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Bar Infinity  作者: 五嶋 雛子
1/1

~君の居場所になるために~

BAR「Infinity」のマスターは今日も開店準備に忙しかった。

常連のお客さま方にこの店は変わらないね、と言われるには 理由がある。

同じ空間を維持するのではなく、客が人生を歩み進めた分、 店の方もゆっくりと進んでいるからだ。

その歩みのペース配分が絶妙である。もちろん日々の準備も入念に時間をかけている。

変わり行くものと変わらないもの、それらがうまく調和しなくては意味がない。

重厚な作りの内装を毎日丹念に磨き上げる。分厚い一枚板のカウンター、太い真鍮の肘掛。

暗い店内では分かりにくいが、壁紙は煙草の煙が染み込んでセピア色になっている。

それさえもこの店の味だと言える。

今日は何の音楽をかけようか、そんなことを考えながらマスターは扉を内側から開き、狭く短い廊下の先にあるもう一枚

の重くしっかりした造りの扉を開ける。

表の看板をOPENに変え店内へと戻りながら、今日かけるレコードを選ぶ。そうだ、こんな日こそ突き抜けて明るい曲が相

応しい。歩きながら頭の中でレコードを探した。



とあるビル、繁華街の大通りから一本入った小さな通りを更に曲がった所にそのビルはある。

地階へと降りる木製の階段を一歩一歩、踏みしめながら足を下ろす。

忠義がバーに行くのは初めてだった。飲み屋なら何回か経験はある。バーは大人の男が行く店で自分にはまだ関係がないと思っていた。

いつものように心斎橋を歩き、一本細い道にふらりと入り込んだ。夕焼けがビルの隙間から差し込み、雑居ビルの階段を

照らしていた。いつもなら見落としてしまいそうな階段が目に留まる。静かそうな場所ならどこでも良かった。バーで追

い出されるようなら、その時はまた違う場所を探せばいいだけだ。そう思って階段を一段、降りる。

むしろ客としてではないなら、受け入れてもらえるかもしれない。

階段の一番下の段を降り、地上の喧騒から逃げるように重い扉を開ける。

ゆっくりと動くドアの向こう側にはもう一枚、会員制と書かれた扉があった。


I.W.ハーパーの薄い水割りを作り、カウンターの右端の席に置く。2月16日、今年は木曜日。この水割りを作るのは何回

目だろう。マスターは開店までの一人の時間を彼との時間だと思い、静かに時を過ごしていた。

一曲目は彼の好きだったワルツ・フォー・デビィをかけると決めていた。二曲目にはパティー・オースティンをかける。この曲が終わる頃にはいつもの客が姿を見せるはずだ。

二曲目も中程で、扉をノックする音が聞こえた気がした。

ただの興味本位の客ならば会員制の表示を見て帰るはずだし、常連ならなんのためらいもなく入ってくる。勇気を振り絞って、ノックをした強者だろうか。音楽が止んでしばらくすると足音がして、表の扉を開ける音と常連客のヒナの声がした。

いらっしゃいませと挨拶したマスターに対し、ヒナは困った顔をしている。

ヒナは毎日のように通ってくれているニューハーフの店の店員だ。休日には男の姿で来る時も多い。今日は開店前に

立ち寄ったらしく、華やかなオレンジのドレスとアップにした髪がひときわ美しさを際立たせている。

「マスター、そこで拾い物しちゃった。可愛い男の子、ここで雇ってもらえないかって」

マスターは戸惑うことなくほほ笑み、椅子を勧める。ヒナが拾い物をするのはこれで何回目かになる。目の前の居心地が

悪そうに立っている青年は、20歳前後といったところだろうか。

確かにマスターもこの店にはもう一人くらいボーイが必要だと感じ始めていた。ただあまりに唐突な申し出に、二人とも

何かを感じないわけもなく、様子を見る時間が必要に思えた。

即断は無理だけれども、まずは雇ってみようか。目の前に座る青年を観察する。性質はきっと悪くない。ただまっすぐに

生きてきたようにも見えない。どこかきちんと挫折したことのある、折り目のようなものが見える。

既にいるボーイの安田とうまくやっていけるようであれば、特に問題もなさそうに見える。

「何か問題があるようなら、うちに連れて行こうかしら。悪くないと思うの」

考え込むマスターの様子を、断る理由を探しているのかもしれないと思ったのか、ヒナがそんなことを呟いた。

青年はまるで他人事のように、どちらでもよさそうな顔で立ち尽くしている。

「いや、大丈夫。ただ安田くん、うちのボーイをしてくれている子と話をしてみてくれませんか。実際、一緒に仕事をする

のは彼ですから、彼の面接に受かれば働いて頂いてもかまいませんよ」

「よかったじゃない、マスターはね、こう見えて優しいのよ」

そのうちに大倉はヒナと二人、スイーツの話に花を咲かせていた。マスターは口を挟まず、大倉の話し方や態度を見てい

た。喋り口調も落ち着いているし、何より声に静かな響きがある。

本当に安田との相性次第だな、と思っていた。

その安田が珍しく時間ぎりぎりにやってきて、慌ただしく着替えを済ませて店内へと入ってくる。

「遅くなってすいません」

大倉とヒナ、そしてマスターの視線がそれぞれの思いを乗せて安田へと向かった。


全員の視線が安田に集まる中、初めに口を開いたのは安田だった。

「寄り道してたら遅くなってしまって………すいません、 何かありました?」

どこに行っていたかは大体の想像がついた。

微かに香る匂いと少し赤くなった目。

誰もが次の言葉を続けにくい状況で、大倉が席を立つ。

「すいません、トイレお借りできますか」

案内をするために席を立ったヒナと二人、店を出て行く。

二人とすれ違うようにして、若干うつむき加減のまま、安田はカウンターの中へと入った。

カウンターを一度見渡した後、自分の仕事に取り掛かる準備を始める。

「渋谷さんには、僕もお世話になりましたから」

「そうですか」

「それよりも」

顔を上げて、少し引きつった笑いを浮かべながら安田は話題を変えようとした。

マスターは視線は手元のまま、話を聞いている。

「僕の大学の友人が一度遊びに来たいと言ってるんです。 一度だけで良いからとかなりしつこく言われていて……

止めはしたんですが、もしかすると無理やり来るかもしれません」

「かまいませんよ」

興味半分で来るとしても、半数は表の扉からこちら側に入ってこようとはしないし、案外一度来てしまえば大体の雰囲気

をつかんで、二度三度来る事は稀な気がする。好奇心を充たしてやればいいだけで、後はまた違う対象に興味が移るだろう。

ただ、口出しをするのも下世話な気がして、マスターは口をつぐんだ。

扉の開く音がして、青年が戻ってくる。背筋を伸ばして大股で歩く姿は、薄暗い店内で長身で細身の体型をより引き立たせて見せている。これで安田と同じ、黒い制服を着たらよく映えるだろう。若干、足ががっしりとした印象があるがそれが返って健康的に見える。

「マスター、安田さん、ごめんなさい。お待たせしてしまって申し訳ありません。ヒナさんはもうお店に行かれるって、そのまま出ていかれました」

安田の視線が大倉へ向き、一瞬素の表情になりかけたのを踏み止まって直し、笑いかける。目だけは真剣なままで。

大倉は視線が合うと困ったように下を向いた。そして思い直したように顔をまっすぐに上げると、安田に視線を返した。

その間もずっと安田の目は、値踏みするかのように大倉を見たままだった。

BGMのピアノの音が一層大きく響き渡る。

その音を聞いて、安田の視線をものともせずに大倉が微笑んだ。

「あ、これ『枯葉』ですよね。僕、好きなんですよ」

にこやかに言った彼の顔を見て、安田が嬉しそうに笑う。

この曲は安田の好きな曲のひとつで、彼が昔の常連客から最初に勧められたもののひとつだった。

ビル・エヴァンスのピアノが一緒に嬉しそうな音を奏でている。

すぐに二人は笑いながら話しだし、マスターもボーイが増えたことを静かに喜んでいた。


3日もすると大倉もボーイとして慣れ始め、ヒナも毎日のように顔を出しては「自分の拾いものにハズレはない」と笑って話すようになっていた。どうやら彼はヒナの家に居候しているらしく、いつも帰る時には連れ立って帰って行った。

いつのまにか兄弟のようになりつつあるヒナとボーイ達の関係を見ていると、大倉がこの店に来たこともヒナと出会ったことも、めぐり合わせのように思えた。

「そういえば今年は来られなかったですね、例のお客様」

「2月16日には必ずご来店されていたんですが………きっとお忙しかったんでしょう」

よく事情が飲み込めていない大倉にヒナが説明する。

「毎年、2月16日には決まって、あの右端の席に来るお客さんが居るんだけどね、今年は来なかったっていう話」

「何か特別な日なんですか?」

「うーん、その人にとっては特別ってことじゃないかしら」

珍しくどこか濁すような口調のヒナにおかしさを感じたものの、大倉は納得することにしたらしく三人で何事もなかったのように無邪気に笑って話している。

やがて大倉が席を立つと、安田がそっとワルツ・フォー・デビーをかける。

「あれから、3年も経つのね」

「はい。この前、安田君が渋谷さんに会いに行っていたようですよ」

「そっか……マスターがお客様のプライベートに立ち入るなんて珍しいじゃない?」

「安田君はかなり渋谷さんにはお世話になっていましたし。ただ、あまりお客様のことはあれこれ詮索しないことも大切だと一言添えておきました」

「マスターらしいわね」

マスターとヒナはお互いに視線を合わせることなく、話し続ける。

「大倉君にもにもいつか話すの?」

「いえ……必要ないかと」

「そうね、昔の話だもの」

そう言うとヒナは見たことがないライターを手で弄ぶ。ヒナ自身、煙草を吸うことはなかったが商売道具として必要らしい。

「これね、あの子からもらったの。居候しっ放しも悪いからって。よく見たらデュポンの限定品よ。多分、おぼっちゃんなんだと思う。しかもセンスもいいから成り金とも思えない」

ヒナがマスターへと差し出したライターは、たしかに安田が欲しがっていた高価なものによく似ていた。もし本物だとすれば10万は下らない。そんなライターを日用品として持ち歩いており、成り金でもなく、怪しい商売でもなさそうだとすると、医者か弁護士の息子、あるいは企業の社長令息辺りだろうか。

「家出にも複雑な事情が絡んでるんじゃないかしら」

「それこそ、あれこれ詮索しないことも大切なんじゃないでしょうか」

「そうね」

マスターの言葉にヒナはそう返すと、会計を済ませて、帰り支度を始める。

途中で大倉を拾って帰るからと店を出て行くと、机の上にはライターが取り残されていた。

「マスター、これカウンターの中に置いておきます。きっと明日も来られると思いますし」

安田がライターに手を伸ばした時、丁度店の扉が開きスーツ姿の青年が入ってきた。

「いらっしゃいませ、村上様」

「お久しぶりです、マスター。今年は少し遅刻してしまいました」

安田は急いでいつもの水割りの準備を始める。

村上は机の上に置きっぱなしになったライターを見て、少し顔をしかめた。

「これ、どなたかの忘れ物ですか」

「えぇ、大変申し訳ありません」

「もしかして10代後半くらいに見える、少し背の高い男の子のものでは?」

「当店の常連のお客様のお忘れ物です」

少し安心したようにため息をつくと、村上はライターを名残惜しそうに見つめ、右端から二つ目の席に座る。

「もう、3年も経つんですね」

「はい」

薄く作った水割りを片手に、肘を着く。

3年前は大学を卒業したての青年にしか見えなかった彼も、今はどこかしっかりしてきたように見えた。

「やっぱり先程のライター、見せてもらってもかまいませんか」

マスターがやんわりと断ろうとした矢先、安田がライターをカウンターから取り出す。

曲が切り替わり、トランペットが切ない音を奏で始めた。

静かに扉が開くと、そこには大倉の姿があった。

落ち着いた表情で村上の後ろまでまっすぐに歩いていくと、 ライターを取り上げた。

「なんで、ここに居るんですか」

事情が飲み込めないまま、マスターと安田は息を呑んで二人を見つめた。

トランペットの音が高らかに旋律を奏でて、村上のため息をかきけした。

「また連れ戻しに来たんですか」

見たことがないくらい冷たい瞳で、大倉が言葉を 投げ付ける。村上はその表情を見慣れているのか、特に驚く様子もない。

カウンターにグラスを置くと、マスターと安田に軽く頭を下げる。

「きちんとお話しませんか、忠義さん」

「僕は帰りませんよ」

「今日はそういう用件ではなく……」

言いかけてあきらめたように、村上は席を立つ。

清算を済ませると、安田に水を頼んだ。

「お父様も心配しておいでです」

「父を引き合いに出さないでください。連れ帰らなければ村上さんが何か言われるだけだ、僕には関係ない」

トランペットのソロが響き、店内の緊張がいやがおうにも高まる。

忠義の言葉をうけて、村上の表情が少しだけ揺らぐ。

「そうやってまたごまかされるんですか。いずれは会社を継ぐお約束のはずです」

「会社のことなら村上さんの方が、父の傍で何年も頑張ってきて よく知っているはずです。それに僕が会社を継ぐなんて

ただの口約束でしょう」

二人の話がよく理解できないまま、安田が申し訳なさそうにカウンターに水を置く。

沈黙を埋めようとしているかのようにピアノとトランペットが競って音を大きくしていく。少し暗目の店内の照明も二人の

対照的な姿をより際立たせていた。

「村上さんだって秘書なんかじゃなくて、社長の座を狙ってみればいい。本当はそれを望んでるはずです」

大倉が言い終わるか終わらないかくらいの間で、村上がカウンターの水を取り大倉へかけた。

咄嗟の出来事に驚き、安田がタオルを取りに裏へと急ぐ。

「甘ったれるのもいい加減にしてください。忠義さんまでそんな調子では困ります。弟の貴志さんに負担がかかることもお考えになってください」

「いい加減、他人のためのふりを辞めた方がいいんじゃないですか?村上さんのやってることは、決して父を振り向かせることはできないんだから」

右手に握り締めたグラスをそっとカウンターに置く と、音もなく扉を開いて村上が出ていく。

「大倉くん、あなたは今日限りクビです」

分かりすぎるほど分かる。だからこそ頑張ってほしい。

マスターの出来る限りの心遣いだった。

タオルを持って帰ってきた安田は状況をいまいち把 握できずに戸惑っていた。大倉にタオルを手渡すと、心配そうな面持ちで二人の顔を交互に見る。

「もう少し考えてみてください」

「でも………」

大倉の表情から安田はいけないとは思いつつも口を 挟んでしまう。

「マスター、酷すぎます」

「安田くんは少し黙っていてください」

ここまで強く言うマスターを初めて見た安田は、自然と口を閉じる。

「大倉くん、私から言えることはそれだけです。ここは子供が逃げてくる為の場所ではありません」

「ヒナさんが……待ってくれていると思うので今日は帰ります」

力なく両肩を落とすと、タオル片手に大倉は外へと出て行く。追いかけようとした安田を目で制し、マスターは無言でカウンターを拭き始める。

先程まで響いていた音楽は静かなバラードへと変わる。

気まずい沈黙の中でゆっくりとピアノが流れ、時間が過ぎていく。




「こんばんは」

沈黙を破るようにして近くの店のホストが二人、店へと入ってきた。

黒っぽい細身のスーツに身を包んでいるが、意外にも崩れた印象はない。仕事終わりに余裕があれば二人で

立ち寄り、飲んで帰るようになったのは1年ほど前だった。二人揃って来ることもあれば、一人だけが来ることもある。どちらにしても店のお客を連れてくることはなかった。長身の方が内、背の低い方が錦戸という源氏名だった。

長身の内は少し細長い印象で髪の毛もかなり茶色い。表情が優しくどこか傷つきやすそうにも見えるからか、外見の印象よりも崩れて見えることはない。

錦戸は華やかな雰囲気を持ちつつも、どこか反抗的な少年を思わせる。中に柔らかくて傷つきやすい部分を持ちつつも、冷静で高慢とも取れかねない態度で周りを包んでいる印象があり、打ち解けるまでは時間がかかった。

そんな二人を安田はいつもにもまして嬉しそうに迎える。

「いらっしゃいませ!内様、錦戸様」

そんな安田をさらりと無視して、2人はマスターへと話しかける。

「マスター、こんばんは」

「マスター、聞いてくださいよ」

がっかりした様子の安田の様子を見えない振りをするあたりも、二人が安田と仲が良いからこそだった。

席には座らず話を続ける二人に、いつもと少し違う様子を感じつつも話を聞き続ける。

「そこの角でたちわるいのが居たんですよ、ここの辺りは人が少ないのにね。珍しく女の子が絡まれてて。大学生くらいで、心斎橋の辺りには居そうだけどここにはたまたま迷い込んできたような可愛らしい子だったんで、助けようかなと思ったんですが先に助けた人が居てたんですよ」

夢中になって話をする内の話に錦戸が横でうなづく。俺らは顔見えへんかったから、かわいい子かどうかまでは分からへんはずやけど。と一言付け足すあたりが、錦戸らしい。

「そうですか」

「助けた人、つまりヒーローですけど、誰だと思います?」

「そうですね………ヒナさんあたりでしょうか」

マスターの答えに、驚いた顔をして二人が顔を見合わせる。

「なんで分かったんですか?」

「ただの勘ですよ」

「その女の子、この店探してたみたいで。20歳前後なのに渋い趣味だなぁって思って」

「何で聞きつけたのかよく分からないんですけど」

扉が開く音がして、タイミング良くヒナが「また拾いものしちゃった」と笑顔で入ってくる。メイクも落としブルーのTシャツにジーンズというドレスとはかけ離れた姿でも、どこか女性的な優しさを醸し出している。

後ろからはどこか見たことのある雰囲気の女性が1人。

内が言うように20歳前後で可愛らしく、この店に来る雰囲気のお客とはまた違った感じがあった。

顔を上げると、驚いた顔をして口元を押さえる。

「お前、なんで来てんの?」

安田と錦戸、二人の口から同時に言葉が飛び出し、彼女は顔を見合わせた二人から見えないようにヒナの後ろへと隠れた。

マスターの勧めに従ってまずは端の席に女性が座り、ヒナ、亮、内の順で並んで座ることになった。一方の安田はどこか落ち着きを取り戻せないまま、マスターに頼まれた買出しのために外へと出て行った。


ヒナが気を使って世話を焼こうとするものの、どこか空回りしてしまう。

「なんでお前がここにおんねん」

亮が不機嫌さを隠そうともせずに、彼女に話しかける。

「友達に会いに来てん」

「友達って誰やねん」

カウンターの向こう側を困ったように見る彼女に営業用スマイルを返すと、マスターはゆっくりと落ち着いた態

度で安田君のお友達ですかと問いかける。

「あいつか、あいつは辞めとけ。安田にお前は似合わん」

いつもは口を挟まない内が、続けるように口を開く。

「とりあえず亮は黙ってないと、妹さんも何も言えないよ?ヒナさんの影になって、さっきはよく顔が見えなかっ

たけど……よく似てるよね。お名前は?」

「言わんでいい」

切り捨てるように亮が言い放つと、席を立つ。彼女の方へと歩こうとして、内とヒナの両名に阻まれる。

「とりあえずは来ちゃったんだから、少しは話を聞いてあげたら?」

「何か、お飲みになりますか?」

マスターがいつになくやさしい微笑みを浮かべて、彼女へとメニューを差し出す。

さりげなく出されたそれは、一見したところ書いてこそいないがノンアルコールのものばかりが載っているもの

だった。

視線がメニューを上から下まで何度か往復したあと、一番上に載っているメニューを指差して注文する。

綺麗に彩られつつも子供っぽい色の爪とふっくらした指が、彼女の雰囲気をより一層幼く見せている。

「じゃあ、このアラベラ・フィズを」

「かしこまりました」

マスターが準備を始めると、ヒナが話しにくいだろうからと席を立って内を連れてテーブルの方へと移動する。

「お前、どうしてこんな所に来てん」

「お兄ちゃんこそ……最近忙しいのは分かってるけど、全然連絡くれないし」

「俺のことはどうでもいい。安田に会うために、こんなところまで来たんか?」

声を荒げた亮から顔を背けるように、俯いたまま声を出さないでいた。

二人の間をとりもつように、マスターが彼女の前にカクテルを置く。

「お待たせいたしました。もしかして、お兄様に会うためにこちらを訪ねて来られたのではないですか?」

彼女はマスターの声に、下を向いたまま頷くとカクテルを一口飲む。

「……美味しい」

「ありがとうございます」

亮は気まずそうに顔を背けながら、煙草に火をつける。

「そうなんか?」

「何が?」

「俺を探すために、こんな所まで来たんか?」

「お兄ちゃん、素直には居場所言うてくれなかったやん」

「アホか」

「アホはどっちよ!」

「とりあえずお前はもう帰れ。今週の週末には家に帰るから、その時に話しよう」

「そうやってまた逃げるん?絶対離れへんから……お兄ちゃんがきちんと話してくれるまでこの場所から動かへん」

駄々をこねる子供のようになった妹を苛立たしげに見ながら、亮は二本目のタバコに火をつける。

「とりあえずここから動かないっていうのは、マスターも困るだろうし」

「家まで送ってあげたら?亮」

ヒナと内が彼女の後ろから声をかけると、まだほとんど吸い終わっていない煙草をもみ消す。

「送っていってたら明日の仕事に影響出るから今日はうちに泊まらせる。帰るぞ」

「二人きりだと気まずいだろうし、明日もあるから帰ります」

亮が妹とヒナを連れて店を出て行くのと同時に、安田が店へと帰ってきた。

事態がいまだ飲み込めていない安田と女言葉ではないヒナに驚いた内が、店を出て行く3人を見送る中、マスター

だけがありがとうございました。といつも通りの対応で送り出していた。


急ぎだとは思えない買い物のメモを片手に、安田はいつもの店へと向かっていた。

ここ最近は大倉と二人で行っていた仕事だっただけに、寂しさが募る。もちろん大倉のことだけではなく、彼女のことも

気になっていた。

なぜ彼女が店の常連客であるホストとあんなに親しげなのか。

いつもは保守的で彼女から店の事を聞かれてもうまくかわしそうなヒナが、あれ以来彼女を守るようにして店に来ている

ことも納得がいかない。

いくつもの疑問が、聞きたいのに答えが怖くて、聞けずにいた。

信号が青に変わったのに、一歩が踏み出せなくて煙草に火をつける。

先端に赤く炎が燃え移ると、咥えたままで息を吸い込む。

肺の中に煙が入っていく感覚が、少しだけ気分を落ちつかせてくれる。目の前の道路には同じように買出しに出ていく男が何人か見える。この時間、街はすっかり闇に包まれているはずなのに、この一角だけはいつでも明るさを失おうとはしない。むしろ昼よりも夜の方が明るいくらいだ。

大通りに出るとヘッドライトの群れが、目の前を流れていく。

光の流れが作る川は、ひと時も同じ形をとどめていない。

今の居心地がいい店の空気も、きっとしばらくすればまた、どこか変化していくのかもしれない。

煙草を携帯用灰皿でもみ消す。ほんの少しの間でも店を開けていることが怖くなって、変わりかけの信号を走って渡る。

横断歩道の真ん中ですれ違ったスーツ姿の男はどこか街から浮いていて、振り返って観察してしまう。

見覚えのある体格だけれども、あんな姿の男に知り合いは居ないはずだ。

明らかに上等な生地で仕立ててある、趣味のいいスーツに磨きこまれた地味だけれどもセンスのいい革靴。

ネクタイの色も派手ではないが、海外ブランドのロゴがさりげなくあしらわれている高そうなものだ。

何より、袖口から少しだけ覗いていた自分とは縁がないと思いつつも憧れた腕時計は、雑誌に特集を組まれるほど人気

のものだ。確か、何百万もするものだったと記憶している。

わき目も振らずに細い道へと曲がり入って行く横顔を反芻してみる。大倉を訪ねてきた、例のお客だった。

(村上、って言ったっけ)

声をかけようかと後を追いかけたけれども、そこにはもう姿はなくただ上品に香る香水の匂いだけが残っていた。

歓楽街を歩きながら、信五は昔のことを思い出していた。忠義の行方は相変わらず分からないままだ。

このまま見つからなければ、別の手段を考えなくてはいけない。途中、見たことのある顔がこちらを眺めているのに気づく。忠義が姿を消す直前まで勤めていた店のボーイだったように記憶している。

どこかまだ幼さと純粋さを残すボーイの表情にイラつきを覚えながら、足早に店へと急いだ。



忠義のことはいつからか弟だと知っていた。

周りの大人たちの空気を読むことが、自分が生きていくための術の一つだと学んだ頃だっただろうか。

周囲の大人たちでさえ腫れ物に触るように扱う小さな男の子。大人たちの中で、甘やかされる事に慣れていながらも、どこか冷静な視点を失わない忠義の目が信五を強く惹きつけた。

「お前、ここで何をしている」

「忠義さんのお父様に呼ばれて、パーティーに参加させてもらっています」

「父の部下か」

「いえ、違います」

「じゃあ取引先の方か」

「いえ」

「どっちにしろ、お気に入りには違いないわけだ。そんな目をしてると、潰されるぞ。気を付けるといい」

自分が懸命に馴染もうとしていた世界にもすんなりと入っていける環境と性質を持ちながらも、どこかそれらを冷たく突き放すような態度を隠しているように見える弟。

興味深く慎重に近づいていった信五を突き放すでもなく、囲い込むわけでもなく。

ただ傍にいることを嫌うわけでもない。

ゆっくりと空気になっていく感覚は、忠義独特の距離感で保たれていた。

近づきすぎれば拒否され、遠ざかっていくことも許されない。

小さな弟はすぐに信五の興味の対象となった。もちろん、忠義自身は無意識ではあったが。



そうやって生きながら、大学受験を迎え、期待に添って地元の国立に入っても周りの目は変わらなかった。そして国家試験に在学中に合格することも出来ず、自分の能力の限界を感じた時、ふと隣を見ると弟が居た。

何かに夢中になるわけでもなく、かと言って大きく道を踏み外しているわけでもない。

人に媚びることはないのに、媚びられてもうわべの表情は取り繕える。

そんな弟が少し過食に走っていることには、信五以外誰も気づかなかった。

強そうに見えるのに、自分が出来る限り守ってやりたいと思うほどに脆い精神に思えた。

「忠義さん、宜しければ海へ行きませんか」

そう言って連れ出した和歌山の海で釣りをしたり、ただ何もせずに一日を無為に過ごした。

ほんの3日間だけのこと。それでも彼は、視線をそらしてではあるが、ありがとうと呟いた。

精一杯の感謝の言葉だと、分かった。


ある日、呼び出された父の部屋での会話はきっと一生忘れることはない。

「私は経営者だ。そして忠義に後を継がせたいと思っている」

父は仕事の指示を与える時とは全く違う真剣な眼差しで、信五の瞳を覗き込んだ。

「組織に二人もトップは要らない。優秀な人材は豊富にいたほうがいいが、太陽は2つも要らない。この意味が分かるか」


その日から自分の力を誇示することが全てではないと生き方を変えて、陰に徹してきた。周囲には父親に気に入られるために、そんなことをしているのだと思われてもよかった。

あの日、自分を必要だと思ってくれる存在が居たというだけでよかった。

そこに自分の存在理由を作ってくれた、小さな支配者が自分の人生の全てだった。

たまに、誰にも言えない愚痴が溜まった時や、人の目を気にせずに居らる場所が欲しい時に行く、バーがあった。

馴染みのバーの常連とは、お互いの立場を気にせず話せることもあり、つい一度本音を漏らしてしまったことがある。

「たとえ、他の誰かが何かを言おうと俺は俺の信じることをやる。それだけで充分やねん。自分に自信がないのかもな」

相手が笑うと思って顔を上げた時、真剣な顔で信じるものがあることは大切やと思う。と返された時には、涙がこぼれそうになった。

そうやって励ましてくれた相手は自分を置いて、この世を去ってしまった。大切な相手だと気づいた時には遅かった。


あれほどまでに忠義を守ろうと思っていたのに、自分はどこかで間違ってしまったのだろうか。

答えの出ない考え事をしながら、忠義の行方を探して、ただ1人の影を探して信五は街を歩いた。


痛々しいほど、自らの刺を伸ばして周りに対して壁を作っているくせに、どこか寂しがりの面がある。

ハリネズミの恋。


どれだけ好きでも結局のところ、残していくことしかできないと分かっているのであれば、自分から手放して憎まれる方が良い。すばるはそういう人だった。


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