飛び散る鼻血と漂う酢の香と
中学のとき、私は夜神さん、来手さん、冬尾さんの主にこの三人からいじめにあった。原因はほんの些細なことだった。私と夜神さんは同じ陸上部に所属していて、そのとき、私をとても贔屓してくれた男子の先輩がいて、その人が夜神さんの好きな人だったっていう、それだけの理由。たったそれだけの理由で、夜神さんは友達と一緒に私を虐げ始めた。先輩が中学を卒業して、私たちが三年生になっても、暴力や嫌がらせは止まらなかった。私が陸上部を退部しても、それは続いて、ついに私は不登校になった。
「おそーい。待ちくたびれたよ」
「ごめんごめん、連れてくるのに手間かかちゃって」
文句を言う冬尾さんに夜神さんが両手の平を合わせて謝る。それを見て、来手さんがあははと笑っていた。三人のやり取りをぼんやり眺めながら、私は吐き気が出るほどの嫌悪感に襲われていた。なんで、ここにこの三人が揃ってしまったのかと、神様を恨みたい気持ちになる。
『高校からやり直せば良いんじゃない?』
私が中学校に通わなくなったとき、お母さんは特に詮索することなく、そう言ってくれた。中学校の先生たちも、内申点は上げられないけれど卒業はできるから、私立高校なら問題なく入学できるだろうというアドバイスをくれた。私はその言葉を信じ、必死に勉強した。うちは片親だから、家計に負担をかけることはできない。だから、私はまず学費全額免除の特待生制度のある学校を探した。そして、その特待生に確実に選ばれるように、自分が本来受かるレベルから、かなりレベルを落として学校を選んでいき、その中から、徒歩で通える(つまり交通費が掛からない)この高校を受験したのだ。
私の中学校は生徒の九割が公立高校志望だ。だから私立高校に行けば、夜神さんたちと一緒になることはないと思っていたのに。聞けば、彼女らは全員一緒の高校を志望し、全員がそこを落ちたため、滑り止めのこの高校に進学したと言う。
「まーま。とりあえずさ、葛西、そこに座りなよ」
夜神さんが私に指示をする。トイレの床なんて汚くて座りたくないけれど、もちろん、私には拒否する権利がなければ勇気もない。
私が床に正座をすると、三人は私の目の前に並び立った。三人の顔を見ないように、私は俯いた格好になる。
「ねぇねぇ、なんで学校休んでたわけ?」
夜神さんが俯いた私の顔を覗き込むようにして訊いてくる。私は顔をしかめた。お前たちのせいだと、言ってやりたくなった。
「か、風邪で……」
しかし反抗せず、反応せずというのが、この場を穏便に且つ早めに済ますための秘訣だ。俯きながら答えると、突然に、夜神さんが私の髪の毛を掴んで引っ張り、私の顔を強引に持ち上げた。痛みに顔を歪める私を夜神さんは嬉しそうな顔で見てくる。
「ふぅん……治って良かった。じゃあ、遠慮いらないよね」
ドス、という鈍い音がする。夜神さんのつま先が私のみぞおちに勢いよく突き刺さったのだ。痛い。息ができない。私はその場でうずくまろうとしたが、夜神さんが私の髪の毛を引っ張り上げているのでそれは叶わない。
早く終わってくれ。私は心の中で願う。早く終われ、早く終われ。昼休みが短くなってしまう。早く帰って、優衣ちゃんと一緒にお弁当を食べるんだ。
もう、こいつらの行動は下らないオプションだと考えよう。私の高校生活の下らない副産物。私の高校生活の本番はこれじゃない。優衣ちゃんとお弁当を食べたり、野球部で一緒に練習を頑張ったり、他にもたくさん友達を作って……たくさん良い思い出を作ろう。こんな辛いこともかき消しちゃうくらい楽しい思い出を。
「ねぇ、音無優衣と仲良いの?」
私の心を読んだような発言をする夜神さん。私は驚いて息を呑んだ。そして、その質問の意図を考えた。本来の答えはイエスだが、それを言ったら何か不都合が起きないか、頭をフル回転させて考える。
「誰? 音無優衣って」と来手さんが夜神さんに訊く。
「野球部」
「うわ、野球部!?」
夜神さんが即答すると来手さんが仰天するような声を上げた。どういう意味だろうか。優衣ちゃんが野球部だと、何かおかしいのだろうか。
「で、どうなの?」
夜神さんが語気を強め、私を問い詰める。私は観念して頷いた。しかし、それを見て冬尾さんが首を傾げる。
「でも、おかしくない? クラスで孤立させるために噂流したんじゃないの。なんでクラスの野球部の奴と葛西が仲良くなってんの」
「流したよ。RINEのグループチャットにさ。でも、その野球部のやつはガラケーらしくて」
「あぁ、RINEやってないから、噂知らないってことかぁ」
夜神さんと冬尾さんが作戦会議のような会話をしていた。知らない情報がいくつか出てきて、私は混乱した。第一に、噂とは何だろう。どうせ、良くない噂なんだろうけど、どんな内容か気になる。
「どんな噂流したか、知りたい?」
まただ。また、夜神さんにが私の心を先読みするように言う。私の返答を確認することなく、夜神さんは続ける。
「教えてあげるよ。例えばねぇ、葛西陽菜乃は中学時代、人の恋人を盗みまくって嫌われてた……とか。毎晩のように援交してるとか……クスリやってるとか」
「そ、そんなのしてない!」
その内容の卑劣さに、思わず私は叫んだ。根も葉も無い話だ。何の証拠もない。
「その噂が本当がどうかなんて、関係ないんだよ。そういう噂が立っちゃった時点で、お前は避けられるわけ。入学したばっかりなのに、誰も面倒ごとに関わりたくないでしょ。そんな悪者を率先してボコしてる私らは、さしずめ正義の味方ってやつ?」
言って、夜神さんはぎゃははと笑った。その笑い声に釣られるように、他の二人も笑い出す。室内に響く三人の汚い笑い声。私は拳を握りしめた。もしも私に立ち向かう勇気があったのなら、殴りかかっていただろう。けれどそれはあくまで「もしもの話」だ。私は夜神さんたちにバレないように、ゆっくりと拳をしまった。
「そうだ、本題に入ろうよ。ねぇ葛西、お金貸してくれない?」
夜神さんが掴んでいた私の髪の毛を手放す。そうして代わりに床に置いてあった私のカバンを掴み上げて、私に向かって放り投げた。目の前に私のカバンが落下する。中のお弁当は大丈夫だろうかと、私は心配になった。
「お、お金……?」
「そ、お金。貸して。そのためにカバンごと財布持ってきたんだから」
なるほど、そういうことか。夜神さんの台詞に私は納得する。「貸して」なんて言ってるけれど、貸したら返ってくるわけがない。実質的には奪われるだけだ。ただでさえ貧乏なうちの家計から、毎月千円だけ、お母さんが私のお小遣いを捻出してくれているんだ。それを奪われるわけにはいかない。絶対に。
「そ、それは、嫌です……」
私は首を横に振った。久しぶりに、夜神さんたちの命令に逆らった気がする。声は震えているし、恐怖によって、身体中から汗が噴き出してくる。けれど、私はこの微かに燃え上がり始めた抵抗の炎を消すわけにはいかなかった、
「は? もう一回言ってみ?」夜神さんが私を睨む。
「お金は、ダメ……!」私も睨み返した。夜神さんの憎たらしい顔を、私の視線がまっすぐに射抜いた。この視線の圧で諦めさせてやる、そういう意思を込めて必死に睨みつける。
「じゃあ、借りるのはやめるね」
私の視線を避けるように、ため息をつく夜神さん。いきなり私のカバンをひったくり、カバンの中をあさり始める。「やめて!」私は夜神さんに掴みかかろうとした。すると突如として、冬尾さんが私の顔面に蹴りを入れる。私の鼻に冬尾さんの足の甲が激しく衝突して、私は後方へ勢いよく吹き飛ばされた。床に後頭部がぶつかる。鈍い痛みが後頭部に走り、私はその衝撃からか、頭がクラクラした。鼻を触ってみると、鼻血が勢い良く溢れ出していた。
「ナイスキック!」
来手さんが嬉しそうにはしゃいだ。はしゃぎながら、床に倒れこんだ私の横腹を蹴り飛ばす。私は呻いた。呻きつつも、夜神さんの様子を探ろうとして、必死に首を持ち上げた。
「うわ、三千円しか入ってないじゃん。貧乏かよ」
見ると、夜神さんが私の財布から千円札を三枚抜き取っているところだった。やめろ! 私は心の中で叫び、立ち上がろうとした。でも、冬尾さんと来手さんの二人がそれをさせない。すかさず私の腹や背中を中心に強く蹴りつけて私の行動を奪った。
何度も身体を強く蹴られて、ついに私は抵抗するための気力を奪われた。痛みに悶えながら床に仰向けになって倒れた。やけに高いトイレ天井を、歯を食いしばりながら睨んだ。
「なにこれ、葛西の弁当?」
夜神さんが空になった私の財布をカバンに戻すと、今度は私のお弁当を取り出す。大切なお弁当。この後、私が本来の高校生活に戻るための、大切な————
ぐしゃ。切実な願いはあっけなく私の顔にぶちまけられる。酢飯の匂いが漂い、さっきは幸せに感じたその香りは、今や鼻につく異臭にさえ感じられた。私は目を閉じる。意識が暗い海底に沈みこんでいくように、ゆっくり、ゆっくりと、闇の中へ向かって行く。
「きたなーい」
誰の声だろう。私は呆然とする頭の中でそう思った。
「かわいそうだから洗ってあげなよ」
また、誰かが言った。次に、水道の蛇口をひねる音がする。そうしてしばらくすると、私の顔に、身体に、バケツの水をひっくり返したような量と勢いの水が降り注いできた。水と混ざってベタベタする酢飯。肌にへばりつく衣服。すさまじい不快感だが、私は動けない。
「あはは! もっと汚いじゃん。ってか、今日はタバコやらんの?」
「今日は良いでしょ」
「えー、せっかく先輩から、良いタバコもらったのになぁ」
三人の楽しげな会話が耳に入ってくるが、もうどうでもよかった。
「じゃあ、お金も手に入ったことだし、行こーか。……あ、そうだ葛西。音無優衣とこれ以上関わったら、音無優衣もひどい目に合わせるから。それが嫌だったら、縁切って」
去り際に夜神さんが宣告する。足音が遠ざかっていく。今日はこれで終わらせてくれるらしかった。
「もういいや……」
私は呟いた。意識は沈み込んだまま、浮かび上がってくることはなかった。
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