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ウィン

「ええと、仮入部の段階でそれは教えられないと言うか……入ってからのお楽しみ! みたいな?」


 なおも言葉を濁すキャプテンを見て、俺はピンと来た。そしてすぐに陽菜乃に話しかける。


(陽菜乃、もう、野球部に入るのは確定事項なのか?)


(うん。もう今日帰ったら、入部届けを書こうと思ってるよ)


(じゃあ問題ないな。ちょっと、俺が喋るよ)


 陽菜乃に断って、俺は自分の予想が正しいか確かめるべく、口を開いた。


「もしかして、私と優衣ちゃんを含めて、ギリギリ九人ですか?」


 俺がずばり言うと、キャプテンは顔を青ざめさせた。一度、床を見つめてから再び顔を上げ、言いにくそうに眉をひそめながら、キャプテンは白状する。


「うん、そうだよ。三年生が二人で二年生が五人。もし、優衣と陽菜乃ちゃんが入ってくれたら、九人になる」


 野球は一チーム九人でやるスポーツだ。だから陽菜乃と優衣が入れば、部員数はギリギリ九人になり、試合ができる……つまり、大会にエントリーできるようになる。しかし裏を返せば、二人が入らないと大会には出られないということになる。これは運動部にとって、致命的で、今年引退の三年生にとって、これ以上ないくらい辛いだろう。


(先輩達は、陽菜乃のことを思いやって、部員数を教えるのを躊躇ったんだろう……自分が入らないと野球部が大会に出られなくなるっていうプレッシャーを感じて欲しくなかったんだな)


 おそらく、キャプテンと懇意である上、野球部に入ることが確定されている優衣はそれを知っていたのだろう。それなのに、俺が野球部に入らないかもと言った時は、「部活は大事なことだから、ゆっくり考えて」と言うだけで、しつこく勧誘をしてこなかった。もし、本当に陽菜乃が入部しなかったら、大会に出られなくなるのに。


「だ、だからって無理に入部しなくて良いんだよ!? 部活動は学校生活ですっごく大事だから、じっくり、ゆっくり考えて、本当に入りたい部活に入ってね」 


 キャプテンは慌てた様子で、胸元で両手を小刻みに振った。小野先輩と大原先輩も何度も頷いている。隣に立っていた優衣も、「色んな部活を見て、好きなのを選びなね!」と言ってくれている。


(すごい、良い人たちだね)


 陽菜乃の口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。間違いない。この人たちは他人を思いやれる心の持ち主だ。

(あぁ、そうだな。早く安心させてあげなよ)


 俺の言葉に、陽菜乃は頷いた。


「私、元から絶対に野球部に入ろうと思ってましたから、大丈夫ですよ!」


 陽菜乃は笑顔で宣言をする。すると、キャプテンは目を見開いた。


「そ、そうなの? 本当?」


 確認するように、キャプテンは陽菜乃の目を見つめる。


「はい、本当です。よろしくお願いします」


 キャプテンの目を真っ直ぐに見つめ返し、少し声を上ずらせて、陽菜乃はお辞儀をした。お辞儀をして、顔を上げた瞬間、キャプテンが陽菜乃に飛びついてくる。 


「うわぁぁあん! ありがとう! ありがとう!」


 今日はよく人に抱きつかれる日だ。そして、よく人の涙を見る日でもある。抱きつかれることは、無論、俺にとっては得しかない。


 二歳年上の、部活の先輩に抱きつかれて、陽菜乃は大いに混乱しているようだった。二歳年下の後輩に抱きついているキャプテンを見て、大原先輩と小野先輩、そして優衣は、とても嬉しそうに笑っている。


 さて。陽菜乃を解放して、キャプテンは涙を拭いながら、


「じゃ、じゃあ着替えて、練習始めよっか」と仕切り直した。その顔は恥かしさからか、赤く染まっている。


「あれ、まだ先輩たち揃ってないのに?」


 優衣が目を丸くする。たしかに、まだ先輩は三人しかいない。あと四人いるはずだ。


「ええと、一人は歯医者、二人は補習。もう一人は?」


 キャプテンが指折り数えながら大原先輩の方を見ると、


咲良さくらは委員会で遅くなるらしいよ」


 と、スマホを確認しながら大原先輩は答えた。なるほど、それで三人しかいないのか。俺は納得しつつ、俺のいた高校ではあり得ないことだったので、新鮮に感じた。俺の高校は部員の全員が野球第一で生活をしていたから、他の用事で休むなんてことは考えられなかった。しかしながら、そこに優劣はない。毎日野球の練習をしている奴が必ずしも上手いとは限らないし、野球以外にも、大切なことはたくさんある。特に補習をしている二人は勉強に励んでもらいたい。


 各々がスペースを取って練習着に着替え始める。と同時に、俺の胸がざわめき始めた。このままでは、女子高生達の着替えシーンがこの目に映ってしまう。いや、嬉しいんだけど! 道徳的にどうなのか! でも仕方ないか!


(さいてー)


 陽菜乃は吐き捨て、花畑に背を向けた。ですよね。と俺は観念する。そんなの陽菜乃が許すはずない。いいさ、香りだけ楽しむから。


(私の身体を利用して、えっちなこと企んだら絶交だからね?)


 さらに、追い打ちのように釘を刺してくる陽菜乃。


(信用してくれ)


(どうだか)


 陽菜乃が疑うように目を細める。いわゆるジト目というやつだった。


 ところで、陽菜乃が背を向けて着替えるのには俺が犯罪者になるのを防ぐ以外にも意味があった。それは、陽菜乃の腹部にある、忌々しくて生々しい傷を他の人たちに見せないようにできる、という効果である。


 陽菜乃は傷をかばいながら体操服へ早着替えして(もちろん目を瞑りながら)、先輩たちと優衣に背を向けながら部室を探索し始めた。ふと、机の上の雑誌を発見し、手に取る。


(それ、優衣が載ってるよ)


 教えてあげると、陽菜乃は(ほんと!?)と驚いて、ページをめくり始めた。『注目の中学生たち』と銘打たれたページでぴたりと止まり、熱心に読み始める。


(優衣ちゃんって、もしかしてすごいの?)


(すごいを通り越してバケモンだな)


 正直なところ、俺は女子野球のレベルを知らない。だがしかし、優衣が並外れた能力を持っていることは自信を持って断言できる。おととい、俺は優衣との三打席勝負を制したが、もし俺が優衣と同じ高校一年生であったら、三打席連続三振を食らっていただろう。たとえ俺の本当の身体を使ったとしても、その予想は変わらない。


「また読んでるの?」


 ひょこっと、着替えの終わった優衣が陽菜乃の肩の上から顔を覗かせる。


「もー。恥ずかしいから読まないでよ、それ。天才だなんて書かれちゃってさぁ」


「優衣ちゃんって、すごい選手なんだね」


 首だけをを動かして、背後に立つ優衣の方を見る陽菜乃。恥ずかしそうに笑う優衣を、陽菜乃は真剣な目で見つめた。すると、優衣は笑い顔をやめる。突然に表情が消えて、不気味な顔になる。


「でも打ったじゃん、陽菜乃は」


「え?」


「私、陽菜乃のあのセンター返しを、何回も思い出すんだ。リベンジが成功しても、あの日、陽菜乃が打ったヒットが消えるわけじゃない……」


 感情を押し殺したような低いトーンで陽菜乃の耳元に囁きながら、優衣が陽菜乃の右手を両手で握る。優衣に背後から抱擁される形になった。ゆっくりと陽菜乃の右手が開かれ、開かれた手のひらを、優衣の両手が撫で回す。こそばゆい。それは、手のひらのマメ(バットを振る時に生じる摩擦によってできる隆起した角質。一般に、熱心に練習をしている証とされている)を確認するような仕草だった。もちろん、陽菜乃の手のひらには一つたりともマメなんてない。


「悔しくて、悔しくて……本当に天才なのは、陽菜乃かもよ?」


 耳元で囁かれる声は吐息が混じり始め、まるで呪いの言葉のような重々しさを帯びてくる。何か、優衣の様子が変だ。突然に変質した優衣に、俺は恐ろしささえ感じた。


「ゆ、優衣ちゃん? なんか怖いよ……?」


 俺と同じく、異常を感知したのであろう。陽菜乃の声が震える。


「あ……あ! ごめんね。ごめんごめん」


 優衣は陽菜乃を解放して、我に返ったように笑った。「いや、こえーよ!」と、本来なら突っ込みたいところだが、それを許さぬ本物の怖さがあった。突っ込んだりしたら無言で殴り飛ばされそうな——もちろん、優衣がそんなことをしないのは分かっているのだが——そういう怖さがあった。


「二人とも、何してるのー?」


 そこに、赤井キャプテンがやって来る。どうやら先輩たちが全員着替え終わったようだった。


(優衣ちゃん……怒ってた?)


 陽菜乃の心配そうな声が耳に入ってくる。


(怒ってはいないと思うけど……なんか変だったな)


 二人して、喉を唸らせる。陽菜乃(俺)にヒットを打たれたのが原因なのだろうけれど、それでも、あの変わりようは変だ。


「ううん。別に何もしてないよ」


 少し狼狽しながら、優衣はキャプテンの問いに対して首を横に振った。


「そっか。じゃあ、グラウンド行こうか!」


 まぁ考えていても仕方がない。陽菜乃と俺は気を取り直して、先輩たちの集まっている部室の入口へ歩いて行った。


(緊張してきたなぁ……)


 グラウンドに向かう途中、陽菜乃が楽しそうに笑いながらそう言った。


(大丈夫だよ、俺が付いてるんだから)


(そうだよね! いっぱい教えてね)


 とは言いつつ、今日は初日だし、そもそもグローブがないから、先輩たちの野球しているところを見ながら見学という形になるだろう。陽菜乃はまるっきりの初心者だし、硬球は危ないから、まずは俺とマンツーマンの自主練から始めるのが良いかもしれない。


 ふと、陽菜乃の右肩が叩かれる。振り返ると、普段と変わりない、ニコニコ笑顔の優衣がいた。


「陽菜乃の誕生日っていつ?」


「え? 二月十二日だけど……」


 唐突な質問に、陽菜乃は少し歯切れ悪く答える。


「そっか……じゃあ、二ヶ月遅れだけど……」


 優衣は背後に何かを隠し持っていた。それをゆっくり、前に持って来る。優衣が隠し持っていたのはピンク色の、可愛いデザインの巾着袋——グローブケースだった。


「誕生部プレゼント!」


 言いながら、優衣は陽菜乃にグローブケースを差し出す。両手で大事そうに持たれたそれを、陽菜乃は慎重に受け取った。


(まじかよ!)


 俺は思わず心の中で叫ぶ。叫ぶと、伝えようとしていなくても陽菜乃に伝わってしまうらしいから、きっと陽菜乃に聞こえたことだろう。


(これは……なに?)


 陽菜乃はいまひとつピンと来ていないようだった。(開けてみなよ)と促すと、陽菜乃はおっかなびっくりといった様子で巾着袋の口を引っ張って開けた。中からグローブが出てくる。光沢あるオレンジ色の、外野手用グローブ。俺がおととい、優衣から借りたやつだ。


(これって、野球の)


(グローブっていう道具だな。手にはめるやつ)


 簡単に説明する。さらに、脅してやろうと説明を付け加える。


(これは高級モデルだから、三万は軽いな)


(え、えー!? 三万円!?)


 俺の思惑通り、陽菜乃は仰天した。


「もも、貰えないよ!」


 そしてそのままの勢いで優衣にグローブケースごと返却してしまう。まぁ、たしかに、俺でもそれをただで貰うのは気が引ける。


「良いの良いの。陽菜乃に使って欲しいんだ。外野は、もうやらないと思うし」


 優衣は陽菜乃が返そうとしたグローブを押し返しながらそう言った。なるほど。高校では内野手かピッチャーに専念しようと言うわけか。


(外野?)


 新しく出て来た野球用語に陽菜乃は首を傾げる。


(野球のポジションはピッチャー、キャッチャー、内野、外野に大別できるんだよ。バッターにボールを投げる人がピッチャーで、そのボール捕る人がキャッチャー。バッターが打ったボールをピッチャーの後ろにいて守るのが内野手と外野手。それで、それぞれ使うグローブの種類が違うから、つまり、優衣は自分の守らなそうなポジションのグローブを陽菜乃に譲ろうとしてるんだな)


 そうなんだ、と陽菜乃が納得したような、していないような微妙な声を上げる。説明が下手だっただろうか。野球の基本中の基本を改めて説明する機会なんて今まで全然なかったから、案外手こずるな。


(じゃあ……貰って良いってこと?)


(良いんじゃない? 陽菜乃に使って欲しいって言ってるわけだし)


 使わないグローブが埃を被ったり、売ったりするくらいなら、友達に使って欲しいという気持ちは分かる。


「じゃあ……ありがとうございます」


 陽菜乃が大仰な仕草で、再度、優衣からグローブを受け取る。まるで大名から褒美を授かる足軽のような仰々しさである。


「うん! 大切に使ってやってください! ええと、この子の名前はウィンって言うの。勝つって意味なんだって」


 何か言い始めたぞ。名前ってなんだよ。あと、「勝つって意味なんだって」って、なんでマイナーな知識を披露してる感を出してるんだ。WINっていう英単語に勝つという意味があるのは常識だろがい。みんな知っとるわ。


「それから、このオイルが、この子のお気に入りだから。たまに塗ってあげて」


 そう言って、優衣は使いかけのグラブオイル(グローブが革製品であるので、オイルを塗ることで手入れをする)を陽菜乃に手渡した。


(なんか、ペットを譲って貰ってるみたい)


 陽菜乃が微かに笑いながら言った。言い得て妙だ。


(ほんと、そんな感じだな)


 俺も笑う。別に、優衣を嘲るような意思はない。道具を大切にするのは野球人の絶対条件であると俺は常日頃から信じているし、実際に道具に語りかける選手もいる。ただ、ここまで本気でやっているのは、なんだか優衣らしくて良いな。そう思った。


「ずっと大事にするね」


 陽菜乃がグローブを抱き締めながら言うと、優衣は満足げに顔を綻ばせた。



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