鉢合わせる二人
少し長く寝てしまっていたらしい。頭がガンガンする。
何時だろうか。思ってスマホを開くと、なんとまだ朝の四時になったばかりだった。たしかに、部屋の中はまだ真っ暗だ。これは参った。もう一度寝るべきだろうか。
ゆっくりと起き上がってみる。目が慣れてきた頃に辺りを見渡してみると、昨日と同じ、葛西陽菜乃さんの部屋の中だった。もしかしたら自分の身体に戻っているかもしれないと思ったが、やっぱりこの身体のままらしい。だが、それで良いのだ。俺はこの子を救うまでは、頼まれても自分の身体に戻るつもりはない。
昨日風呂場で見てしまった火傷の痕や痣が今でも鮮明に脳裏に浮かび上がる。なんて痛々しい。聞けば、タバコで付けられた火傷の痕は自然には決して消えないらしい。つまり一生ものの傷をつけられたのだ。何者かによって。その何者かと葛西さんとの間に何があったのかは知らないが、到底許されることでは無いだろう。
どうも目が覚めてしまったらしい。俺の身体だったら、軽く町内をランニングでもするのだが、どうしたものか。少し考えてから、俺はとりあえず起床した。電気をつけず、暗闇の部屋の中を徘徊してみる。その時だった。ぴりりと、俺の脳に電撃が走るような感覚に襲われた。鋭い痛みに、俺は膝から崩れ落ちる。生きていれば頭痛なんて何度も体験するが、こんな種類の痛みは初めてだ。
「なんか、頭痛い……」
口が勝手に動き、言葉を紡ぐ。俺は衝撃のあまりピタリと動きを停止した。すると、今度は身体が勝手に動く。俺は決して意図していないのに、立ち上がりベッドに戻ろうと動き始めた。
「うわぁ!」
目の前で起こる超常現象に俺は悲鳴を上げた。
「……うわぁ!?」
俺の悲鳴に続いて、口が勝手に悲鳴を上げる。俺は絶句した。俺の脳はそんな指示を出していないのに、なぜ身体が勝手に動くのだ。
「え……? 何が起こってんの……?」
まただ。勝手に口が動く。誰かが俺を操っているのか? わからない。見当もつかない。……会話できるのか? してみるか?
「俺が訊きたいよ。何が起きてるんだ?」
勇気を出して、俺自身もとい俺を操っている何者かに問いかけてみた。
「だ、誰?」
何者かは俺の身体を使ってそう言った。おどおどした声音。恐ろしさを感じているのは俺だというのに。
「それもこっちの台詞だ! お前こそ誰だよ!」
少し強気に出てみる。ビクビクと身体が震えるのがわかった。
「わ、私は……葛西陽菜乃と言います」
「葛西陽菜乃!?」
何者かが口にした名前に俺はびっくりする。そうして数秒後、今、何が起きているのかを悟った。帰って来たのだ。葛西陽菜乃さんが自分の身体の中に。それじゃあ、むしろ俺が異常者であり、さっき俺が言うところの「何者か」だったのか。
急に恥ずかしくなって、俺は黙りこくった。なんと言ったら良いのだろう。「お邪魔してます。昨日からこの身体をお借りしています」とでも挨拶すれば良いのだろうか。
「ええと、すみません。俺は昨日からあなたの身体に住まわせてもらっている者なんですけれども」
言っていて、自分の台詞の異常性に気づいた。しかし口から出てしまった言葉はもう口の中には戻らない。
「え、えぇ……!?」
思った通り、俺の言葉は葛西陽菜乃さんを大いに動揺させたらしかった。足がぷるぷると震えてきた。
「あ、あぁ……! ええと、違うんだ。あの……なんて言えば良いのかな」
とにかく彼女の警戒を解きたい。数秒間じっくり考えて、言葉を選びながら俺はゆっくりと口を開く。
「俺は……昨日、君だったんだ。気付いたら、君の中にいて……それで、葛西陽菜乃さんとして、昨日を過ごした。信じられないだろうけど、本当なんだ」
俺のできる精一杯の説明をできたと思う。彼女は俺の言葉を受けて何を思っただろう。何も反応をせず、ただ俺の様子を伺うように沈黙を貫いている。
「えっと……葛西さん?」
「名前は……?」
か細い声で彼女は言う。
「はい?」
「あなたの名前……」
あぁ、俺の名前か。俺は彼女身体を借りて部屋の電気をつけ、机に向かって歩いた。机の上のペンを右手に取り、自分のできる限りの丁寧な字で、一文字ずつ書き記す。
————東雲 竜平。俺の名前だ。
「しののめ……たつべー?」
「ち、違うよ! りゅうへい!」
苗字が読めないと指摘されたことは何度かあるが、下の名前を間違われたのは初めてだ。しかも、かなり間抜けな響きに変わってしまっている。ゆえに、俺は必死に抗議した。
「……あははは」
彼女はそんな俺の反応を見てくすくすと笑った。
「なんか、悪い人じゃなさそう」
笑い顔のまま言う葛西さん。どうやら警戒を解いてくれたようで、俺はほっとする。
「えっと、なんで俺が君の中にいるのか、知ってる?」
「……すみません、わからないです」
「そっか……俺も分からないんだ、なんでこんなことになっているのか。ごめん」
「い、いえ。気にしないでください。仕方ないですよ、こんな漫画みたいな話」
謝る俺に、葛西さんはそう言ってくれる。俺と彼女との会話は、端から見たら独り言を喋っているように見えることだろう。それを思うと、なんだかおかしかった。
しかしながら、葛西さん自身にも原因がわからないのだとすると、いよいよ本当に原因不明の現象になった。とはいえ、何をしたら元に戻るという正解はわからないし、葛西さんには申し訳ないのだが、このまま、この身体に居させてもらう他にない。
「とりあえず、俺が昨日やったことを報告しとくよ」
「ま、待ってください。その前に、あなたのことをもっと教えてください」
もしかして俺に興味があるのかな。と一瞬思ったが、今の質問はそういう意味じゃないだろう。単純に、自分の身体に得体の知れない人間がいるのを気味悪く感じたのだろう。
「そうだよね。まずは自己紹介しなくちゃ……ええと、俺は東雲竜平です。高校三年生で、野球をやっていて、将来の夢はプロ野球選手……」
言いながら混乱してきた。自己紹介をすることなんてそんなになかったから、何て言ったら良いか分からない。とりあえず、俺の人生は野球にまみれたものだから、野球が好きですとだけ言えば九割はオッケーだと思う。
「やっぱり、野球をしてる方なんですね」納得したように葛西さんが言った。
「え、なんで知ってるの?」
「だって、優衣ちゃんと野球したみたいだから」
「え、なんで知ってるの」
思いがけず、言葉を繰り返してしまう。たしかに昨日、俺は音無優衣と野球をしたが、それを葛西さんが知っているはずがない。昨日はこの身体に、俺一人しかいなかったのだから。
「あの、あなたは勘違いしてるみたいですけど、多分、あなたのその記憶は四月十二日のもので、今日は四月十四日なんです」
葛西さんが説明するような口調で言った。俺は首を傾げて、
「じゃあ、十三日は?」と問う。
「言い方は変ですけど……私が担当しました……?」
葛西さんが語尾を変なふうに上げる。たしかに変な言い方だ。けれど、この現象を表すには適当かもしれない。
「じゃあ、俺が十二日を担当して、その次の日を君が担当して……」
「今が十四日の明け方です」
「ターン制なのかな?」
「うーん……まだ何も言えませんね」
まったく、なんて複雑な現象だろう。わからないことばかりだ。
「ちょっと、身体動かしますね」
葛西さんが遠慮気味に断ってから、机から席を立った。ゆっくりとした歩調で部屋から出て行く。別に自分の身体を動かすのに、いちいち断りを入れなくて良いのに。俺の方が余所者なんだから。
「何か飲みませんか?」
キッチンへ来て、電気をつけると、葛西さんは提案した。
「葛西さんの身体なんだから、飲んだり食ったり、好きにして良いんだよ」
「でも……」
「基本的に、俺は身体を動かさないようにするからさ。葛西さんはいつも通り過ごしてよ!」
言うと、葛西さんは「わかりました」と頷いて、冷蔵庫から牛乳の紙パックを取り出した。コップに注ぎ、それをテーブルに運ぶ。
「牛乳が好きなの?」
テーブルに着いた葛西さんに訊いてみる。
「好きです。なんか、リラックスできる気がして」
葛西さんが微笑んだ。一口して、ふぅとため息をつく。口いっぱいにミルクの甘みが広がって、なるほど、気持ちが少し落ち着く気がした。
「あれ……味って感じるんですか?」
「うん。ばっちり味するよ。コップを持ってる感覚もあるし。こうやって、手も動かせる」
葛西さんに示すために俺の意思で葛西さんの左手を動かしてみると、葛西さんの目が見開くのがわかった。
「すごい……喋れるだけじゃないんだ」
「ごめん。気持ち悪いよね」
「い、いえ! 気持ち悪いって言うより、感動の方が大きいです!」
大きく被りを振って、葛西さんは否定してくれる。けれども、自分じゃないものの意思によって自分の身体が動かされるなんて、どう考えても気持ちが悪いはずだから、今後は控えよう。なんと言ったって、この身体はこの子のものなのだから。
とは言いつつも、人間には無意識にしてしまう動作や、反射的にしてしまう動きなどがあるから、それら全てをコントロールするのは難しそうだ。
「もしかして、私の心も読めたりするんですか?」
「いや、それはできないかな。感覚は共有してるみたいだけど……心を読んだりするのは多分無理だね」
葛西さんが興味深そうに尋ねて来たので、俺はありのままを答えた。
「なるほど……なんか、色んなルールがありそうですね」
たしかに、葛西さんの言う通り、この現象はまだまだ解明できそうにない。肝心の、俺がどうしたら自分の身体に戻れるかという点については、手がかりすらないのが現状だ。
しばらくの間、沈黙が流れる。まだ日も出ていない時間帯だから、辺りはやけに静かだ。呼吸の音と、キッチンから聞こえる水の落ちる音。それから時折、外から響く車のエンジン音。音の世界には、これくらいの登場人物しかいなかった。
「私のこと、どれくらい知ってるんですか?」
そんな静かな世界の中に、葛西さんがゆっくりとした口調で侵入する。
「高校一年生で、星の丘女子高校に通っていて……それくらい?」
俺が答えると、葛西さんは眉根を下げて黙ってしまった。本当にそれだけか? と疑うような、そんな雰囲気だ。たしかに、俺は葛西さんについて、もう少し深く知っている。でも、それら全てはシビアな問題だ。俺がいきなり、「君はいじめにあっているだろう」などと言うのは、無遠慮な馬鹿のすることだ。もっと、遠回しに言うか、できることなら葛西さんの口から、その話題を出してもらいたい。
再び、場を沈黙が支配した。俺は何も言い出せずにいた。ただ、何をしたいかは明白だった。この子を救い出してあげたい。それだけなのだ