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机の下の友情

***   ***   ***


(陽菜乃、聞こえる?)


(本当だ、すごい、聞こえるよ!)


 登校中、俺たちは心の中で相手を強く念じながら喋ると、相手に声になって届くのだという発見をして大はしゃぎした。これならば、授業中やらといった普段の生活でも会話することが可能となる。


(この話し方だと、タツベーさんの本当の声で聞こえる)


 陽菜乃がどことなく興奮した声で言った。陽菜乃の身体を借りて喋ってた時は当然、陽菜乃の声が出るけれど、心の声で会話したら俺の声で聞こえるということか。なるほど。


(そんな声です。はい)


 少し気恥ずかしさを覚えつつ、俺は笑った。


 俺は歩こうとしていないのに身体が勝手に歩き、そして歩いているという感覚は伝わってくる。学校に行くまでの間、俺は感覚を共有したロボットにでも乗っている気分だった。もしかしたら、将来は脳の神経系をジャックして、勝手に身体を動かすような装置ができるかも? なんていう妄想を広げていた。


 教室の前に到着する。時刻は八時十五分を少し過ぎたところである。陽菜乃の顔が強張っていくのを感じる。


(緊張してる?)


 陽菜乃に訊いてみる。すると、陽菜乃は言葉を発さずに、小さく短く頷いた。緊張するなと言う方が無理だろう。この教室の中には陽菜乃をいじめている張本人がいるのだから。


 短く息を吸い込んで、陽菜乃は教室のドアを開けた。数人の視線が、教室に入ってきた陽菜乃に集中した。そのうちの何人かは少し驚いた表情を浮かべている。


(昨日、何も言わずに早退したから、みんなビックリしてるんじゃないかな)


 と陽菜乃が教えてくれた。なるほど、たしかに、そんなクラスメイトがいたら注目もするし、驚くのも無理ないだろう。


(それで、陽菜乃をいじめてる奴はどれだ?)


 訊くと、陽菜乃はゆっくりと首を動かした。左の方へ向いて行く。教室の後ろの方が視界に入って来た。席の後ろには何人か生徒がいるが、その中でこちらを真っ直ぐに見ている人物がいた。茶色の長髪。口元には下卑た笑みを浮かべている。こいつだな、と俺は直感した。


 今すぐにでも、その首根っこ捕まえてボコボコにしてやりたいが、それでは意味がない。人生共同体とは言ったが、主役は陽菜乃だ。陽菜乃が自分で解決すべきだと、俺は思う。


(俺がはっきりと言ってやろうか?)


 それでも一応、陽菜乃の意思を確認してみる。もしも、陽菜乃が俺の手助けを望むのなら、陽菜乃の成長がどうだとか関係なく俺がやろう。たしかに、この問題を陽菜乃自身が解決することは大事だが、一番大切なのは、陽菜乃が今日から普通の高校生活を送れるようになるのかという、この一点である。


(……大丈夫、私がやる)


 俺の問いに対して、陽菜乃は確固たる意思の込められた声で返事をした。すると、次に少し照れたような、言い出しにくそうな口調で、


(でも、もしもの時は……助けてくれたら嬉しいな)とも言った。


 俺は嬉しさから、思わず笑ってしまう。どうやら俺と陽菜乃の信念は、しっかり一致しているようだった。


 陽菜乃は自分の席へ歩いた。隣の席にはもう優衣が座っている。優衣は少し俯き加減で、陽菜乃が来ても——もちろん、気付いているのだろうけど——こちらを向こうとはしなかった。


 陽菜乃の表情が、また強張るのを感じる。カバンを机の横のフックに掛けて静かに座ると、そのまま黙って教科書やノートを机に仕舞い出す。


 なぜお互いに一言も交わさないのだろうと、俺は違和感を覚えずにはいられなかった。少なくとも、優衣に関しては、彼女は友達と目が合えば即座に抱きつきに行くような人間だろうに。


(陽菜乃? 優衣に挨拶しなくて良いのか?)


 俺が陽菜乃の口を動かして、優衣に勝手に挨拶をしても良かったのだが、何か事情があるのかもと思って、一度陽菜乃に確認してみる。


(あのね、実は、私と優衣ちゃんが仲良くしているところを見つけたら、優衣ちゃんにも酷いことするって、脅されて)


(はぁ? なんて酷い奴だ)


 陽菜乃を友達から遠ざけて、孤立させようという魂胆か。卑劣なやり方だ。


(でね、私、優衣ちゃんに酷いこと言ったんだ)


 陽菜乃の声のトーンが下がる。


(あんまり仲良し面しないでって、言っちゃった)


(あぁ、なるほど。優衣を自分から遠ざけるために)


(でも、その時は私もすごい落ち込んでて、八つ当たりみたいに言っちゃって)


 陽菜乃の落ち込んだ声を聞いて、俺は彼女を責めることはできなかった。たしかに、優衣の今の様子を見るに、陽菜乃が優衣になかなかキツイ台詞を言ってしまったことは想像できる。けれど、それは元を辿ればいじめの犯人の脅しのせいだ。やはり憎むべきはそいつだろう。


(うーん。今、仲良くして優衣がターゲットにされるのは避けたいから、まずは問題を解決してから謝るのはどう?)


(うん……そうだよね、まずは、夜神さんたちを何とかしないと)


 俺の提案に、陽菜乃は同意した。夜神さんというのが、陽菜乃を虐げている人物か。そう察して、俺は「それがいいよ」と頷いた。


「ひ……陽菜乃!」


 唐突に、隣の席に座る優衣が声を上げる。俺も陽菜乃も驚いて、肩がびくんと跳ねた。優衣はこちらを向いていない。俯いたままであった。


「あの、ごめんなさい……」


 ぽつりと、優衣が言う。殆ど消え入りそうな声だった。普段の優衣からは信じられないほどのしおらしさ。陽菜乃に言われたことが相当にショックだったと見える。


(陽菜乃! やっぱり優衣に全部話してさ、協力してもらうのはどうだ? きっと優衣は力を貸してくれるぞ)


 優衣の落ち込んだ姿が見るに堪えず、俺は思わず陽菜乃に提言していた。これは、俺も考えたことだ。


(ダメだよ。優衣ちゃんを巻き込みたくない)


 陽菜乃が即答する。そうだ。俺もそう思って、優衣に相談するのをやめたんだ。だから、陽菜乃のその言葉に、俺は何も言うことができなかった。


(でも、かわいそうだ。陽菜乃も、優衣も……)


 二人とも友達なのに、朝の挨拶もまともに交わせないなんて。俺も優衣には思い入れがあるし、友達だと思っている。優衣と交流できないのは俺にとっても辛いことなのだ。


 陽菜乃は優衣に何かを言おうとして、けれど何も言えなくて、歯を食いしばった。ちらりと、陽菜乃が教室の後ろを確認する。すると先ほどの茶髪の女生徒がスマホを見ているのが見えた。それを見た途端に陽菜乃が素早く左手を伸ばす。伸ばした先は優衣の右手だ。茶髪の女生徒にバレないように素早く、しかし優しく、陽菜乃が優衣の右手を握った。


 はっとした表情で、優衣が顔を上げる。口をぽかんと開けて陽菜乃を見つめるその目には、微かに光るものがあった。涙の痕跡に俺は心を痛めた。


「ひ、陽菜乃……?」


 優衣は眉根を下げるが、陽菜乃は何も言わない。ただ、優衣の右手を握り続ける。皮膚を介した体温の交換。優衣がゆっくりと陽菜乃の手を握り返す。机の下の、誰にも見えない場所で繋がれた手は、きっと、陽菜乃ができる最低限で唯一のコミュニケーションだ。


「……もうちょっとだけ、待っててね」


 陽菜乃がごくごく小さな声で囁いた。優衣はその言葉の真意が読み取れないようで、ますますきょとんとした顔になる。


 不意に朝のホームルームの時間を告げるチャイムが鳴り、担任の先生がやる気にみなぎった足取りで入室してくる。陽菜乃は名残惜しそうに優衣の手を離した。


 なかなかに大胆な行動だったな。と俺は心の中で息を吐いた。優衣には伝わっただろうか。陽菜乃のどうしようもないもどかしさが。陽菜乃には伝わっているだろう、優衣の戸惑いといじらしさが。


 授業が始まる。俺がおととい優衣と一緒に授業を受けていた時は、先生の目を盗んで筆談をしていたが、今日はそれすらもなければ、陽菜乃は一度たりとも優衣の方を見なかった。ただ、優衣の方からは何度も視線が飛んできているのを感じた。きっと、さきほどの陽菜乃の行動の真意を探ろうとしているのだろう、と思った。


 さて、午前の授業が終わり、昼休みになった。チャイムにそそのかされるようにクラスの生徒たちがざわめき始める。一目散に購買に駆けて行く二人組。一つの机に集まる仲良しグループ。黒板の文字を消そうとする日直と、それに待ったを掛ける生徒。そんな教室の中で、陽菜乃は深呼吸を繰り返していた。


「ねぇ、陽菜乃」


 優衣が弱気な口調で言う。それと同時に、陽菜乃の机の前に、一人の生徒が立ちはだかった。茶髪の女生徒だ。


「夜神さん」


 陽菜乃の口から出た名前は、陽菜乃をいじめている主犯の名前だった。なるほど、朝に見たこの茶髪が夜神なのかと、俺は今、納得する。


「おはよ。あれ、葛西と優衣って仲良いの?」


 優衣と陽菜乃の顔を順々に見て、にやりと笑う夜神。優衣と陽菜乃の仲をわざわざ確認する卑怯極まりない質問だった。


「全然。早く行こうよ」


 しかし、きっぱりと言って、陽菜乃は立ち上がる。その目は夜神をまっすぐに睨みつけている。その視線を受けて、夜神は小馬鹿にするように笑った。「行こうか」と行って、歩き始める。陽菜乃の大切で過酷な闘いが始まるのだと俺は悟った。


「待ってよ! 夜神ちゃん、私、陽菜乃と話があるの!」


 夜神の後ろに付いて、歩き始めた陽菜乃の背中に優衣が叫ぶ。陽菜乃は痛烈そうに顔を歪ませた。夜神の前では優衣を無下に扱うしかないから、それゆえの痛みだと思われる。


「だってよ葛西」


 夜神はその陽菜乃の心理状態を見抜いているのだろう、面白がるように笑いながら、陽菜乃に会話を回した。狡猾で卑劣な夜神の挙動に俺は怒りを必死で抑える。


 陽菜乃は数秒の間、黙した。必死で何かを考えているようだった。


「ごめん」


 そうして陽菜乃が絞り出した三文字の言葉。決して優衣の方を向かず、床に吐き捨てるような言葉。優衣は何を思っただろう。俺が考えているうちにも陽菜乃は歩き出して教室を出た。


(タツベーさん、私、優衣ちゃんにひどいことを……)


 潤んだ声で陽菜乃は言う。しかし顔は真顔なのだから、陽菜乃は強い子だ。


(何も間違ってないよ。陽菜乃は、『優衣を巻き込まない』っていう、自分の信念に従ったんだろ? それで良いじゃないか)


 俺の言葉がどれだけの励ましになったかは分からない。陽菜乃は唇を引き絞った。


「ちゃんと私の言った通り、音無優衣と関わらないようにしてるみたいだね」


 先に教室から出た陽菜乃を追うようにして出てきた夜神が嬉しそうな表情をしている。陽菜乃が短く「うん」と返事をすると、夜神は満足げに笑って、廊下をずんずんと歩き始めた。途中、スマホで誰かに連絡を取るような仕草をしながら、夜神は廊下でゆっくりと歩を進めた。陽菜乃は黙って、それに付いて行く。


(がんばれよ、陽菜乃)


 道中、俺は陽菜乃に声を掛けた。陽菜乃はそれに対して、力強く首を縦に振ってくれる。陽菜乃も緊張しているだろうが、俺も緊張していた。そして俺には一つ、心に決めたことがあった。もし、陽菜乃が限界になったら、俺が代わろうという決心だ。俺に何ができるとも限らないけれど、精一杯、陽菜乃を守ろう。


 夜神に連れてこられたのは、薄暗く人気のない廊下に面した女子トイレだった。 なるほど、たしかに、これなら人にバレる確率は大分下がるだろう。よく見つけたものだ。


 トイレが目に入った途端、足が震え、呼吸が荒くなり始める。どちらも俺の意思によるものではなかった。陽菜乃の心が怯えているのだ。


(大丈夫か!?)


 心配して、俺は陽菜乃に声を掛けた。陽菜乃はすぐには答えなかった。代わりに、右足で床を強く踏みつけた。タンッ! という破裂音に似た音が廊下に鳴り響く。反動で右足が少し痺れるが、それと引き換えに、震えはおさまっていた。


(見ててね、私の最後の闘いを)


 陽菜乃の力強い言葉が伝わってくる。俺は陽菜乃の右手を動かして、陽菜乃の左手をぎゅっと握った。


「何してんの?」


 夜神が振り返って、訝しげに陽菜乃の足元を見つめた。足を踏み鳴らしたことを指摘しているのだろう。しかし、陽菜乃が「なんでもない」と首を横に振ると、夜神はそれ以上言及してはこなかった。


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