常識
「それまでに一つお尋ねしたい事があるのですが、松田様はこの世の常識についてどこまでお疑いですか?」
「…は?」
まるで自分の爪先の先で出現する筈のない生き物が、現れたかのような不意の衝かれ方だった。今までだって突拍子もない事を立て続けに目していた癖に。
「非常識はある日突然に常識に変わる。生き物の進化や文明の発達など正にそうではありませんか。嘗てこの星の上を跋扈していた恐竜が絶滅するなんて誰が予測したでしょう。天動説が誤りだった事など現在ではガリレオ以外の人物でもご存知です」
何故だろう。脳が正常に動かない。思考したいのに、この津島という少年の真意を汲み取りたいのにそれができない。頭蓋骨の中で霧が渦巻いているようなのだ。そしてそれは次第に濃くなっていく…「そ、れはどういう…」そう訊ねるのが精一杯だった。先刻まで僕の目線より低い位置にあった彼の双眸は、今や僕の旋毛より高い位置で爛々としていた。
「松田様、今夜、貴方の頭骨の中の常識は大きく変わる」
それは最早予言ですらなかった。紛れもない事実だった。そう僕が知るのも今晩の事だ。
「この世には貴方がたの知る人の世界ともう一つ、違う世界が存在します。名は【魔界】。古よりそう呼ばれる、我々でも知り尽くせぬ秘境です」
朦朧とした意識の中、耳に心地よい声が鼓膜を叩く。それが語るのは到底、信じ難く受け入れ難い内容だのに脳の奥で確かに浸透していた。水面に出来た波紋のように。
「そこに住むのは二つの異形、天敵と天敵。人を狩り、喰らう【妖】と………それらを狩り、人を守って来たー【鬼人】」
ふと、不思議な感覚に襲われた。背中を覆う皮膚が中心から破けていくような、形容し難い感覚。にも拘らず痛みはない気味の悪い感覚だ。あまりの嫌悪感に僕は身体の怠さを忘れて立ち上がる。
「そして鬼人は生まれつきそう生れ落ちた者とーある時突然、異形に為り変る者がいる」
どこからか、叫び声が聞こえる。耳を澄ましてから暫くして、気づいた。それは僕の喉から出ていた。生まれてから一度だって自分の口から出るのを聞いた事がないような、苦痛に満ちた絶叫だった。寧ろどうして今まで気がつかなかったのか。こんな、一秒たりとも聞いていられないような悲鳴が自分の口から迸っていた事に。そして不思議に思った。叫んでいるのは自分の身体なのに、僕自身は苦痛を微塵も感じていなかったから。心と身体が別々になっているように。
「松田様、貴方も鬼人なのですよ。現に貴方はこの列車が見えた、そして幸か不幸か…貴方の正体に気づかず、取り憑いた妖がいる」