溶けたアイスは甘くて
「ストラーイク! バッターアウト!」
なんで私は無理矢理グラウンドに連れてこられて、無理矢理重いバットを握らされて、無理矢理音無さんと勝負させられて、そしてあっさり負けているのだろう。というか音無さんのボール速い。怖い。絶対打てないこんなの。そもそも、こんな石ころみたいな硬いボールがもしも相手にぶつかったらどうするんだろう……。欠陥スポーツだよ、これ……。
「やったー! リベンジ成功だー!」
ボールを投げた音無さんがぴょんぴょん跳ねながら喜んでいる。喜んでくれて何よりだけど、本当に昨日の私はこの速いボールを打ったのかなぁ。
音無さんが言うには、この勝負は昨日音無さんが私に負けたリベンジマッチらしい。どうやら昨日、私は音無さんと三打席?(私には野球のルールがよくわからない)勝負をして見事に勝ったらしい。もちろん、私にその記憶はないのだけれど。まぁ、きっとまぐれだね。
借りたバットを返して、グラウンドに設置されていた屋根のあるベンチに座った。テレビでやっている甲子園で見たことがある。ここに監督が座って、サインとかを出すんだ。まさかそんなところに自分が座るとは思ってもみなかったから新鮮だった。
時刻を見ると七時半を回ったばかりだ。八時に教室にいれば早い方だから、まだまだ学校までは時間があると言える。「暑いねぇ」と音無さんが火照った顔でそう言いながら、私の隣に座った。
「すごいね、音無さん。あんな速い球投げられるなんて」
私は素直に音無さんを褒め称えた。しかし、音無さんは眉根を下げ、唇を尖らせて私を見てくる。何か文句があるような表情だ。
「優衣」
「う、うん?」
「私の名前、優衣」
「知ってるけど……」
何を意味しているか分からず、私は戸惑った。音無さんはますます不満そうな顔つきになっていく。
「優衣って呼んでよー! 仲良しなんだから!」
がしっと両肩を掴まれ、私の体が音無さんによって前後に激しく揺さぶられた。うわぁと、私は声を上げながら、なるほどそういうことかと納得していた。身体を揺らされながら、少し恥ずかしさを覚えつつ、音無さんの下の名前を呼んでみる。
「ゆ……優衣ちゃん」
「ふむ……よろしい! じゃあ、パーティーしよう!」
満足そうに笑って、優衣ちゃんは自分のリュックサックを漁り始めた。中から小さな直方体の保冷バックが出てくる。
「パーティーってなに?」
「ん? リベンジはできたけど、昨日の勝負は陽菜乃の勝ちだったからね。約束通り、バーゲンダッツのアイスを買って来たんだよ!」
「バーゲンダッツ!?」
そんな約束をしていたのか。昨日の私、ナイスだ! いや、むしろ負けていたらアイスを無自覚の勝負のために奢る羽目になっていたのか。そう考えると怖い。
「だから、アイスパーティーしよ!」
ベンチの上に保冷バックを置いて優衣ちゃんがはしゃいだ。嫌な予感がする。ただの嫌な予感ではない。部屋の壁を黒い物体がカサカサと駆けて行くのを目撃した時のような、そんな確定的な嫌な予感だ。
「え、えー!? アイス溶けちゃってる!」
保冷バックの中に手を突っ込んで、突然に、優衣ちゃんが悲鳴のような叫び声を上げた。予想通り過ぎて私は苦笑いした。こんな暑い日に保冷バックなんかでアイスを持ち歩いたら溶けるに決まっている。保冷バックは冷凍庫ではなく、冷蔵庫くらいにしか冷えないのだから。
「なんで!? なんで!? ちゃんと保冷剤入れたのに!」
すっかり中身が溶けて容器が柔らかくなってしまっているアイスを取り出して、本気で焦った様子の優衣ちゃん。その姿が面白すぎて、私は吹き出した。
「ぷっ……あは、あははは!」
「わ、笑わないで!」
「あはは、バカじゃん。保冷剤なんかじゃアイス溶けるに決まってるじゃん」
「そ、そうなの!? まじかぁ!」
悲痛な叫びを上げて、優衣ちゃんは両手で頭を抱えながら俯いた。私はなおも笑いをこらえながら、すっと優衣ちゃんの膝の上に置かれたアイスに手を伸ばす。たしかに、アイスは溶けてしまっていて、容器を触るとふにゃふにゃしている。それも面白くて、私はまた笑った。
溶けているとは言え、保冷バックの効果で冷たさは残っている。私はアイスの蓋を開けた。バニラアイスの甘い香りが漂ってくる。すっかり液体となったバニラアイス改めバニラジュース。食べられないのなら飲めば良いのさ。
「の、飲むの!?」
顔を上げた優衣ちゃんが驚いた顔で私を見た。再冷凍しても品質が落ちてしまうし、飲むのが得策のような気がする。私が頷くと、優衣ちゃんは慌てて保冷バックからもう一個のアイスを取り出た。きっと一緒に食べようと思って、自分の分も買ったのだろう。それを一生懸命保冷バックに詰める姿を想像すると再び笑いがこみ上げてくる。
「私も飲む!」
ペリペリと、優衣ちゃんもバニラジュースのカップの蓋を開けた。
「乾杯」
私は笑顔で、カップを自分の額くらいの高さに掲げた。すると優衣ちゃんも私に乗って「乾杯!」と笑顔で私の持つカップに自分の持つカップを軽くぶつけた。二人一緒に、カップに直接口をつける形でバニラジュースを飲んでみる。
「「あまっ」」
二人の声が重なった。そしてすぐに二人で笑い合った。溶けたアイスはすごく甘いけど、それが美味しい。すごく幸せだ。なんて幸せだ。あぁ、このまま、この幸せが続けば良いのに。そう切に願った。
良い時間になったので、他愛のない話をしながら、私と優衣ちゃんはいよいよ教室に向かった。教室に向かうにつれて、私の足に重りが追加されていくような錯覚に襲われる。嫌だ、帰りたい。そういったネガティブが押し寄せてきて、私は一度足を止めた。
「どうしたの?」
私の前を歩いていた優衣ちゃんが心配そうに訊いてくる。大丈夫、そう答えようとしたが言葉が喉でストップした。口が不自然にぱくぱくと開くだけで意味のある音は出てこない。
「陽菜乃!? 大丈夫?」
「だ、大丈夫」
絞り出すような声で私は言った。声は出るようになったが、今度は身体が震え始める。特に足の震えが止まらない。まるで目の前に断崖絶壁でもあるかのように、私の足は激震し、前に進むのを拒んだ。耐えられなくなり、私はとうとうその場に座り込んだ。
「陽菜乃しっかりして! どこか痛いの?」
優衣ちゃんが声をかけながら、脂汗を浮かべて座り込む私の背中を撫でてくれる。撫でられると、私の気持ちはいくらか落ち着いた。それでも立ち上がることはできなかった。
逃げるのか? と自問する。逃げたくない! と自答する。たとえ、これから行く教室に恐ろしい敵がいたとしても、もう一度立ち向かいたい。そして優衣ちゃんと一緒に、自室のベッドの上でひたすら憧れていた、楽しい高校生活を送りたい。
ゆっくりと、私は立ち上がった。まだ、足は震えているし汗は止まらないけれど、一歩、足を前に踏み出した。
「心配させてごめんね。も、もう、大丈夫。ちょっとふらふらしただけだから……」
不安に思わせてしまった優衣ちゃんに謝る。すると、優衣ちゃんは私の目をじいっと見つめて、
「ねぇ、陽菜乃。昨日も言ったけど、何か困ったことや辛いことがあるなら、言って欲しい。私は陽菜乃の味方だから」
と言った。言った後、「何ができるか分からないけどね」と軽く笑ったが、優衣ちゃんの目は真剣だった。その瞳を見て、私は泣きそうになった。
————私ね、いじめられてるんだよ。助けて、優衣ちゃん。
言ってしまいたかった。縋り付きたかった。きっと優衣ちゃんは助けてくれる。でも、優衣ちゃんが私のために動けば奴らのターゲットにされてしまう危険が生まれる。私のために、優衣ちゃんが水をかけられたり、タバコの火を肌に押し付けられるなんて、そんなのは嫌だ。
「大丈夫だよ、本当に何でもないの」
毅然とした態度で、私は再び歩き始めた。教室に向かって一歩ずつ。足が震えているのを、優衣ちゃんに悟られないように。