登校と出会いと
「陽菜乃、起きてる?」
女性の声だった。俺はこの子の母親だと直感し、同時に、葛西陽菜乃さんになりきらなければと思った。
「うん、起きてるよ」
まさかこの一言でバレるわけがないと思いながらも、少し緊張しつつ、応答する。俺の言葉にドアの向こうは数秒の間を置いてから、心配そうな声音で尋ねてきた。
「今日は、学校行けそう……?」
学校に行けそうか、という問いは、つまり、葛西さんは昨日まで学校に行けない状態にあったという意味である。風邪でも引いたのだろうか。そう考え、今は特に体調の悪く感じないことから、
「行けそうだよ」とドアの向こうに言った。
「ほんとう……!?」
俺の返事を聞くや否や、ドアが開かれて心配そうな顔をした女性が飛び込んで来た。スーツに身を包んだ四十代くらいのその女性は少しくたびれた顔をしている。
「本当に、今日は学校に行くのね?」
再度確認するように聞いてくる葛西陽菜乃さんの母親に対して、俺は少し戸惑いながらも小さく頷くと、唐突に抱きしめられた。髪の毛から甘い良い香りが漂ってくる。
「母さん嬉しいよ、陽菜乃……。良かった。頑張ってね」
俺は終始戸惑いながら、俺を強く抱きしめて啜り泣く女性にされるがままとなっていた。この二人に何があったのか知らない俺は黙っているしかない。
「仕事行ってくるからね、気をつけて行ってらっしゃい」
「うん、ありがとう」
女性は俺を解放してから、二、三度頭を撫でて、部屋から出て行く。とりあえず、今の状況に嘆いても仕方ないし、学校に行く他にないだろう。とはいえ、学校がどこにあるのか知らない。俺はスマホがどこかにあるのではないかと思いつき、ベッドの上を探した。すると枕の近くにスマホが置いてあるのを発見した。可愛らしいキャラクターのカバーケースに収められたスマホである。
星の丘女子高校という名前は聞いたことがない。しかし、ネットで調べれば場所や行き方がすぐにわかるのだから良い時代だ。スマホのパスコードは不明だったが、指紋でロックを解除できた。マップで星の丘女子高等学校を調べてみると、意外にも近くの、徒歩や自転車で行けるような距離にあることが判明した。
時刻は七時を少し過ぎたところであった。八時少し過ぎに学校に着けば良いとして、家からは歩いても三十分と掛からなさそうだ。だから、あと三十分で支度をすれば良いだろう。支度といえば着替えだ。今着ている寝間着のまま学校に行くわけにはいかない。だが、着替えなければいけないということは、すなわち、ある通過点を通らなければいかないわけである。
「いや、さすがに悪いだろ……」
いくら性的興味の旺盛な青少年だからと言って、無断で女子の裸および下着姿を見るわけにはいかないだろう。そんな不道徳な!
見ると、壁に掛かっている制服はブレザーだった。難しい制服じゃなくて良かったと胸を撫で下ろして、真摯な日本男児たる俺は自分の肌を見ないように目を瞑った。服を脱ぎ、下着は変えずに白シャツとワイシャツを着る。ただ、ここで問題が生じた。それはスカートである。大いなる苦戦を強いられながら、スカートを試行錯誤の上でやっと履き、脱げないでくれと切に願う。初めて履くスカートは、何だか股下が頼りない気がして、下着をむき出しにしているような気がして、とても恥ずかしかった。
最後にブレザーを着れば完成だ。姿見で確認すると、良い感じに仕上がっている。洒落てはないかもしれないが、違和感もない。長めの靴下を膝下まで引っ張って、これで高校に行けるだろう。あとは歯磨きと洗顔と……化粧はすべきなのだろうか。わからないが、すべきだとしても俺にはできないので、このまま行くしかない。大丈夫、すっぴんでも可愛いから、葛西さん。
鏡の中の知らない少女に語りかけるようにして親指を立てる。そうしてから、いよいよ部屋を出た。マンションかアパートの一室なのだろう、廊下に階段はなく、左にリビングらしき比較的大きな部屋が見える。右には玄関と洗面所が見えるので、そちらに向かって歩を進める。
俺の家と変わらぬ、日本の平均的な家庭という感じがする作りの家で、俺は多少の安堵感を覚えた。ドライヤーで寝癖を整えて、軽く顔を洗う。冷たい水が、この状況を現実の事態であると教えてくれた。しかし冷静に考えても、この状況を説明する記憶は俺の頭の中にはない。これ以上考えても仕方がない。時間が解決してくれるのを待つしかないのだ。
歯ブラシは二本あった。どちらが葛西陽菜乃さんのものか判然としないので、止むを得ず、俺は洗面台の下にあった棚を漁って発見した新しい歯ブラシを開封して使った。
数十分かけて準備が整う。少し早いが、学校に行くとしよう。俺は短く息を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。すると、ここで一つの不安が胸をよぎった。俺は今、外見こそ葛西陽菜乃だが、中身は違うのだから、この子の知り合いや友人たちに怪しまれることは間違いない。しかし、それを解決する手立てはないのだから、どうにかして上手くやるしかないだろう。思い切って、俺は勢いよく玄関扉を開け放った。
爽やかな晴天は穏やかな春の香りを感じさせる。なるほど、スカートは確かに足が冷ややかに、すうっとした。スマホのマップを確認しながら歩く知らない街に俺は少し怖さを感じたが、それよりも新鮮な世界への期待感の方が大きかった。赤の他人に成り代わって学校に行くなんて体験は普通できないことだ。
しかしながら登校中、俺は一つの疑問を拭えないでいた。スマホを見れば、日付が四月の十二日になっている。俺の最後の記憶から約九ヶ月が経過している計算だ。これはおかしい。俺の甲子園はどうなったのだろう。
星の丘女子高等学校。大きく名前が彫られた表札の、俺が今着ている制服を見に纏った女子高生たちがぞろぞろと入って行く学校に直ぐに着いた。考え事をしたり、周りの景色を楽しんでいると登校の時間は一瞬かのように感じられた。そういえば、葛西陽菜乃さんは何年何組なのだろう。肝心なことを確認し忘れていた俺は高校の正門の前で一時停止して、鞄の中の学生証を漁った。
「葛西ちゃん? どうしたのー?」
小物やら教科書やらで雑然とした鞄の中に、なかなか学生証を見つけられずに慌てていると、後ろから右肩をトントンと叩かれた。葛西って俺のことか、と思い出しながら振り返ると、女子高生が一人、怪訝そうな顔をして俺を見つめていた。耳がぎりぎり隠れるくらいのショートヘアーの、小綺麗な顔立ちとまん丸い目に、俺は思わず息を呑んで、数秒間停止してから、
「あ、えっと、教室どこだったかなぁって」とおずおず答えた。
「あははは! 教室の場所忘れちゃったの? まぁ、ずっと休んでたもんね! こっちだよ、ほら」
うん、と応答して、俺の前に出て手招きをしてくれる彼女のすぐ後ろについた。彼女はにっこりとした笑みを時々、背後の俺に向けながら快活に歩く。