吐露
「…あ、」
その時、僕はまたしても、この車掌から目が離せなくなった。制帽の中に隠れていて見えなかったが、彼は長い髪を後ろで束ねて帽子の中にしまっていたのである。襟足あたりは刈り込まれていたから更に気づきにくかった。束ねられた毛先は肩の向こうでゆらゆら揺れて、車掌の性別をわからなくした。僕が見惚れているうちに、車掌は卓上の隅に置かれてあった呼び鈴を優しく振った。奥からあの若い料理人が再び姿を現した。車掌が座っている事に対して特に意に介した様子もなく、彼は首を傾げる。何か用か、訊ねているのだ。
「シャトー・シャス・スプリーン」
料理人少年はコクリと頷いてから、また奥へと引っ込んだ。だが時間を置かずして再度戻って来た時には、その両手に洋酒の瓶が一本、握られていた。ワイングラスも一つ。酒に明るくなかったから今、気づいた。あれはワインの名前だったのか。
「お酒は平気ですか?」
「え、まあ。あ、でもご馳走してもらうわけには…」
いきませんよ、と言い切る前に、料理人少年はもうワインを注いでしまった。並々注がれた酒が僕の前に出される。顔を上げると、またあの無表情が視界に入った。もう目を閉じれば瞼の下に思い浮かぶ顔だ。
「どうぞ遠慮なさらないでください。当列車の理念は【快適で思い出深い旅を】ですから。松田様にも是非、この旅を思い出深いものにしていただきたいのです」
空飛ぶ列車の理念にしては、そこらの旅行会社のようにありきたりなものだ。でも今の僕はその理念に感謝しなければならなかった。何故って他ならぬそれに心が揺さぶられている。
ワインは舌にしっかり残る味だった。ご馳走してくれた車掌には悪いが、好みの味ではなかった。しかし僕の気を許すには十分過ぎる代物だった。
「…重い話を、聞いて頂けますか?」
舌が重い。話すのも億劫だったが擦り切れすぎて襤褸同然になった心が、その舌ベロに鞭を打つ。
「私でよろしければ」
「助かります」
僕の涙で掠れた声にも嘲笑一つ見せず、美しい姿勢を少しも崩さずに、車掌は耳を貸していた。僕はその姿にすら救いを見出していた。
「実は…馬鹿な事考えてて。さっきまで」
「……」
何と説明したら相手に一番伝わるのか、そもそも説明するのも気が重い話だった。
「首を、吊ろうとしていました。あの竹藪で」
もし、この汽車がなかったら。僕は自分の愚かな目的を達成していたでしょう。
そう話した。その間、車掌は無言だった。
「最初は…仕事を少しでいいから、休みたかったんです。でも、それはできなかった…。母一人では、弟と妹たちを養えない。僕の大した事ない稼ぎでも、皆には必要だ。でも、でも。もう、疲れたんです」
母と弟妹を助けたい一心だけが、今まで身体を突き動かしていた。でも今日という日を境に、その思いは事切れてしまった。突然にも。否、予兆はあった。誤魔化し、誤魔化しで隠していた違う思いが爆発してしまったのだ。休みたい。いっそ投げ出してしまいたい。だがその思いが見え隠れする度に、自分をしっ責していた。家族を見捨てる気かと。自ら身を投げたりなどしたら、残された家族はどうなると。しかし誰しも限界がある。
「同僚の失態を、自分のミスにされました。自分の過失でもない事を謝罪するために頭を下げていて、思ったんです。俺は今一体、何のために頭を下げているんだろうって」
そして以前聞いた、夜の間生長した竹に首が引っかかってしまい、そのまま亡くなってしまった酔っ払いの話を思い出した。
「そうして…死んだように見せかければ、家族に僕の生命保険が下りると思ったんです。そうすれば迷惑もかからない。寧ろその方がいいんじゃないかっ、て」
僕は鞄の中に隠し持っていた缶ビールを卓上に置いた。それはどんな毒薬よりも上質に思えた。目の前の少年には果たしてどのように見えただろう。
「この列車は、何処へ向かってるんですか?」
「……」
「もしかして…僕はもう、」
「一応言っておきますが、私は死神の類ではありませんよ」
表情一つ変えず、車掌は遮った。
「この列車も、冥府へ向かってはいません。安心してください」
「じゃ、じゃあ」
「僭越ながら申し上げますが、必ずしも他人から欲しい答えが貰えるとは限りませんよ」
その通りだ、彼の言っている事は至極正論だ。でも今の僕にはたいへん応える物言いだった。
「ですが、次の駅には必ず着きますよ。この列車は」
「…」
一瞬何を言われたのかわからなかった。そしてこの車掌はその事に関して考える時間を与えてはくれなかった。その次に言われた事こそ、僕の答えられる範囲を越えていたからだ。