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激怒する少女

 トイレに入ると、二人の女生徒がいる。様子を見ると、二人とも夜神の友人らしかった、要するに俺と陽菜乃の敵である。


(あれが冬尾さん、夜神さん、来手さん)


 陽菜乃がひっそりと指を差して、登場人物の名を俺に教えてくれる。まるで夏の大三角を構成する星の名を教えてくれるような、そんな風だなと思った。


「今日もやるとは思ってなかったよ」


 冬尾と言うらしい女生徒が夜神に言った。それに対して、夜神は肩を竦め、


「いやね、葛西にやって欲しそうな顔してたからさぁ」


 ね、と陽菜乃を見てくる夜神。陽菜乃は小さく頷いた。


「あの、三人に言いたいことがあるの」


 少し小さな声で陽菜乃は切り出した。三人は目を丸くして顔を見合わせる。


 陽菜乃の足がまた震え出した。足だけでない、口や肩、手先も震えている。果たして、陽菜乃はどれだけ怯え、どれだけの勇気を振り絞っているのだろう。俺はひたすらに見守った。


「……もう、終わりにして……!」


 俯き加減になって、ゆっくりと唇を動かす。


「は?」


 夜神が薄ら笑いを浮かべた。間髪を入れずに、陽菜乃は口を開く。


「もう私をいじめるのはやめて!」


 叫んだ。少女の悲痛で切実な叫びが天井と床、そして四面の壁に反響する。よく言った! 俺は心の中で盛大に拍手をした。


 三人は呆気に取られたように口を開けている。それもそのはずだ。自分たちの言いなりになっていたはずの陽菜乃が大きく反旗を翻したのだから。ざまあみろ、と俺は脳裏で舌を出す。これで、陽菜乃はお前らの言いなりじゃなくなった。


 興奮気味な俺とは対象的に陽菜乃は無言だった。じっと、相手の様子を伺っている。それも無理もないか。と俺は気を引き締め直す。まだ、第一段階が終わったに過ぎないのだ。彼女らが何て言うか、まだ分からないのだ。


「ぷっ、あはははは!」


 呆気にとられていた女生徒三人は、陽菜乃が叫んだ数秒後、揃って吹き出した。陽菜乃の言葉に対するお返しと言わんばかりに、三人の下品な笑い声が部屋に響いた。


 次に呆気に取られたのは俺だった。なぜ笑える? 陽菜乃がこんなに必死に抵抗したのに、なぜ効いていない?


「舐めてんじゃねぇぞ!」


 突如として、夜神が表情を変えた。怒号を飛ばしたと思った次の瞬間、夜神は渾身の蹴りを陽菜乃の腹部目掛けて繰り出してきた。加速された右足が陽菜乃の鳩尾みぞおちに見事命中する。一瞬、呼吸が失われる。俺と陽菜乃は強烈な痛みと嫌悪感に襲われた。


 うぁ、と陽菜乃が喘いだ。蹴られた鳩尾を手で抑えつつ、膝から崩れ落ちる。膝から崩れ落ちて俯いた陽菜乃の顔を、夜神は陽菜乃の髪の毛を引っ張ることで無理矢理に持ち上げる。


「あのさ、やめてって言われて、やめるわけねぇだろ?」


 怒りの込められた表情と声で、夜神は陽菜乃を睨みつける。俺は恐怖を覚えた。その恐怖は、もちろん、痛みを加えられるのが怖いという感情でもあったが、それ以上に、目の前の人間に対する感情の方が大きかった。こいつらは、本気で俺たちを痛みつけようとしているのだという事実。その事実に、俺は恐怖した。他人から、悪意を込められた本気の暴力を食らうのは俺の人生初の経験だったのだ。


 陽菜乃の右頬が強く打たれる。その次は左、そしてまた右。いわゆる往復ビンタだ。手の平と甲で連続的に頬を叩かれる、皮膚への鋭い痛みに陽菜乃は顔を歪ませた。当然、痛みは俺にも伝わり、俺も必死でそれを耐えた。


「たばこ」


 何往復かビンタを終えた後、夜神は後ろに立っている冬尾を見て言った。その三文字の言葉が俺の記憶を想起させる。昨日、いや厳密に言えばおととい、俺が風呂場で見た陽菜乃の腹部の火傷痕。あれは煙草を皮膚に押し当てたことによるものだった。それを今、ここで、もう一度やろうとしているのか。


「や、やめて! やめてください!」


 陽菜乃が悲鳴を上げると、夜神は満足そうに笑った。


「だったら舐めた口きいたこと、謝らないとね。土下座」


 夜神が床を指差す。陽菜乃の髪から手を離して、解放する。陽菜乃の目に涙が溜まっていく。


(嫌だよ、諦めたくないよ。神様、私、諦められないよ!)


 その言葉は俺に言っているわけではなかった。しかしあまりにも強いその心の叫びは、身体を共有する俺の心にも聞こえてきた。


(諦められない。部活して、友達とお喋りして、勉強して……! 人生でたったの三年間しかない高校生活を、私は——)


 陽菜乃は膝をつき腰を曲げ、頭を深々と下げる。両手を床に接着させて、額を床に擦り付ける。一つ一つの動作に陽菜乃の執念に似た意思を感じる。


「もう、許してください……! もう、いじめないでください……! 私に普通の生活を送らせてください……!」


 半ば泣き叫ぶように言う陽菜乃。その声を聞いているだけで気が狂ってしまいそうな、過剰な感情の詰め込まれた言葉に、俺は心の中で息を呑んだ。


 場がしんとする。タバコの匂いが充満した室内は陽菜乃のか細い泣き声のみが響いている。


 陽菜乃の心の底からの叫びは三人の耳に間違いなく届いた。彼女らが人間である以上、今の叫びに心を動かされないわけがなかった。そのはずだった。


「何こいつ。ウケるんだけど」


 嘲笑のあと、再び、陽菜乃の髪の毛が引っ張られる。夜神は嘲笑いを顔に浮かべたまま、また陽菜乃の腹を蹴り上げた。


 もう、限界だろ。俺は思うと同時に動いていた。


「お前、それでも人間かよ!? こんなに必死に謝ってんのに、何も感じないのかよ!」


 夜神の胸ぐらを掴んで、俺は言い寄る。目には涙。しかし怒り顔。すごい形相だと、自分でも思った。


「うざ」


 しかしたった二文字で、俺の訴えは反故ほごにされる。理不尽だ。俺はここで、たった今、初めて理解した。この言葉の真意を。全ての意思と努力を関係なしに打ちのめされる、この果てしない不条理を。


 俺だって、理不尽という言葉を知っていたはずだった。野球の強豪校に入学して、厳しすぎる現実を知ったはずだった。でも、こんなじゃなかった。練習すれば少なからず上手くなった。理にかなったフォームを身に付ければ打率が上がった。ウェイトをすれば筋肉がついた。決して簡単ではなかったけれど、そこには報いがあった。救いがあった! 


 夜神さんが俺の腕を振り解き、握られた拳が俺の喉に突き刺さった。喉元を殴られて、俺は呼吸困難に陥る。


 息苦しさに耐えかねて、俺は俯いた。きっと、陽菜乃も苦しんでいるだろう。左手が勝手に喉を抑える。


 俯きながら、俺は後悔をする。安直だった。「いじめ」なんて、もっと簡単に解決できるものと思ってた。違った。こんなに明確な悪意によって行われているとは。こんなに「理不尽」だとは。


 夜神が俺の右腕をロックする。来手が左腕をロックする。身動きが取れなくなった俺を、タバコを咥えた冬尾が見下ろしてくる。冬尾は悦に入った表情で、紫煙を吐き出した。


 制服とシャツが捲られて肌が露わになる。「やめろ!」と叫びながら、俺は必死に抵抗した。しかし、二人掛かりで押さえ込まれた華奢な陽菜乃の身体は完全に封じ込められていて、諦めざるを得なかった。


(ごめん、陽菜乃! こんな辛い現実に連れ出してしまって、ごめん!)


 俺は身体で涙を流しながら、心の中で陽菜乃に謝った。今思えば、陽菜乃は家に閉じこもることで、自分の身を守っていたんだ。それを俺が無理矢理に、外へ連れ出してしまった。現実を軽視していた、バカな俺が! 

(違うよ! 私は自分の意思で来たんだよ!)


 陽菜乃が潤んだ声で否定をしてくれた。


(闘ったよね? 私。頑張ったよね? 私)


(頑張ったよ! 陽菜乃は自分のベストを尽くした!)


 怯えながら震えながら、自分の信念を突き通して、陽菜乃は立ち向かったんだ。陽菜乃はすごい。陽菜乃は頑張った。もし神様がいるのなら、これ以上、この子に何を望むのだろう。


 タバコを片手にした冬尾が陽菜乃の下半身に伸し掛かる形で組み敷いた。煙吹く凶器が、陽菜乃の痣だらけのお腹に、ゆっくりと近付いてくる。悪魔のような顔をした三人が、まるで宝箱の中身でも見るように、陽菜乃の腹部を覗き込んでいる。ゆっくり、ゆっくり、焦らすように、タバコの火はもうすぐ着陸する。


 ————そのとき、目が合った。冬尾の後ろに立っていた少女の、恐ろしいまでの怒りの目と。


 激怒した少女は冬尾の制服の後襟うしろえりをぐっと掴んで、思い切り後方へ投げ飛ばした。冬尾の身体は信じられないくらい吹き飛ばされ、壁に激突する。陽菜乃の肌に押し付けられる寸前だったタバコは冬尾の手から、少女の足元へと落下した。怒れる少女はそれを思い切り踏み潰す。


「お、音無……」


 夜神の声が震える。陽菜乃を解放し、来手と一緒に立ち上がる。


「な、何しに来たの……? あたしら、遊んでただけなんだけど」


 夜神の言葉に、優衣は一切の返答をしなかった。代わりに、一歩進んで、夜神との距離を詰めた。手を伸ばせば相手に余裕で届くほどの間合いだった。


「くそ!」


 夜神は短く叫び、蹴りを繰り出す。夜神の先制攻撃だ。「あぁっ」と陽菜乃が声を上げた。見事に、夜神の蹴りが優衣の脇腹にヒットしてしまった。


 しかし優衣は微動だにしない。夜神のキックも意にも介さず、それどころか鼻で軽く笑った。そして優衣は陽菜乃の方を見た。怒った表情をやめて、にこりと笑う。


「大丈夫?」


「うん……」


 呆気に取られたまま、陽菜乃は首を縦に動かす。


「行こ?」


 優衣の伸ばしてくれた手を、陽菜乃がぎゅっと掴む。優衣に引っ張ってもらって、陽菜乃が立ち上がる。


 呆然として立つ来手と夜神。二人を無視して、優衣は歩き出した。陽菜乃を連れて、トイレから出て行く。冬尾だけやられて可哀想だから、平等を期すために二人も殴った方が良いと思ったが、口を出さないでおいた。


「陽菜乃が隠したがってるなら、私は詮索しないよ」


 廊下を歩きながら、優衣はそう言った。陽菜乃はそれに対して、「ありがとう」と返す。きっと、優衣は陽菜乃がどういう状況にあっていたか気付いているのだろう。しかし、陽菜乃の意思を尊重してくれているのだ。


 教室の前に辿り着く。夜神たちは追って来てはいなかった。今まで真っ直ぐに前を向いていた優衣が振り返った。陽菜乃と俺ははっとする。優衣の右頬を涙が伝っていたのだ。


「でも、これだけは言わせて……?」


 涙声になって優衣は微笑む。そうして、ゆっくりと陽菜乃に近づいて、陽菜乃を抱きしめた。


「気付けなくて、ごめんね」


 柔らかく温かい抱擁ほうよう。今日、何度目だろう。陽菜乃が涙を流すのは。


「ううん、私こそ……私こそ、ごめんね……! それと、ありがとう……!」


 教室の前だからそれなりに人がいる。けれど、二人はそれをはばらずに、しばらく抱き締め合っていた。これが、いわゆる百合というものか。俺はぼうっと考えていた。


 結局、優衣に助けられる形になってしまった。優衣に最大限の感謝をしつつ、俺は、自分の無力さを呪った。でも、結果として、陽菜乃が助かったのなら、それで良いのかと思い直す。大切なのは俺の活躍じゃなくて、今、陽菜乃が幸せかどうかだ。


「ねぇ、お弁当食べよ」と、優衣が切り出す。


「え、でも、私今日は持って来てないや」


「大丈夫、大丈夫! 私のお弁当、人よりたくさん入ってるから」


 そんな会話をしながら、教室に入ると、クラス中の視線が陽菜乃と優衣に集まった。そりゃそうだ。教室の前で涙ながらに抱き合っていた奴らが入室してきたら、誰だってそっちを見る。


「なになに、みんなして! 何でもないから気にしないでよー!」


 真っ赤になりながら誤魔化す優衣。同じく顔を紅潮させて、あたふたとする陽菜乃。二人はこそこそとしながら、自分たちの机に座った。


(タツベーさん、本当にありがとう)


 席に着いて、陽菜乃が俺に語りかける。


(ん? いやいや、俺はあんまり役に立てなかったよ。ごめんな)


(そんなことないよ。タツベーさんが私の身体に来てくれたことから、全部が始まったんだよ。本当に、ありがとう。今の私があるのは、タツベーさんのおかげです)


 嬉しいことを言ってくれる。あんまり表情を出すと陽菜乃の顔にそれが反映されて、陽菜乃が変な子に見られてしまうから、普段は抑えているのだが、この時、俺は思わず照れ笑いした。俺の役目もこれで終わりかな。


(そう言ってくれると嬉しいよ)


 ふと、陽菜乃が窓から空を見上げた。なるほど、今日の空は気持ちの良いくらいに真っ青で、絶好の野球日和だった。



***   ***   ***

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