後悔
布が勢いよく裂けるような音がした。僕の耳の後ろで。禍々しく不気味で、つい後ろを振り返った。
「…―!」声にならない悲鳴というのをたった今、身をもって知った。
そこで呼吸をしていたのは、筆舌に尽くし難い存在だった。骨格に血色も感じさせない青白い皮と薄い肉、原型もない襤褸を身につけただけの幻妖。顔は団子っ鼻から垂れ耳までに伸びて、おまけに手足の指も四本だったから犬が二足で立っているようだった。鼻の下から覗く赤い舌はてらてら光って、不気味なほどに鮮やかだった。
この化物から逃げようとするあまり、後ずさった時に尻餅をついてしまった。次に床を踵で蹴るも、革靴だから上手くいかなかった。その間、化物は金色の瞳を恨めしそうにぎらつかせ、僕を睨め付けた。ひいっ、と声にもならず、喉の内で悲鳴が死ぬ。まるで目の前に胃袋の底まで飢えた百獣が狙って来ているかのような錯覚に陥った。そして気付く…そうか、今の今まで、こいつは自分の中にいたのだ、と。
「おでの、おでの獲物だ、横取りするなぁッ」肉食獣の咆哮のようなどら声と共に、化物は僕に飛びかかって来る。
化物の赤い舌、その更に奥で光る牙を見て…刹那、不思議な心地がした。それを言葉で表すなら〝果てのない後悔〟だ。その時、ただ僕は漠然と目の前に広がる【死】の気配に成す術なく跪くのみだった。
(母さん。聡子、聡太、英明、愛華―)
それまでずっと、しこりのように感じていた家族。でも今はすごく会いたくて会いたくて堪らない、だって皆は僕の大事な―
「あまり車内で撃ちたくないんですがね」
この状況にはあまりに場違いな、落ち着いた低声。同時に花火が咲いた時と似たような音が耳元で響いた。間もなくして視界全体を赤い何かが広げた。生温い液体のような感覚が頬を伝い落ちる。指の腹で拭うと、嫌でもその正体がわかった。血だ。しかも今自分に襲いかかろうとした化物の。何故それが判ったのかと言えば、目の前で脳天から夥しい量の血を噴き出す、例の化物が悶えていたからだ。頭に風穴を空けられても未だに生きていられるだなんて、流石化物と言ったところだろう。足音がして隣を恐る恐る窺えば、そこには化物に銃口を向ける津島車掌の姿があった。だがその腕はやがて下ろされてしまう。それを見て化物は鼻で笑った。
「馬鹿め、うつけめっ。おでは死なないッ、銃如きじゃあ…あで?あででで」
まるで普段とは勝手が違った時に出す、間の抜けた声だった。依然として化物の額からは血が流れ出るままだ。
「何でぇ、何でだぁ!それはただの、ただのぉ…ッ!」
突然、化物は眼球が零れ落ちそうなほどに瞠目する。声も奪われたかのように何も叫ばなくなった。
「おっ、おまえ、まさかっ。あの…」
「…来世で、貴方の生に救いがあらんことを」
車掌はただただ平淡に、その言葉を口にした。今から絶命するこの化物に何の憐れみも怒りも抱いていないかのように、淡々と。
化物は以前にも増して呻き声を上げ始める。やがて弾痕をはじめとした傷から渦を巻くようにして、化物の身体は軋み、撓み、折れ曲がっていった。最後には肉片も血も跡形もなく消えてなくなった。どういう原理でそうなったのかはわからない、ただそれらはまるで幻のように何もかも全てなくなっていた。僕の頬を流れていた返り血さえもだ。