執行宣言
がらら、と教室のドアを開ける。もう八時を過ぎているため、教室にはすでにかなりの人数がいた。私は入学式と、その次の日だけしか登校していないので、当然ながら知らない人ばかりだ。
ちくり、ちくり。教室のあちらこちらから視線が飛んできて、私に突き刺さる。みんな決して私を露骨に見ているわけでなくて、ちらちらと、私に勘付かれないように横目を使って視線を送っていた。けれど中学校の経験から、私はすっかり人の視線や挙動に敏感になってしまったから、そんな風に盗み見てもすぐわかる。嫌なスキルが身についたものだ。きっとみんな、ずっと休んでいた私が登場して、意外に思っているんだろうな。そんな風に思った。
教室の後ろを見ると、長く伸びた茶髪の少女が私を真っ直ぐに見つめていた。にやりと、下卑た笑みを浮かべている。その瞬間、蛇に睨まれた蛙のように、私の動きが停止した。呼吸すらも忘れて、私はその場に立ち尽くした。
ゆらりと、茶髪の少女が立ち上がる。長い髪を揺らしながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。私の目の前に到達して、少女はつり上がった目を細くした。
「おはよう、葛西」
「……お、おはよう……夜神さん」
「よく来たねぇ。嬉しいよ」
言って、夜神さんは満面の笑みを浮かべる。貼り付けの笑顔だ。私はそう思った。
「今日の昼休み、空いてる?」
その夜神さんの言葉に、私の頭は真っ白になった。それは実質上の死刑宣告だった。
「え、えっと……今日は……」
「今日は……? 暇でしょ。ちょっと顔貸せよ」
私の耳元で、語気を強める夜神さん。私は「はい」と小さく答えるしかなかった。夜神さんの顔を直視できない。
「おはよー! 夜神ちゃん!」
私の後ろにいた優衣ちゃんが、教室に入室して来て夜神さんに挨拶する。チッ。夜神さんが優衣ちゃんに見えないように、私の陰に隠れて舌打ちをした。そうして、夜神さんは突然に笑顔を作って、
「おはよー。今日も元気だね、優衣」
と、その笑顔を優衣ちゃんに向けた。夜神さんは他の子には人当たりが良い。それがいじめの発覚を招かない秘訣だと、私に自慢げに話してきたことがある。
「どう? 野球頑張ってるの?」
「うん! リーグ優勝してみせるから期待してて!」
「へぇ……すごいなぁ。てか葛西と仲良いの?」
「陽菜乃? うん、仲良しだよ。もしかしたら、野球部にも入ってくれるかもしれないし」
「ふーん……葛西が野球部……」
夜神さんが優衣ちゃんの言葉を受けて驚いた顔をする。そしてすぐに私に視線を送った。睨みつけるような鋭い視線だった。
優衣ちゃんとの会話を切り上げて夜神さんが教室を出て行く。それを見送って、私と優衣ちゃんは自分たちの席に座った。出席番号順に並んだ席順なので音無と葛西は隣同士だ。
「さっきは勢いでああ言っちゃったけどさ、野球部に入らなくても全然良いからね」
席に座ると、優衣ちゃんは弁明するようにそう言った。私が野球部に誘われているという話は初めて聞いた。きっと昨日の話なのだろう。身に覚えのない話題は昨日の私が体験したことなのだと考えれば良いのだ。だんだん慣れてきた。
野球部か。高校でもし部活に入るのなら、中学と同じ陸上部かなと思っていたけれど、それはもう無理だ。陸上部じゃないなら部活に入る必要はないと思う。でも、優衣ちゃんと同じ野球部という選択肢があるのか。優衣ちゃんと一緒に部活ができたら、それはとても楽しいかもしれない。
「野球部……入ってみようかな」
「え!?」
私が呟くように言うと、優衣ちゃんが元々まんまるな目を余計に丸くした。
「まずは体験だけでも、やってみたいな」
「本当に!? うん! 体験だけでも、仮入部だけでもやってみてよ!」
嬉しそうに優衣ちゃんが笑う。すごく喜んでもらえて、私も嬉しくなった。
久しぶりの授業はついていけないかと思ったけれど、中学校の復習をしているだけだったので十分に理解できた。学費免除の特待生で入っているのだから、せめて勉強だけはできる部類でありたいというプライドがある。それと、人を見下すのは好きじゃないと断った上で言うが、優衣ちゃんは笑えるほどに勉強ができない。多分、九九も怪しいし、英語のbe動詞も使い分けられていない。嘘だろと思った。義務教育とは何なのか。
時刻は昼休みになる。がやがやと、教室が騒がしくなっていく。ある者は教室を出てカフェテリア(という生徒用の休憩スペースがあるらしい)や購買へ行き、ある者は教室に残ってグループで集まり、弁当をつついている。
楽しげな雰囲気に包まれて行く教室の中で、私は怯えていた。夜神さんに「顔を貸せ」と言われた以上、この昼休みに私の平穏はない。しかしながら、昼休みになってしばらくしても夜神さんに動きはなかった。ちらりと後ろの席を見ると、夜神さんは自分の席に座っているだけで何もしていない。
「お弁当食べよ!」
優衣ちゃんが呑気にも、私の隣で自分のお弁当を広げ始める。巨大なサイズの二段弁当だ。一段目には白米が、二段目にはおかずが、これでもかというほどに詰まっている。そういえば、優衣ちゃんは朝礼が始まる前にもコロッケパンを食べていた。そんなに食べて太らないのだろうか。
「うわー。大きいねー」
後ろの席に座っている二人が優衣ちゃんの弁当を見て口を大きく開けていた。二人も弁当組らしい。見れば、机にそれぞれの弁当を並べて食べている。
「いっぱい食べて身体デカくしなくちゃだからね! あ、そうだ。二人も私たちと一緒に食べない?」
優衣ちゃんが気軽に二人を誘った。私的には優衣ちゃんを独占したい気持ちもあったのだけど、二人とも良い人そうだし、友達の輪を広げるという意味では良い提案だと思った。
「あ……あ、ごめんね。わたしらは、二人で食べるよ」
二人のうちの一人が申し訳なさそうな顔になって断ると、もう一人も頷く。ほんの一瞬だけ、しかし同時に、二人の視線が私に送られる。私はぎょっとしたが、偶然だと思って気にしないでおいた。
「そっかー、残念。じゃあ、また今度食べようよ」
一緒に食べるために机の向きを後ろ向きに変えようとしたのだろう、机を動かしかけていた優衣ちゃんはその手を止めて、残念そうに微笑む。私は意外に思った。だって、少し机を動かして、一緒に弁当を食べるだけなのに。そこに何の不都合があるというのか。
でも、断られたのなら仕方がない。私と優衣ちゃんの二人きりのランチが幕を開ける。私はお母さんの作ってくれた弁当を机に出してみた。小さな布巾着の中から一段の弁当箱を取り出して、その水色の可愛らしい外装に心を踊らせる。蓋を開けてみると……。
「わぁ、すごい!」
優衣ちゃんが私のお弁当を覗き込んで声を上げた。たしかに、すごい。白米の上に一面の黄色い玉子焼き。そして黄色い土台の上には花弁をかたどった人参やハム、きゅうり。さらに、とびっこ、かんぴょうなども散りばめられて、彩り豊かに仕上がっている。
なんて素敵なお弁当だろう。私は心の底から感動した。ただでさえ疲れているのに、私のために貴重な睡眠時間を削って、こんな綺麗なお弁当を作ってくれて。
一口、お弁当を食べてみる。玉子焼きの下は酢飯になっていた。これはちらし寿司なのだ。酢飯の酸味と玉子焼きの甘味がマッチして口に幸せな美味しさが広がっていく。噛み締めていくたびに、目の奥が熱くなっていくのを感じた。
美味しいよ。本当にありがとう。心の中で、お母さんにお礼を言った。帰ったら、実際にお礼を言おう。少し恥ずかしいけど。
「あーん」
ぱくぱくと口を開閉させて、優衣ちゃんが私の弁当をねだるようにしている。私は苦笑いを浮かべて、そして苦笑いは照れ笑いに変わりつつ、箸ですくったちらし寿司を優衣ちゃんの大きな口に運んでやった。
「んー! 美味しいー!」
優衣ちゃんが叫ぶ。その目はキラキラと輝いて、両手はわかりやすくほっぺたに添えられていた。美味しいと評してもらって、自分のことのように嬉しい。なんだか誇らしかった。
「私のも、あーん!」
優衣ちゃんが自分のお弁当からウインナーを拾い上げて、私に向けてくれた。やったー。と内心で歓喜の声を上げた、その時だった。
「優衣!」
教室の入り口で、二人の生徒が優衣ちゃんを手招きしている。一人はセミロングの髪の、すらりと背の高い女生徒で、もう一人はふわふわしたボブショートの大人しそうな子だ。二人とも同じクラスの子だと思われる。
「なにー?」
優衣ちゃんが返事をする。優衣ちゃんの持ち上げられた箸が降ろされ、私は口を開けたまま上を向いて、お預けをくらった赤ん坊のような格好になった。なんだよ、もう少しだったのに。不満げに唇を尖らせる。
「ちょっと、ちょっと来て」
「なんだろう、ごめん陽菜乃。ちょっと行ってくるね」
二人に呼ばれるままに、優衣ちゃんが席から立ち上がる。私は嫌な予感がした。その予感に従って、優衣ちゃんに続いて立ち上がる。
「わ、私も……一緒に行って良いかな」
「え? 陽菜乃も? うん、いいよ! おいで」
半ば無理なお願いに、優衣ちゃんは笑顔で頷いてくれた。私はほっとして、優衣ちゃんの背中にぴたりと付いて歩く。横目で教室の後ろを見ると、夜神さんの姿がなくなっていた。どこにいった? どこに。
「葛西、どこ行くの?」
突然に、私の左肩が叩かれた。私は声にならない悲鳴を上げる。身体がびくりと跳ね上がる。夜神さんだ。そう分かって、私は恐る恐る振り返った。
「どこに行くの?」
と夜神さんは繰り返す。
「え、えっと……優衣ちゃんと一緒に」
「うん、ちょっとあの子らに呼ばれちゃって」
私の言葉に付け加えるように、優衣ちゃんが説明をしてくれる。あの子らというのは、もちろん、優衣ちゃんを手招きした二人のことだ。
「でもさ、二人が呼んだのは優衣だけでしょ? 葛西は関係ないよね」
「うん、そうだけど。陽菜乃が一緒に来たいって言うから」
「ふぅん。あのさ、実は私、葛西に用があるんだよね。ちょっと借りて良いかな。ってか、二人は葛西に居られると困るんでしょ? 優衣と内密な話があるんだよね?」
夜神さんに訊かれ、二人とも小刻みに頷いた。それを見て、優衣ちゃんは困ったように笑う。
「じゃあ、仕方ないか。ごめんね陽菜乃。私、ちょっと行ってくるから、また後でお弁当食べよ」
ここに来て、私は夜神さんの狙いに気付いた。夜神さんは二人を使って、優衣ちゃんを私から遠ざけようとしているのだ。遠ざけて、私を一人きりにさせて……実行しようとしているのだ。
「ま、待って……!」
小さく叫ぶ。教室から出ようとしていた優衣ちゃんが振り返る。「どうしたの?」という優しい笑顔。助けて。言えば、きっと、優衣ちゃんは異常を感知してくれるはずだ。
「た……」
私が口を開いたその瞬間、私の左肩に乗っていた夜神さんの右手に力が加えられた。牽制するようなその圧に、私は言葉を途切れさせた。
「黙っとけ」
周りに聞こえないように小さく、しかし確かに、夜神さんは言った。こうなると私は弱い。長年の経験で植えつけられた恐怖心は私を従順にする。
「何でもないって! 行ってらっしゃいだって」
まるで翻訳家のように私の言葉を代弁する夜神さん。優衣ちゃんは怪訝そうに眉根を下げたが、外の二人に促され、どこかへ歩いて行ってしまった。
優衣ちゃんがいなくなって、夜神さんはにやりと笑う。私の背中を押して私の席まで誘導してくる。何がしたいのだろう。不安が胸に広がるが、抵抗の炎は宿らない。
私と優衣ちゃんの席にはそれぞれのお弁当が広げられている。お米が乾いたらいけないと思い、私は二人のお弁当の蓋を閉めた。ふと、後ろの席の二人————さっき、優衣ちゃんが一緒にお弁当を食べようと誘った二人————と目が合う。すると、すぐに二人は私から目を逸らした。なるほど。私は唇を噛み締める。みんな知っているのか。どうりで、様子が変なわけだ。いいさ。私だって、そっち側だったら、見て見ぬ振りをするから。
「はいはい。行きましょうね。荷物持ってねぇ」
にたにたと笑って、夜神さんは私の通学用カバンを持ち上げた。目的の見えない行動に私はひどく怯えていた。机の上のお弁当をしばらく眺めると、夜神さんはそれを雑に持ち上げカバンの中に放り投げた。お母さんの愛情が込められた私の大切なお弁当。中身が崩れちゃうから慎重に触ってと、抗議することもできない私を人は弱虫と呼ぶだろうか。
夜神さんが歩くその後ろを押し黙って歩く。校内をずうっと歩いて行くと、だんだんと人通りが少なくなってきて、ついには人気のない場所にたどり着いた。更衣室や選択教室などの並ぶ廊下。たしかに、昼休みにこの場所に用のある人間は少なさそうだ。
夜神さんによって、その廊下にある化粧室に強引に連れ込まれる。中には、生徒が二人待ち構えていた。来手さんと冬尾さん。彼女らは夜神さんの友達であり、私の中学のときの同級生だ。