第一章 竹藪の中で
世界は私に優しい場所ではなかった。齢八の頃、その事に気付いた。この地球という名の岩の上で、自分に好くてくれる人は一切いないのだと。ただ一人を除いては。
そしてそのたった一つの拠り所が脅かされそうになった時、私は―私たちは決死の逃亡を試みた。自分たちを知らない、自分たちも知らない未知の場所へと。
その際に一つ学んだ事がある。それは―――
僕はそれまでずっと、自分が夜の竹藪の中にいると思っていた。革靴の底には確かに葉っぱの絨毯を踏んでいた感触が残っていたから、これは間違いない。それに鼻腔にはまだ竹の葉の青臭くも芳しい香りがこびりついていた。
ともかく僕が竹林の中にいたというのは純然たる事実のはずだった。現実の中で起こっていた出来事の筈だった。
では、では目の前で停まっている蒸気機関車も現実のものという事になるのだろうか?
僕の目下には今、汽車が一つ停まっていた。やけに古めかしい型だ。明治時代の生まれだと言われても信じられる。
しかも妙にリアルだ。黒い光沢を帯びた巨体も頑丈そうな動輪も本物っぽくて、試しにそのボディに触れてみると――今まで冷気に晒されていたからか、ヒヤリとした冷たさを帯びていた。
次に僕は手を自分の頬に向けて運んだ。そこを抓れば確かに感じる鈍い痛み。これで疑える余地は無くなってしまった。
僕は今確かに竹林の中に立っている。そしてあるはずもない機関車を目撃している。
別に地面に注目していたわけではないが、ここに来るまでに線路の類は一度だって見ていなかった。動輪の下にも無いし、おまけにここは竹が繁茂していて列車が走れる余裕など何処にも無かったはずである。でも今はどうだ。竹の合間を縫って来たかのようにこの汽車は停まっている。
僕は暫くの間、その機関車に沿って歩を進めた。見れば見るほど、この列車は実在の物だという現実味が増すばかりであった。遠くの煙管から噴かれる白い蒸気も車体に所々付着した土の汚れも、そのどれもが現実的だった。
ただ一点だけ非現実的なのは、あれだけ竹が生い茂っていた林の中、この汽車の動輪の下敷きになった竹は一本も見当たらなかったという事だった。だからその内、僕の中では一つの推測が生まれていた。それはさながら、春の息吹を受けて大地から噴き出た新芽のようだった。
ガラリ。列車の中間辺りに差し掛かったところで、それまで人の乗っている気配がまったくしなかった列車の扉の内一つが突然、開いた。車内からこぼれ出る人工の光を背に立っていたのは、僕より背の低い車掌だった(漆黒の制服を着ていたから、そう判断した)。後光で顔はよく見えなかったけれど目鼻立ちはかなり整っている方だと感じた。彼の姿を見るまで、僕はてっきりこの列車は無人の模型か何かだと思っていたので彼の登場は些か面食らうものがあった。
「こんばんは」その車掌の口から出たらしい、澄んだテノールボイスが僕の鼓膜を心地よく揺さぶる。
「初めまして。片道になさいますか、往復になさいますか?」
――どうやらここは自分の知らない内に出来た駅だったらしい。でなければ、こんな現実味の帯びた列車や生気ある車掌に出迎えられるわけもない。そんな風に非日常を容易に受け止めてしまえる程、その時の僕は精神的に参っていた。「――片道で、お願いします」
「了解しました。どこまで?」車掌は車内から出て、おもむろに僕の方へと近づいて来た。やはり端正な顔立ちが首の上に乗っかっていた。
しかし同時に、気付いた事があった。この車掌はまったくと言っていい程に笑わないのだ。制帽を目深に被ったその下の双眸はまるでガラス細工のように爛々としていて、不思議な光を放っていた。口元は微笑を浮かべる事なく筋肉が凝り固まって言葉のみを紡ぐ。目尻は緩みもしない。汽車はリアルでも、そこに乗る乗務員はリアリティと人間味に欠けていたわけだ。その事実はどこか滑稽だった。でも僕は笑ったりしなかった。
彼の問いに答える必要があったからだ。
「――僕が、居てもいい場所」
いつの間にか僕はここの不思議な雰囲気に吞まれ、脳に最初に浮かんだままの言葉を口にしていた。普通だったら頓珍漢過ぎて、頭にも思い浮かばない、その場所の名を。
しかし車掌は深々と頭を下げてから、こう言った。
「かしこまりました。次の停車駅は、【松田孝直様の居場所】。お客様、お席へとご案内致します」
何故、彼は僕の名前を知っているのだろうとか、あんな滅茶苦茶な要求に応えてくれるのか、そもそも彼は一体何者なのか、この列車は何なのかという疑問さえ、脳内の源泉からは湧き上がって来なかった。
唯一の彼からしたかった質問は、答えを知っていても人生で何の役にも立ちはしないものだった。「すいません、お名前は何と仰るんですか?」
彼は矢張りニコリと愛想笑いもせず、無表情で答えた。
「これは失礼、自己紹介が遅れました。私、【魔界鉄道「夢追い人の足」号】車掌兼仕切り役の津島魄でございます。以後お見知りおきを」
僕はその時でさえも、この列車に乗る事にためらいを覚えなかった。