、人は簡単に怪我をするし、さらに言えば、硬球は人を殺し得る。これは野球をやっている者なら誰もが知り、厳重に注意すべき事実だろう。
「わかりました」
キャプテンが真剣な表情をしたので、陽菜乃の表情も引き締まったものになった。
「あはは……ごめんね。驚かしちゃって。たしかに危ないところもあるけど、ちゃんと気をつけてやれば、野球ってすっごく面白いスポーツだからさ! 一緒に楽しもうね」
キャプテンは朗らかに笑うと、気を取り直して、という風に陽菜乃の右の手首を握った。
「じゃあ、ボールの握り方を教えるね」
そう言いつつ、キャプテンは陽菜乃の手指を動かして、ボールの握りの格好を作ってくれる。俺が見ても、文句の付け所のない、現代野球の理想とされている握り方だ。
「ええと、ポイントは……この縫い目っていう赤いラインに、人差し指と中指の第一関節あたりを乗せること。そして、薬指と小指は畳んで横に添えて、親指は軽く曲げて下に添えること。そうそう。親指は第一関節の側面をボールに当てる感じで……」
キャプテンが陽菜乃の指とボールを触りながら、要点を説明してくれる。陽菜乃は「はい、はい」と一回一回頷きながら、真剣に説明を聴いていた。なかなか的を射ていて、わかりやすい説明だと思った。
「ぎゅっと強く握らないで、軽く握る感じで……いいね! じゃあ、一回投げてみようか。紬! 投げるよー」
握りの確認が終わったところで、一度陽菜乃にボールを投げさせるらしい。五メートルほど先にいる紬先輩のところまで、きちんと投げられるだろうか。
「よっしゃー! 陽菜乃ちゃん来い来いー」
紬先輩が手を振って合図をしてくれた。「よし」と陽菜乃が気合を入れる。
「いきます……! えいっ!」
とてもじゃないが綺麗とは言えないフォームで投げられたボールは明後日の方角へ飛んで行く。紬先輩は「ありゃー」と口を大きく開けながら、それを見送った。
「あぁっ! すみません!」
「大丈夫、大丈夫―」
遠く離れた場所に落ちたボールを拾いに行きながら、紬先輩は笑顔でそう言った。
「教え甲斐があるなぁ!」
と、隣に立っているキャプテンは陽菜乃が下手くそなのを喜んでいるようである。たしかに、ここまで下手くそだと教える側は楽しいかもしれない。改善の余地がたくさんあるからね。
「あれ? 陽菜乃、もっと投げるの上手くなかったっけ……?」
ふと、向こうで真里奈先輩とキャッチボールをしている優衣が、陽菜乃の今の暴投を見てびっくりしている。しまった。優衣はおととい俺とキャッチボールをしているから、陽菜乃(俺)と陽菜乃(陽菜乃)の実力の違いに違和感を覚えているのだろう。
(な、なんか疑われてるんだけど……どうしよう)
優衣の発言に陽菜乃は動揺していたが、一方で、俺は俺の実力を実際に見ていたのが優衣で良かったと安心していた。
「おとといは、すごい調子が良い日だったの!」
と陽菜乃の身体を借りて優衣に笑いかけると、優衣は驚いたような顔から一気に納得した顔になって、
「なるほどね! そういうことか!」
と大きく頷いた。ほらね。人の言ったことを何でも信じる奴だ。ああやって言っておけば、「違う。陽菜乃は実力を隠してるんだ!」という風には決して思わないだろう。
(優衣ちゃん……騙されちゃわないか心配だよ……)
そんな優衣を見て、陽菜乃は心配していたが、でも、そこが優衣の良いところだと、俺は思う。
すっかり納得した様子の優衣は大きく振りかぶって、真里奈先輩に六割くらいの出力の球を投げていた。ぴゅーっと綺麗な軌道で真っ直ぐに走っていく球は、真里奈先輩のグローブに収まって、パァン! という気持ちの良い革の音を鳴らす。
(すごいね……)
それを見た陽菜乃は閉口する。実際にボールを投げてみたから、余計にわかるのだろう、優衣の野球の実力の高さが。
(負けたくない……!)
陽菜乃はそう言った。陽菜乃の身体に力が入るのがわかった。その陽菜乃の挙動を、俺は意外に思った。