いざ野球部へ!
午後の授業が終わり、放課後となる。何事もなかったかのように教室に帰って来た夜神は、もう帰ってしまったようだった。このまま絶縁となれば良いのだが、同じクラスである以上、それは無理だろう。
「いいの? クラスの人たちの誤解、解かなくて」
廊下を並んで歩きながら、優衣が心配そうな目で陽菜乃を見た。どうやら、このクラスには夜神によって広められた陽菜乃に関する虚偽の悪評があるらしかった。そのために、陽菜乃はクラスで腫れ物扱いをされているらしい。たしかに、言われてみれば、俺にも思い当たる節があった。
「ううん、いいの。そのうちにみんな分かってくれるよ」
しかし陽菜乃は被りを振る。そんなの、どれくらいの月日が掛かるか分からないのに。
「陽菜乃が良いなら、私は良いんだけど……」
優衣は眉根を下げて引き下がる。納得のいっていない表情だった。
(本当に良いのか? だって、誤解を解いとかないと、これからもクラスメイトに素っ気なくされたりするんだぞ)
心の中で陽菜乃に訊く。すると、陽菜乃は少し間を空けてから、
(でも、そしたら今度は、そんな嘘を吐いた夜神さんが白い目で見られちゃう。もしかしたら、いじめられちゃうかもしれない)と答える。
(夜神のことなんて心配してるのかよ! 良いじゃん、あいつの自業自得だろ?)
自分の流した噂が嘘だとバレて、それで自分が非難されたのなら、それは完全にそいつのせいだ。陽菜乃の気にすることじゃない。にもかかわらず、陽菜乃は首を縦に降らなかった。
(いじめられる辛さは、よくわかってるから)
少し声のトーンを落として、陽菜乃は言う。そう言われたら、もう俺には何も言い返せなかった。代わりに、なんて優しい奴だと、心中で感嘆した。
「ま、そだね! 放っておいても、みんなすぐに陽菜乃の良さに気づくか!」
あはは、と優衣が笑う、能天気な奴だ。
でも優衣が正しいかもしれない。陽菜乃は人の気持ちを思いやれる、こんなにも良い子なんだ。友達くらい、すぐにできるさ。なんて、陽菜乃のおばあちゃんみたいなことを考えた。陽菜乃のおばあちゃんは知らないけれど。
野球部部室の前に到着して、陽菜乃は緊張気味だった。心臓がバクバク鳴っている。俺は来たことがあるけれど、陽菜乃にとっては初めての部室なのだから、無理もないだろう。
「先輩たちいるかな」
言いながら、優衣が部室のドアをノックする。
(うわぁ、緊張するよ、タツベーさん!)
(覚悟しとけよ。野球部は怖い先輩でいっぱいだ。何か粗相をしでかしたら、すぐに坊主にされるぞ)
脅すように言ってみると、「ひぇぇ……」と陽菜乃が極小の悲鳴を上げた。俺はそれを見て、心の中でひそかに笑う。まぁ、今時、そんな部活はないだろう。ないと断言できないのが怖いところだが。
しかしながら、今日は仮入部が始まる日なので、野球部員が全員揃っている可能性は高い。赤井キャプテン、大原先輩、小野先輩は顔見知りだが、他の先輩は顔すら知らない。あながち、俺の台詞は冗談ではないかもしれない。本当に、怖い先輩ばかりかもしれない。
そう思うと、俺自身も緊張してきた。一体、どんな先輩がいるのだろう。さらに言えば、この女子硬式野球部には何人の部員がいるのだろう。陽菜乃と優衣の他に、新入部員はいるのだろうか。
コンコン。優衣が部室のドアをノックした。それと同時に陽菜乃の緊張度が最大値にまで昇り詰める。
(あわわわ、優衣ちゃん。なんでノックなんてするの!)
という、優衣の心の叫びが耳に入ってきた、そりゃ、ノックはするだろ。と一応突っ込んでおく。でも、優衣にノックをするという常識があったとは意外だ。
「キターー!!」
ノックの返事の代わりに、部屋の中から奇声が聞こえた。そしてその数秒後、とてつもない勢いでドアが開け放たれた。
中から飛び出してきたのは大原先輩だ。赤みがかった、少しクセのあるショートカットを揺らして、大原先輩は陽菜乃と優衣を交互に何度も見る。
「新入生二名様!! ご案内!!」
部屋の中に叫ぶ大原先輩。どうやら先ほどの奇声はこの人のものらしい。
「「入学おめでとう!」」
陽菜乃と優衣が靴を脱いで部室に入ると、中にいた先輩方が拍手で迎えてくれた。
「……ってあれ?」
思わず俺が声を漏らしてしまう。よく見れば、部屋の中にいたのは赤井キャプテンと小野先輩の二人だけだった。なんだ、顔見知りしかいないじゃないか。
パァン! 突然に、赤井キャプテンが隠し持っていたクラッカーを鳴らす。鮮やかな色どりの紙テープが大量に飛び出して、部室の床に落ちた。どこかで見た光景だ。
「琴音さん、それ二回目だよ。一昨日も見た」
優衣が期待通りの突っ込みをしてくれる。すると突っ込まれたキャプテンは涙目になって、
「だって……たくさん買っちゃったんだもん……」
と、どうでもいい事情を説明してくれた。
(全然わからないんだけど、みんな知り合いなの……?)
戸惑った声で、陽菜乃が訊いてきた。そうだ、説明してやらねば。
(ええと、あの一番小さいポニーテールの人が赤井 琴音先輩で、三年生のキャプテン。ドアを開けてくれた、テンションの高い長身の人が、二年生の大原 真里奈先輩。最後に、赤いキャプテンの隣にいるサイドテールの人が、二年生の小野 紬先輩)
簡単に説明してみたが、果たして伝わっただろうか。陽菜乃は「うん、うん」と頷きながら、小声で名前を繰り返して必死に覚えようとしている。
「いやぁ、それにしても嬉しいなぁ! 優衣だけでなくて、陽菜乃ちゃんも来てくれるなんて!」
赤井キャプテンが陽菜乃に近づいてきて、陽菜乃の右手を両手で包み込むように握った。にっこりと、優しそうな笑顔を向けられて、陽菜乃は安心したように顔を綻ばせる。
「はい……! よろしくお願いします……!」
「うん、よろしくね!」
陽菜乃が左手を添えて、両手で握手をする形になった。こうなると、キャプテンの手の小ささがよくわかる。子供のような手だ。
「小さくて可愛いな……」
俺は思わず口走ってしまう。陽菜乃は驚いて口を抑えたが、もう遅かった。
(た、タツベーさん! 何言ってんの!)
焦った陽菜乃が俺に抗議する。やってしまった。(すまない!)と陽菜乃に謝りつつ、正直に言うと、俺には実害がまったくないので、少しだけ楽しい気持ちもあった。たまにやろうかな、と邪悪な思考が浮かんでくる。
「か、可愛いは嬉しいけど……小さいって言わないで!」
赤井キャプテンは顔を赤くしながら、両頬をふっくらと膨らませた。
「コトさんは手も小さいけど、背もちっちゃいよねー」
そう言いながら、小野先輩がキャプテンの頭頂部を撫でる。たしかに、キャプテンはこのメンツの中でもとびきり背が小さい。おそらく、140㎝台だと思われる。
「だから、ちっちゃいって言わないで!」
ぷんすか怒って、キャプテンはますます頰を膨らませた。その姿の微笑ましさに、周りが笑うと、キャプテンも嬉しそうに微笑んだ。
ひとしきり笑った後、赤井キャプテンはこほんと咳払いをして、仕切り直すようにしてから口を開く。
「まぁとにかく! 二人ともよろしくね。今日は仮入部初日だし、簡単に、部について説明するね。ボク達は女子硬式野球部。基本的には、学校の定めてる月・水・金曜日と土日の週5回で練習してるよ。大会は……去年は人数不足で出られなかったけれど、今年は何とか出たいと思ってて、もし出られたら、【関東女子硬式野球リーグ】っていう、関東で一番大きなリーグ戦に出場したいと思ってます。リーグ戦は、なんと、もうすぐ五月に始まって、大体二ヶ月くらいで終わるよ。あと、九月にも同じのが開催されるから、リーグ戦は年二回だね。ええと、これくらいかな。二人とも、何か質問はある?」
キャプテンが説明を終えて、二人の顔を交互に見ながら、陽菜乃と優衣に訊いた。
「ううん、特にないかな」
優衣が即答すると、キャプテンは「陽菜乃ちゃんは?」と首を傾げる。
(タツベーさん、何かある?)
(うーん、そうだな。人数不足って言ってたし、部員の総人数を訊くのはどう?)
(あ、それは気になるね)
俺の提案に、陽菜乃が頷く。他にも、関東リーグの詳しい規模とかも知りたいけれど、それは後でも良いだろう。というか、そもそもにリーグ戦なのは意外だった。トーナメントじゃないのか。
「部員の人数は何人ですか?」
陽菜乃が質問をする。すると、「あっ」と、隣にいる優衣が声を漏らした。
「ええと、それは……」
陽菜乃の質問を受けると、キャプテンは戸惑った様子で口をつぐんだ。大原先輩と小野先輩の様子も、落ち着きがなく、どこかおかしい。そんなに変な質問ではないはずだ。たかが、部員数を訊いただけなのだから。なのに、何でこんな妙な雰囲気になっているのだろう。